スクリーンの彼方
前書き
この物語の前提として、私が考える依存症の定義を述べておきたい。
依存症とは、それを行うことで、自分の生活環境に著しい変化が生じる状態を指す。
では、スマホ依存症はどうだろうか。もし誰もが平等にスマホに依存していたなら、相対的に生活環境の変化は起きず、依存症として誰も認識できないはずである。
しかし現実には、スマホ依存症は認識される。なぜか。それは、一定数の“変わった人”が存在し、彼らが依存層と自律層の差異を観察し、脱スマホ依存プログラムや教育を作り出す存在だからである。
この物語は、その二極化の社会と、自律力を取り戻した人々の視点を描く。読者には、依存と自律の境界、そして現代社会の構造を考えるきっかけとして読んでもらえればと思う。
スクリーンの彼方 ―二極化の時代―
都市は光にあふれていた。無数の画面が建物や人々の手元で輝き、情報と娯楽が途切れることなく流れている。
だが、その光の下で、社会はすでに二つに分かれていた。
ユウはスマホの通知で目を覚ます。
AIが朝のスケジュールを告げ、ニュースや動画が手のひらに押し込まれる。便利だ。快適だ。しかし、思考はどこか薄く、空虚だった。
一方で、ミカたちは違った。彼女たちは制約や逆境の中で育ち、スマホ依存から距離を置いてきた。
彼らはAIや技術を“思考を拡張する道具”として使うことができる。
都市の片側では、便利さに埋もれる大多数が、思考を放棄し、依存の渦に沈む。
もう片側では、少数の自律層が社会の判断や文化、創造を支える。
ユウは気づかされた。
スマホやAIの普及は平等に見えて、実際には脳と精神力の格差を拡大する装置になっていたのだ。
施設の「デジタルリトリートプログラム」に参加し、スマホと離れて過ごす一週間。
最初は落ち着かず、手は画面を探す。しかし、外界の音、風、雨、木々の揺れ——
それらを感じ、自分で考え、自分で選ぶ時間を取り戻すことで、ユウは思考の力を回復し始める。
プログラムが終わり、スマホが戻ってくる。
街の光は相変わらずまぶしい。しかし、ユウは以前のように依存するのではなく、少し距離を置いて扱うことができる。
自分の思考力を武器に、依存に沈む大多数の世界を冷静に観察できる。
社会は分かれている。便利さに沈む層と、自律力で立ち上がる層。
その二極化の中で、ユウは自分の居場所と生き方を見つけたのだった。
スクリーンの彼方:自律の波
スマホを手に戻したユウは、以前のようにただ画面を追う生活には戻らなかった。
便利な通知や動画はそこにあるが、自分の意識の中心は外界にあった。思考力を取り戻したことで、世界を冷静に観察できるようになったのだ。
街では、光の洪水に溺れる人々が大多数を占める。
通知が来るたび、無意識に指が画面を滑る。思考は浅く、長期的な判断は希薄だ。
ユウはそれを傍観するが、単なる観察者では終わらなかった。
彼はまず、自分の時間を徹底的に管理する。
スマホは1日数時間だけ
AIは計画や情報整理の補助としてのみ使用
読書や考える時間を優先
次に、同じように思考力を回復させたい仲間を見つけた。
施設で出会ったミカや、制約のある生活をしてきた数名の自律層たちだ。
彼らはスマホ依存に溺れる多数とは違う、少数ながら確かな力を持つ。
ユウは小さなコミュニティを作った。
学び合い、考え方を共有する
AIや技術を思考力拡張のための道具として使う
社会の現状や情報を分析し、他者の行動パターンを理解する
徐々に、このコミュニティは「思考の波紋」を広げ始める。
小さな会話、文章、工夫や学習の共有が、少数ながら周囲の依存層に影響を与える。
すぐに社会全体が変わるわけではない。依存層の誘惑は強烈で、簡単に戻ってしまう人も多い。
しかし、ユウたちは知っている。小さな自律の波が、やがて社会の構造を変える可能性があることを。
そしてユウは思う。
「便利さや快楽に沈む人が大多数でも、少数の自律層が考え、行動し続ければ、文明は完全には失われない」
その自覚こそが、彼にとっての希望であり、人生を有意義にする力だった。
スクリーンの光の向こう、現実の世界で、ユウは自律の波を生き延び、広げていく。
あとがき
この物語を読んで「自分はスマホ依存かもしれない」と感じた人がいるかもしれません。
しかしそれは、誰もが同じようにスマホに依存しているわけではないため、周囲との違いから生じる感覚に過ぎません。
つまり、依存症は絶対的な被害ではなく、他者や社会との比較によって認識される相対的な現象なのです。
本作の意味は、この視点に気づくことにあります。
依存は単なる個人の問題ではなく、社会構造や人間の思考力の差によって生じる現象です。
この理解が、物語の中心にある「思考力を守り、自律して生きることの重要性」を考える手がかりとなるでしょう。




