表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/73

皮膚の記憶

湯の表面に、ゆらりと自分の影が揺れていた。

あかすりのあと、指の腹で皮膚をなぞると、

小さな粒が浮かび上がる。

それは昨日の垢であり、昨日までの自分でもあった。

人はこうして少しずつ剥がれ、

新しい皮膚をまとって生きていく。

けれど、古い皮膚を洗い流すたび、

どこかで大切なものもいっしょに流している気がする。


日本人は長生きだという。

もしかしたら、毎日湯に浸かるこの習慣が、

命の時計をゆっくりと巻き戻しているのかもしれない。

湯は皮膚を柔らかくし、血を巡らせ、細胞を呼び覚ます。

けれど最近ふと、逆のことも思う。

柔らかくなった皮膚の隙間から、

見えない化学物質が、

静かに体の奥へと入り込んでいるのではないかと。

清めているつもりで、

少しずつ汚しているのではないかと。


湯の中で体が浮かぶと、皮膚が呼吸を始める。

泡のように小さな音が、表面をすべっていく。

その瞬間、思った。

食べ物が体を作るというのは、

もしかすると半分の真実にすぎない。

残りの半分は、

皮膚が吸い込み、飲み込み、記憶している。

水、空気、光、温度──

世界そのものが、皮膚を通して体の中へ入ってくる。

人は口でものを食べ、皮膚で世界を食べている。

そう考えると、

自分の体は、まるで外界の一部が沈殿した器のように思えた。


肩の古い傷跡に指を触れる。

そこだけ盛り上がり、固くなっている。

医者は言った、「皮膚が強くなった証拠です」と。

けれどどうしてだろう。

私にはそれが、ただの“皮膚の記憶”に思える。

過去の痛みが固着して、

もう要らないのに、まだそこに残っている。

皮膚が守ろうとしているのは、

本当は“傷”ではなく、“記憶”なのかもしれない。


湯から上がると、鏡の中の自分が少し違って見える。

しわもシミも消えないけれど、

それらが今日という一日の記録であることを知っている。

皮膚は黙って語る。

どんな言葉よりも、正直に。

私はタオルで体を拭きながら、

“今日の自分”を一枚脱いでいくような気がした。

そして明日、新しい皮膚の下で、

また同じように世界を食べ、記憶していくのだろう。


湯気が静かに消えていく。

その中で、自分の皮膚が呼吸を続けていた。

まるで、生きることそのものが、

一枚の皮膚の物語であるかのように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