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選ばれざる火

 まえがき


 私は、どうしても選民思想というものに強い違和感を抱いてきた。

 自分たちだけが特別で、他者より優れていると信じるその思想は、一見すると誇りのようでありながら、実際には矛盾だらけで、どこか“自滅”へ向かって歩いていく集団の姿にも見えてしまう。


 優越を掲げる人々は、しばしば支える者たちの存在を忘れる。

 特別であると語る言葉は、土台である多数の命を軽視し、やがてその足場を切り崩してしまう。

 それは、まるでゆっくりと沈んでいく船の上で「自分たちは選ばれた乗客だ」と主張するようなものだ。


 そんな考えを否定したくて、この物語を書いている。


 最近、日本で起きている現実にも私は同じ影を感じた。

 人里に現れた熊を、自衛隊が「抹殺」するかもしれないという状況。

 人間が一番偉い、だから排除して当然だ――そんな言葉の裏に、選民思想と同じ匂いを感じてしまう。


 もちろん、安全の確保という現実的な問題がある以上、誰かを一方的に責めることはできない。

 だがどこかで、安全はしばしば“誰かの命が失われること”によって成立しているという矛盾にも気づかされる。

 それは、誰もが見ないふりをしてきた、特大の矛盾なのかもしれない。


 もし熊が絶滅すれば、何が起こるのか。

 熊を支えていた獣たちの数が増え、次に人間はそれを抹殺し、

 生態系の均衡は崩れ、巡り巡って人間自身が苦しむ未来へ向かうかもしれない。


 自然を排除すれば、人間もまた排除される。

 命はつながっており、他の存在を切り捨てるたびに、自分たちの足場も削り取られていく。


 選民思想は、人間社会の中だけにあるものではない。

 自然との関わりの中にも、人間の傲慢の中にも深く潜んでいる。

 だからこそ私は、この物語を通して、

「誰かを見下す思想は、結局自分を滅ぼす」

という姿を描こうと思った。


 “選ばれなかった者たち”の命が、どれほど世界を支えているか。

 その当たり前のことを忘れる危うさを、物語という形で残しておきたい。

アユムの村は、いつも静かだった。山脈の麓に広がる深い森に守られ、外の争いの気配は風の音に紛れて遠く響くだけで、誰もそれが自分たちに届くとは考えていなかった。


 彼らは“先民の教え”を守っていた。

「命は巡り、全ては等しく流れる」

 それは争いを避け、調和を尊ぶ思想だった。しかしアユムは、子どもの頃からその言葉にわずかな不安を覚えていた。


(流れるだけじゃ、守れないこともあるのではないか)


