皮膚が覚えている
前書き
この物語は、私自身が体験した事故や健忘症の感覚をもとに書いたものです。
しかし、登場する人物や出来事はすべて仮想であり、フィクションとして構成しています。
事故で失った記憶、身体が勝手に動く感覚、後悔だけが残る奇妙さ。
こうした体験を通して、私は「記憶とは何か」「自分とは何か」を考えざるを得ませんでした。
本書は、その感覚と問いを、物語という形で表現したものです。
フィクションをもとに感じたリアルな体験――つまり、ノンフィクションとしての私自身の意識と身体の記憶を綴っています。
読者の皆さんには、登場人物を追いながら、私が感じた「身体に刻まれる記憶の存在」と「後悔の意味」を、一緒に考えていただければと思います。
事故のあと、男は自分の記憶が“薄いフィルム”のように見え始めていた。
確かに自分が経験したはずの出来事が、どこか他人の写真のようで、
触れても、重さを感じない。
それなのに、身体だけは迷わない。
朝、歯を磨くときの手の角度。
歩くときに自然と選ぶ道。
知らないはずの曲を聴くと、勝手に動き出す指先。
「なぜ脳が忘れても、身体は覚えているんだ?」
医者は、脳のニューロンがどうとか、領域が損傷したとか説明した。
しかし男にはどうしても腑に落ちなかった。
“脳が全部の記憶を持っているなんて、嘘だ。”
忘れたはずの行動が、身体の深いところから湧きあがる。
皮膚は、前と同じ場所で炎症を起こす。
指先は、昔の癖を正確に再現する。
その一方で、事故の前後の出来事の記憶は、ほとんど消えていた。
丸一日、いやその瞬間瞬間の出来事は霧のように消えてしまう。
しかし、ただ一つ――
「こうすればよかった」
という後悔だけは、胸の奥にくっきりと残っていた。
それだけが、脳と身体の間にしぶとく生き残った“痕跡”だった。
ある日、廊下で足を切断した患者とすれ違った。
その人の足はもうないのに、表情には苦しそうな痛みが刻まれていた。
幻肢痛――存在しない足が痛む、という現象を、男は目の当たりにした。
「なるほど…身体の記憶は、ここまで執拗なのか」
自分はまだ全ての身体を持っている。
でも事故で失われた記憶の空白を、自分の身体が埋めていると実感した。
後悔だけが残る自分も、もしかしたらこの患者の痛みと同じ構造をしているのかもしれない、と。
鏡の前で、男はふと考えた。
「記憶って何だろう。
脳じゃない。
身体そのものが覚えている――“自分”って必要なのか?」
胸の奥に、小さな疑問が膨らむ。
“自分”とは、脳だけなのか?
身体が覚えているなら、事故で失った記憶も、後悔も、痛みも、すべて自分なのだろうか。
幻肢痛の患者と、自分の胸の後悔が、同じ身体記憶の線上にあるように思える。
男は歩きながら、自分の手をじっと見た。
指の関節の動き、皮膚のしわ、掌の温もり。
それだけが、確かに“経験”を持っている。
そして思った。
“もしかすると、自分とは脳だけじゃない。
身体そのもの、細胞や皮膚、筋肉、後悔や痛みの記憶そのものかもしれない。”
日差しの中で、男はしばらく立ち止まった。
世界は静かに、しかし確実に、彼の身体の記憶と呼応して動いていた。
あとがき
よく言われる。「人は死ぬ間際まで、後悔だけは忘れない」と。
事故で記憶を失い、日常のほとんどが霧のように消え去った私には、それがあながち嘘ではないと感じられた。
丸一日、いやその瞬間瞬間の出来事は忘れても、胸の奥にくっきり残る「こうすればよかった」という後悔だけは、身体と心の間に生き続けていた。
後悔とは、人間らしさの象徴のように思える。
ただ生きるだけでなく、経験し、間違え、考え、振り返る存在であることの証。
それは、私たちが生きる宿命のようでもある。
記憶とは脳だけにあるのではなく、身体や細胞、そして感情に刻まれるものだ。
後悔という痕跡は、私たちの「生」を体現し、私たちが誰であるかを物語る。
死の間際まで、後悔が残るということは、ある意味で、人生が最後まで私たちの中で生き続けることを意味するのかもしれない。




