強者と弱者の外側へ
◆ 前書き
強者と弱者。
その二つの言葉が、この世界をどれほど歪めてきたのだろう。
資本主義のもとでは、人は常に測られ、比較され、順位づけられる。
立っていられる者は強者、倒れた者は弱者。
そんな単純で残酷な境界線の中に押し込められ、
私たちは、自分の人生の価値さえ他人の尺度に委ねてしまう。
この構造がある限り、争いはなくならない。
国の戦争だけではない。
職場での競争、友情の摩耗、心の中に潜む終わりのない闘争。
気づけば、自分が何のために生きているのか分からなくなる。
生きる意味を探そうとしても、それすら社会の都合でねじれ、
私たちは知らぬ間に“操り人形”のように動かされている。
強者にも弱者にもならない生き方があるのだろうか。
その区分の外側に、
“人間としての本当の姿”は残されているのだろうか。
本作は、その問いを静かになぞる物語である。
● 強者の論理
「弱者は理由を欲しがるんだ」
そう言い放ったのは、私がかつて尊敬していた男だった。
どんな場面でも淡々と結果を出す、誰もが認める“強者”。
「魂の成長? 試練? そんなものは負けた者の慰めだ。
世界は弱肉強食で、結果を出した者だけが正しいんだ」
彼は平然とした顔で言った。
その言葉は、私が信じていた“癒しの物語”を踏みにじった。
弱者は信じることで救われ、
強者は信じることで支配する。
彼の瞳は、それを当然だと告げていた。
● 強者が弱者になったとき
その男が倒れたのは突然だった。
病室のベッドの上で、かつての鋭さは影も形もなかった。
「……世界は、シンプルじゃなかったらしい」
彼はかすれた声で言った。
「結果を出せなくなった今、
俺は……何を信じればいい?」
初めて見る弱さだった。
彼は震える指で、シーツを握りしめた。
「弱者が理由を求める気持ちが……今ならわかる。
壊れそうで、どこかに縫い止める言葉が欲しいんだ」
強者は、弱者になった瞬間、初めて“物語”に手を伸ばす。
否定していた救いを、救いとして求めはじめる。
私は、その姿を見つめながら思った。
強者も弱者も、どちらも“人間”の仮面でしかないのだ、と。
● 資本主義というゲーム
病院の屋上で、夜景を眺めながら私は考えた。
本当は強者も弱者も存在しないのではないか。
資本主義というゲームが勝手に区切っている線であり、
倒れた瞬間に“価値がない”と扱われるだけの仕組みなのだ。
強者は絶壁の上で踊らされ、
弱者は谷底で理由を探している。
でもその上下は、本来、人間としての本質ではない。
――私たちは、同じゲームに巻き込まれているだけなのだ。
勝者も敗者も、
実は同じルールの中で消耗し続けるプレイヤーにすぎない。
それでも人は生きるために物語を信じる。
信じなければ、このゲームはあまりに残酷すぎるのだから。
◆ あとがき
強者として生きても、弱者として生きても、
私たちは本当に“自分の人生”を生きられているのだろうか。
強者である間は強者の物語に縛られ、
弱者になれば弱者の論理に追い込まれる。
どちらに立っても、結局はこの時代が用意した“役割”を演じているだけかもしれない。
人の人生は、歴史から見ればただの一点にすぎない。
どれほど苦しみ、迷い、願っても、
やがて「よくある事象」として処理されてしまう。
記憶が残ろうと残るまいと、
世界はそこに意味を与えない。
それでも――
だからこそ、私たちは自分だけの物語を探すのだろう。
強者でも弱者でもない場所で、
ほんの少しでも“自分だけの人生”と呼べる何かに触れたいと願いながら。




