黄金の後継者
前書き
この物語は、金の価値が暴落するとか、そういう話ではありません。
確かなことは、AIと人間の知性が重なり、高速で混ざり合い、シミュレーションされることで、金の価値以上の物質が生まれていても、もはや不思議ではない可能性がある、ということです。
雨が降っていた。秋の空気は冷たく、街灯の輪郭をぼんやり溶かしていた。
僕は古い金貨をポケットに入れたまま、夜の川沿いを歩いていた。こいつは祖父が戦後に手に入れたやつで、縁の摩耗がうつくしい。金はいつも僕の手の温度に反応して、まるで眠っているように重かった。
「世界は変わるってさ」──ラジオの低い声が、どこかの居酒屋のニュースを伝えている。
政府機関の内部文書が流出したという匿名の投稿が昨日から拡散している。中身は断片的で、たとえば「物質の再設計」「情報担保の通貨化」という見出しが並んでいただけだった。それを読んだ人たちは、金が未来において何の役割を持つのかを考えはじめた。
僕は金貨を掌に取り出した。金は変わらず光を返した。科学の話は本当に奇妙だ。人工ダイヤはすでに市場に溢れ、誰も驚かない。だが金だけは、なぜか違った。元素そのものを「作る」こと——核変換という言葉はSFの匂いだが、研究機関の報告書の断片には加速器の写真と、ナノ結晶のスキームが混じっていた。もしそれが実用化されれば、希少性の神話は溶ける。市場は崩れ、秩序は揺らぐ。
「あなたはまだ持ってるの?」と電話の向こうのエリが言った。エリは昔から直感が鋭く、金融よりも人の心理を読む人だ。
「持ってるよ」僕は答えた。「何かあるのか?」
「噂が本当なら、国が“代替の価値”を公認するかもしれない。そうなったら、金はただの飾りになる」。
彼女の声は平静だったが、何かを切り出す前の静けさが聞こえた。
次の日、街には不穏な空気が満ちていた。金を扱う店の前には人影が増え、ニュースサイトでは中央銀行のスポークスパーソンが「研究はあるが、商用化は遠い」と繰り返していた。その言葉が安堵を呼ぶか、疑念を呼ぶかは人それぞれだ。ある者は「よかった」と胸を撫で、ある者は「政府は何かを隠している」と呟いた。
僕は研究所に行った。外から見える窓の向こうで、AIが素材シミュレーションを高速で走らせている。冷たい青いインジケーターが、無数の計算の終端を知らせる。研究者たちはスクリーン越しに議論を交わし、言葉は専門用語で塗り固められていた。その中央に立つ一人の女性が僕に向けて微笑んだ。彼女は僕の質問に短く答えた。
「『アウレオン』は想像を超えた特性を持っている。腐食しない、導電率は金以上、そして特定のエネルギー状態では自己修復する。だが大量生産には高いコストが必要だ。理論と実験は別物です」
「政府はこの研究を認知している?」僕は尋ねた。
「認知はしている。でも承認するかは別問題。政治は社会心理を重視する。突然の発表は市場を壊す。」彼女は答えた。
アウレオン。名前は小賢しく、しかし発明者の自負を含んでいた。AIが設計した新素材の名は、誰が呼んでも響きが変わる。機能的資産。しかし、僕の金貨は依然として掌にあった。
夜になって市場が揺れた。先物が乱高下し、あるヘッジファンドのウォール街の窓が明るく光った。SNSには「政府が在庫を隠している」という噂が走り、金を担保にしたローンや年金を持つ人々が不安そうに電話をかけた。だが政府は落ち着いていた。声明は繰り返し、「国家的安全保障に関わるため細部は非公開」とだけ書いてあった。言葉の裏に、知られざる何かがあるように見える。
エリがまた電話してきた。
「政府が隠すなら、それは資本主義の論理そのものよ。価値が暴落するのを恐れる連中が、まず情報を独占する。市場は本当に透明なの?」
「透明だと言うのはもう幻想だろう」と僕は答えた。「それでも、人は物語を必要とする。金はその物語を担ってきた」
そうして何週間かが過ぎた。アウレオンは実験段階からプロトタイプへと移行したが、商業化のコストは依然高かった。中央銀行は発表を控え、しかしたまに流れる小さなリークが市場を震わせた。人々の間で二層の価値観が固まりはじめた。ある者は機能を求め、工場にアウレオンの板を敷き、電子部品を作った。別の者は金貨を仏壇に入れたままにし、信仰としての価値を磨いた。
僕はある朝、金貨を銀行の貸金庫から持ち出した。理由はわからなかった。安全資産としての役割を確認したかったのか、あるいはただ重さを確かめたかったのか。貸金庫の扉は金属の匂いがした。帰り道、子供が路上で小さな機械をいじっていた。彼の手元には小さなアウレオン片が光っていた。それは工場で余った試験片だという。彼はそれを使って自作の電極を作っていた。僕は子供と目が合い、彼は僕の金貨の光に気づいた。
「それ、何?」彼は金貨を指差した。
「昔の価値さ」と僕は答えた。
彼は首をかしげて、それから自分のアウレオン片を差し出した。
「これと交換できる?」
たしかに、それは何かの象徴的な瞬間だった。僕は一瞬考えた。交換することは、僕の中にある何かを入れ替えることを意味した。価値の基準を降ろすこと。過去を手放すこと。
結局、僕は金貨を彼に渡さなかった。しかしポケットの中で金の冷たさは、いつの間にか軽く感じられていた。灯りに濡れた街はどこか静かで、未来を運ぶ蒸気機関のように、ゆっくりと回転していた。
価値とは、いつも人が約束し合うものだ。技術はその約束を作り替える力を持つが、変わらない欲望もまた存在する。政府は知っているかもしれない。AIは計算し続けるかもしれない。だが夜の川辺で、古い金貨を握る僕の掌が確かめたのは、まだ言葉にされていない約束の重みだった。
次の日、街には新たな看板が立っていた。製造工場の一角に「アウレオン採用」とだけ書かれていた。小さな文字で「限定供給」ともあった。矛盾はいつも混ざり合う。人々は新しいものを作り、古いものに祈りを捧げる。どちらかが勝つか、あるいは二つが並んでいくか──答えはまだ、夜の川のさざ波の中で揺れている。
僕は金貨をポケットに戻した。重さは変わらない。だがそれを感じる意味は、昨日とは違っていた。
前書き
この物語は、金の価値が暴落するとか、そういう話ではありません。
確かなことは、AIと人間の知性が重なり、高速で混ざり合い、シミュレーションされることで、金の価値以上の物質が生まれていても、もはや不思議ではない可能性がある、ということです。




