首輪
まえがき
足の甲とくるぶしに、鈍い痛みがある。
その検査について医師に相談すると、
「痛みが続くようでしたら整形外科を受診してください」と言われた。
それは正しい対応だと思う。
医療の現場が機械的であることを責めるつもりはない。
むしろ、人の身体も心も限界のなかで働いている医師や看護師を思えば、
ある程度の機械的判断がなければ、
この社会は成り立たないのだと理解している。
だから、これは意見や批判ではない。
ただ、ひとつの不安として――
痛みや違和感が、“小さなひび”として無視される世界になりつつあるのではないか。
そして、その判断を、いつかAIが下す時代が来るのではないか。
そう考えると、合理という名の正しさが、
人間の微かな痛みを取りこぼしていく未来が、ふと怖くなる。
この物語は、その不安のもとで書いている。
もちろん、正解がないことは重々承知のうえで。
病院の待合室で、私は足首の違和感を何度も確かめていた。
レントゲンには「異常なし」と書かれていたが、
くるぶしの内側で、何かが小さく鳴っている。
医師は脳を丁寧に調べてくれた。
「意識を失っていた時間があるなら、念のためにCTとMRIを撮りましょう」
彼の声は穏やかで、説明も的確だった。
画面には私の脳が、美しいグレースケールの陰影で映っていた。
結果は異常なし。
脳は正常に動いている。
――それは安心であり、同時に、どこか寂しかった。
私は思った。
脳という最も精密な部分が無事なら、人は“健康”とされる。
だが、足の中で微かに鳴る音は、誰も聴こうとはしない。
「歩けるなら問題ないですよ」
医師の言葉は優しさでもあり、社会の声でもあった。
歩けるなら、働けるなら、話せるなら。
それで“問題ない”とされる世界。
その合理さは、確かに便利だ。
誰もが余計な痛みに囚われず、前を向ける。
けれど、私はどこかで思ってしまう。
この静かな合理の裏に、見えないヒビが広がっているのではないか、と。
家に帰ると、足首の腫れは少し増していた。
冷却材を当て、ソファに座る。
窓の外では、車のライトが規則正しく流れていく。
整った動き。迷いのない光。
それが、いまの社会そのものに見えた。
翌朝、痛みはやや薄れた。
“歩ける”ことに安堵した自分を、少しだけ恥ずかしく思った。
本当はまだ痛い。
でも、その痛みを認めた瞬間、私は“問題のある人”になる気がした。
だから、歩く。
小さなヒビを抱えたまま、何もなかったように。
夜、鏡の前で足を見つめながら、私は思う。
倫理という言葉は、いつのまにか首輪のようになったのかもしれない。
我慢すること、譲ること、痛みを受け入れること。
それらは美徳として褒められる。
けれど、それを繰り返していくうちに、
“痛みを無視すること”が、社会を正常に見せるための条件になっていく。
人は、痛みを隠すために倫理を使う。
社会は、それを“思いやり”と呼ぶ。
その優しさが、ときに誰かを壊す。
その誰かが、いつか自分になる。
足のヒビは、自然に治るだろう。
だが、世界のヒビは、誰が治すのだろうか。
あとがき
作者自身も、足のヒビは自然治癒を待つしかない現状を理解している。
医学的にも、それが正しい判断だ。
しかし、理解と納得は、同じではない。
「合理的な説明」が与えられるたびに、
人間の中にある“感じる力”が少しずつ奪われていくような気がする。
足の痛みを無視するように、心の違和感も「仕方ない」で片づける。
その積み重ねが、どこかで社会の“ひび”を広げているのではないか。
もちろん、すべてを治そうとすれば、費用も時間もかかる。
だから医療も、社会も、どこかで線を引くしかない。
それは理解できる。
だが――その線の外に置かれた“わずかな痛み”の中に、
本質が隠れている気がしてならない。
私は、この問題に明確な答えを持たない。
ただ、時折思う。
この世界の合理さは、人間の温度を削り取ってはいないだろうか。
もしそれが“進歩”の名のもとに進んでいるなら、
その静かなヒビの音を、誰かが聞き取れる社会であってほしい。




