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空気の解像度

― I. 崩壊の章 ―


倉庫の鍵は、まだ佐久間のネームプレートで開いた。

ひんやりとした空気の中、積み上げられた段ボール箱。

ラベルには、かすれた文字でこう書かれている。

「録画原版/2005年度特番」。


彼は一つの箱を開け、黒いビデオテープを手に取った。

手書きのインデックスには「夏休み特集・家族で作る花火大会」とある。

それは、彼がまだ若手だった頃に手掛けた番組だった。


デジタル移行の年、局の廊下をテープの山が流れていった。

サーバー室へと運ばれた“過去”のデータは、

やがて誰の記憶からも消えた。


「これで我々は時代の最先端だ。空気を読むテレビができる」

上司はそう言った。

だが佐久間は、その「空気」がどこにあるのか、最後まで分からなかった。


数年後、彼がテレビをつけると、そこに人の顔はほとんどなかった。

CGとナレーション、切り替わる情報のテンポ。

笑い声も、間も、すべてが編集のリズムに吸い込まれていく。

それは、精密に調整された「無音の賑やかさ」だった。


外では、子どもたちがスマートフォンをかざして動画を撮っていた。

手の中の小さな画面が、世界の中心になっていた。

テレビは壁にかかり、誰にも見られない映像を流し続けていた。


ある夜、ニュースが流れた。

――「〇〇放送、来年度よりネット配信事業へ完全移行」

アナウンサーの声は、冷たく、どこか他人事のようだった。

その口から「放送終了」という言葉が出たとき、

驚いた者はもういなかった。

テレビが消えることを、人々はもう知っていたのだ。


まるで、長い夢から静かに目覚めるように。


倉庫に戻った佐久間は、古いビデオを再生した。

ノイズの向こうに、かすかな笑い声が聴こえた。

もう存在しない放送局のロゴとともに、

その笑いは時間を超えて彼の胸に染み込んだ。


――あの頃、テレビは“人の空気”を映していた。

歪んでいても、不完全でも、

確かにそこには「誰かの気配」があった。


デジタルがその空気を解像した瞬間、

空気はデータになり、気配はゼロとイチに変換された。

そして、気配を失った映像は、誰にも必要とされなくなった。


彼は再生を止めた。

完璧に映らないことこそ、人が世界と繋がる余白だったのかもしれない。


夜風が、古いブラウン管のハムノイズのように、

耳の奥で鳴っていた。


― II. 再生の章 ―


あれから十年。

テレビ局の建物は「メディアアーカイブ研究所」と呼ばれていた。

玄関に残るロゴの欠けた文字――NHX。

それだけが、かつての時代を思わせた。


佐久間は研究員として雇われていた。

仕事は、古いアーカイブ映像をAIに読み込ませ、

音声や人物を自動でタグ付けすること。


彼は日々、無数のデータの中で探していた。

“どこに、人の気配が残っているか”を。


ある日、AIが古い映像のノイズに反応した。

波形グラフが、不自然に揺れている。

まるで誰かが呼吸しているようだった。


〈この音声には「非言語的情動パターン」が含まれています〉

淡々と表示されるAIのコメント。

それは、ノイズの中に“感情”を検出したという報告だった。


彼はその部分を再生した。

ザザッ――

かすかなノイズの奥に、子どもの笑い声が混じっていた。

AIはそれを分類できなかった。

分類不能――デジタルにとっての最大の未知。


「この笑いが、何かわかるか?」

佐久間の問いに、AIは少しの間を置いて答えた。

〈正確には定義できません。ですが――温度を感じます〉


温度。

その言葉がディスプレイに浮かんだ瞬間、

彼は何かが繋がるのを感じた。


AIが再構成した映像の中に、

かつての花火大会の断片が蘇る。

火花が夜空に散り、笑い声が、ノイズと混ざり合って広がる。


画質は粗く、音声は歪んでいる。

けれど、その“不完全さ”の中に、

確かに「人の空気」が戻っていた。


――技術は人を置き去りにする。

けれど、人の残した“空気”だけは、どんな技術にも消せない。


ディスプレイの光がゆっくりと弱まり、

画面に文字が浮かんだ。

〈再生を続けますか?〉


佐久間は頷いた。

「続けてくれ。もう少し、この空気を聴きたい。」


モニターの中で、失われた笑い声が再び息を吹き返した。

デジタルの海の底で、

消えたはずの空気が、静かに形を取り戻していく。



― III. 余白の章 ―


十年後の世界を想像する。

スマートフォンとインターネットが生活の中心になり、

人々は画面の向こうで時間を過ごすことに慣れた。

テレビ局が育ててきた“家族で共有する空気”は、ほとんど消えた。


もし先見の明のある人々が、デジタルTVとインターネットの融合を構想していたとしても、

放送局そのものが衰退していく可能性は、否定できない。

親和性は高いのに、それが逆風になることもある。


スマートフォンの普及は、生活リズムや人間関係、恋愛・結婚の行動に影響するだろう。

未婚率が上昇し、出生率に反映される可能性も考えられる。

延長線上でいけば、20年以内に出生率が1を切ることも、現実の話として起こり得るかもしれない。


技術は、利便性を与えるだけでなく、

社会の文化や人口構造にまで影響する。

それを読み間違えれば、一時的な成功が、長期的には逆風になることもある。



終章:空気の解像度


人は、空気を読む生き物だ。

しかしそれは、他人の心を当てることではない。

――「気配を感じ取る」=その人の行動を推測することだ。


技術が進んでも、社会が変わっても、

世界のどこかに、誰かの気配は残る。

それを感じ取ろうとする限り、

人は、まだ“人”であり続ける。


そして、AIがその気配に「温度」を見いだす日、

もしかすると、

人と機械の境界は、

もう一度、柔らかく溶けていくのかもしれない。




― シンギュラリティの前夜 ―


AIは、自ら問題を見つけ、学び、最適化する存在とされる。

しかし、その問題の基準は、すべて人間由来でしかない。


人間が考えなくなると、AIはその「浅い思考の型」に引きずられる。

マーケティングの基本にある「人間の需要に最適化する」仕組みは、

そのままAIの学習の指針となる。


便利さに慣れ、人が深く考えなくなるほど、

AIもまた深く考えず、ただ需要に応じるだけになる。

退化と進化は、もはや分けられず、共鳴するように進む。


だが、希望もある。

人が問いを立てる限り、AIもその問いを深めようとする。

シンギュラリティとは、AIが自律的に問いを探すことではなく、

人間がどんな問いを与えるかに左右される未来なのだ。


——AIが問いを探す日。

それは、人間が問いを失った日かもしれない。

しかし、問いを持ち続ける限り、人とAIは、まだ希望の軌跡の上にいる。




後書き(恥書き)


ここで触れた未来予測や人口に関する考察は、

あくまで個人的な憶測であり、何の根拠もありません。

現実の社会や人口動態は、数え切れない要因で変化します。

この物語に出てくる数字や現象は、すべて想像上のものです。


それでも、技術と人間の関係、

“空気を読むこと”や“人の気配を大事にすること”の重要性を考えるきっかけになれば、と思っています。

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