 季節が四度巡った頃、外の世界から明確な噂が届き始めた。

「選民たちが大陸を制しつつある」「彼らは“選ばれた民”だけが生き残ると信じているらしい」


 その名はエリジア。

 急激に勢力を伸ばしている思想だった。

 アユムには、それが遠い話だと思えなかった。生き残るために“特別であろうとする”思想は、調和の思想よりも強く広まる。そう理解してしまう自分が嫌だった。


 不安はやがて現実となる。

 夜明け前、近隣の村から炎の赤が空を染めた。避難してきた男は叫んだ。


「エリジアだ! “選ばれなかった者は生きる資格がない”と……!」


 その言葉に、村の空気が変わった。

 先民の教えに基づく決議は——逃げるでも戦うでもなく、「そのまま受け入れる」だった。

「命は巡る」という教えに反しない唯一の選択であり、先民としての誇りだった。


 だがアユムには、それがただの自殺にしか見えなかった。

 彼は村を離れることを決めた。生き延びなければ、教えそのものが消えてしまう。


 エリジアの領地に近づいたとき、道の脇で少女のうめき声を聞いた。

 銀色の紋章をつけた服。選民の象徴。それでも血に汚れ、震えていた。


「あなた、エリジアの……」

「ち、違う……私は逃げてきたの。選ばれし民なんて……私はそんな器じゃない」


 名をセラと名乗った少女は、選民の象徴として祭り上げられた存在だったという。

 世界を導く“旗印”。

 しかしその裏で、彼女は自分を道具にする軍指揮官ガルドに利用され、戦争を正当化するために“奇跡の少女”として振る舞わされていた。


「あなたたちの教えは、優しいのでしょう? 本当なら私は、そんな世界にいたかった……」


 アユムは胸が痛んだ。

 選民思想を憎んではいたが、彼女自身は被害者だった。


「俺と来るか? 守れるかはわからないが……」

 セラは静かにうなずいた。


 二人は、エリジアの軍勢が迫る廃村に身を潜めた。

 ガルドの軍は、抵抗する者には炎を、従う者には選民の刻印を与える。

 刻印は自由を奪い、思想を徹底させる“従順の印”だった。


「どうして彼らは、そこまで選ばれたがる?」

 アユムの問いに、セラは弱く笑った。


「選ばれた者の方が、生き残れるように見えるからよ。でも本当は違う。選ばれた者は、選ばれなかった者を殺さなければならない。それは……自分たちの命を差し出せる人だけができること」


 アユムは理解した。

 選民思想は、生存戦略ではなく“命を差し出す意志”を誇るための思想なのだと。

 それは、教えの暴走だった。


 夜。軍が村を包囲し始めた。

 ガルドは焚き火の前で叫んだ。


「セラよ、戻れ! お前がいれば世界は浄化される!」

「浄化なんて……」

 セラの声は震えていた。

「あなたがやっているのはただの破壊よ!」


 ガルドの視線がアユムに向く。

「選ばれざる者よ。死を選ぶか、従順を誓うか」


 アユムは、先民の教えを思い出した。

 命は等しい。巡る。

 だが今、自分が死ねば、教えそのものが消える。


「俺は選ばれなくていい。ただ、生きて守りたいものがある!」


 アユムは火を放った。

 廃屋の屋根が燃え上がり、煙が軍勢の視界を奪う。


「走れ、セラ!」

 二人は森へと逃げ込んだ。


 背後でガルドの怒号が響く。

「逃げても無駄だ! 選ばれた者の前に、生き残れる者などいない!」


 アユムは振り返らなかった。

 選ばれなくても、生き残れる可能性はある。

 選ばれる思想ではなく、生きようとする意志が必要なのだ。


 森を抜ける頃、セラは涙をこぼした。

「アユム……あなた、選民でもないのに、どうして……」

「誰かが生き残って、この争いが間違いだったと伝えなきゃいけないだろ」


 その日、二人は“選ばれざる者”として生きることを選んだ。

 選民思想の火は大陸を焼き続けたが、後に語られるのは“選ばれなかった者たち”が守り抜いた物語だった。


 火の奥にある未来を、選ぶための物語を。

 あとがき


 本作で描いた選民思想は、決して特定の集団を指すものではない。

 ただ、「自分たちは特別だ」と信じ、他者を劣った存在とみなす考え方が、どれほど容易に破滅を招くかを示す象徴である。


 選民思想の指導者たちは、庶民を「価値の低い存在」と宣言する。

 だが皮肉なことに、その庶民こそが社会を支え、食糧を生み、生活の基盤を作っている。

 特別であると名乗る者たちは、その足場の上に立っているにすぎない。


 だが、優越を証明したいという欲望はしばしば現実を見えなくさせる。

 庶民が排除されれば、社会機能は崩壊する。

 食べ物は届かず、道は整備されず、病は広がる。

 そして最も早く破滅するのは、皮肉にも“選ばれし者”を自称した人々だ。

 支える者を失った塔は、上の者から先に落ちてゆく。


 それでも指導者たちはその事実を認めない。

 認めれば、自分が信じていた「特別」が崩れてしまうからだ。

 彼らは現実を否定し、さらに戦争と排除を強める。

 思想が理想ではなく、ただの破壊の道具になった瞬間である。


 そんな中で生き残るのは、常に“選ばれなかった者”たちだ。

 力も権威もない彼らは、ただ静かに生きようとする。

 だが、その小さな営みこそが社会の根であり、未来を育てる土でもある。

 だからこそ彼らは、どれほど踏みにじられても立ち上がる。


 本作の主人公たちは、歴史の中で埋もれがちなその“根”の象徴として描いた。

 選ばれなかった者が生き延び、真実を残すことで、思想の暴走がどれほど脆いかを未来へ伝える。


 選民思想が誘惑のように人を引き寄せるのは、自分の価値を高く見せてくれるからだ。

 だが、どれほど高く掲げられた旗も、支える地面がなければ倒れる。

 人は誰も特別ではない。

 その当たり前の事実に気づけるかどうかで、社会の行方は大きく分かれるのだ。

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