最後の一滴
まえがき
最近、ニュースで「ガソリン税の暫定税率を引き下げる」という話題を耳にしました。
確かに、私たちの生活にとってはありがたい話かもしれません。
けれど、その裏で私はどうしても――
「それ以上に、原油価格が上がりそうな気がする」
という不安をぬぐえませんでした。
世界情勢が不安定な今、税を下げても、
市場が揺れればすぐに物価が上がる。
その上、もし税収の穴埋めが他の形で行われるとしたら、
その負担はきっと、社会の“弱いところ”に回ってくる。
生活を支える人たちが、静かに締め付けられていくような、
そんな気がしてなりません。
この短編は、そうした思いから生まれました。
ニュースの中の数字ではなく、
その影で生きている人々――
とくに運送という「血流」を支える小さな現場の声を、
物語の形で記しておきたいと思ったのです。
十一月の風は、例年より乾いていた。
灰色の雲の下、高速道路を走るトラックがゆっくりと列を成す。
運送会社「北辰物流」の社長・吉岡は、最近ほとんど眠れなかった。
軽油の仕入れ値はこの半年でリットルあたり四十円近く上がった。
燃料補助もいつ切られるかわからない。
それでも取引先は「運賃は据え置きで」と言う。
社員十五人の生活を守るには、毎月が綱渡りだった。
夜のラジオがニュースを伝えた。
「政府はガソリン税の暫定税率を引き下げる方針を固めました。
世界情勢の緊張による燃料高騰を受け、物流業界への支援を狙い――」
吉岡はため息をつき、窓の外を見た。
工場地帯の向こうに、港のクレーンが静止している。
父がこの会社を始めたころ、ガソリンは安く、為替も穏やかだった。
トラックを走らせることが「希望を運ぶ」ことと同義だった。
「社長、ニュース見ました? 税金、下がるらしいですよ!」
若いドライバーの田島が、缶コーヒーを持って笑った。
「二十五円でも下がれば、ちょっとは助かりますね」
吉岡は微笑んだが、心の奥に刺のような不安が残った。
――原油がまた上がれば、それも一瞬で消える。
世界は、いつからこんなに脆くなったのだろう。
夜明け前、吉岡は車庫を見回った。
整備士が残した油の匂い、鉄の冷たさ。
この音、この手触りが、自分の半生だった。
「税金が下がっても、道は変わらない。
でも、まだ走れる。」
彼はエンジンキーを回した。
ディーゼルの低い唸りが、暗闇の中で響いた。
それは確かに、未来へとつながる音だった。
あの冬、ニュースは再び中東を騒がせた。
ホルムズ海峡での衝突、供給の停滞、そして原油価格の急騰。
あの暫定税率の引き下げなど、一瞬で帳消しになった。
軽油は再びリットル二百円を超え、取引先は運賃の値上げを拒んだ。
政府は「補助金の再延長を検討」と言ったが、
その“検討”のあいだにも、会社の残高は目減りしていった。
「社長、ほんとに辞めるんですか。」
田島が車庫の隅で尋ねた。
「もう続けられねえ。燃料も、保険も、人件費も…」
吉岡は、どこか穏やかな声で言った。
田島は何も言えなかった。
たしかに最低賃金は上がった。
ニュースは「労働者の生活を守るため」と言う。
だが、田島の財布の中身は、むしろ軽くなっていた。
物価も同じように上がっていくからだ。
「給料上がるのはうれしいっすけどね。
でも、物の値段が一緒に上がっちゃうなら、意味ないですよ。」
吉岡は小さく笑った。
「そうだな。お前らにもう少し渡せればよかった。」
社長はいい人だ。
怒鳴らないし、休みの日には弁当を差し入れてくれる。
トラックの整備も自分で見てくれる。
けれど、そんな“いい人”ほど、
この時代では早く沈んでいく。
田島は空になったタンクローリーを見つめた。
――最低賃金が上がるってことは、
結局、みんなが少しずつ高くなるってことなんだ。
誰も損をしたくないのに、誰かが損をするようにできている。
春、吉岡は会社を畳んだ。
社員全員に退職金を払い終えたあと、
残ったのは古い帳簿と、一台のトラックだけだった。
田島はその夜、帰りの高速を走りながら、
ラジオから流れるニュースを聞いた。
「中東情勢の緊迫化により、原油価格は再び上昇。
一方、政府は物価高への対応を強化する構えです。」
フロントガラスに映る街の灯りが、どれも遠ざかって見えた。
あの車庫で聞いたディーゼルの音が、耳の奥でまだ響いていた。
「しょうがねぇよな…」
つぶやいた声は、エンジン音にかき消された。
けれどその瞳の奥に、どこか光が残っていた。
走る道がなくなっても、
走ろうとする心までは、誰にも止められない。
あとがき
政策は人を救うこともある。
だが、救えなかった人々の静かな退場を、
誰が見届けるのだろう。
暫定税率の引き下げは、確かに希望だった。
だが、世界の情勢も、為替も、戦争も、
一人の運送業者の手の届かない場所で決まっていく。
それでも、吉岡と田島のように、
汗を流し、エンジンを回し、
この国の暮らしを運び続けてきた人たちがいた。
最後の一滴まで燃やして、走り続けたその道が、
誰かの未来につながっていくことを、
彼らはきっと、信じていた。




