習慣の呪縛
夜のバイパスをスクーターで走る。
後ろから煽る車が、胸をざわつかせる。昔なら、拳を握っただろう。小さな快楽のために、他人を押しのけることを学習してしまった自分がいた。たった一度でも、自分のわがままが通ると、それはすぐに快楽として脳に刻まれる。そして、習慣になる可能性がある。
呼吸法も、深呼吸も、何の意味もない。体は反射で動き、衝動は胸の奥で波立つ。人間に与えられているのは、ただ習慣に根差した行動であり、その根底にはほとんど考えがない。だから、俺にはトラウマという考え方が当てはまらない。過去の出来事が直接原因で今の自分があるわけではなく、ただ体が覚えた反射の連鎖の上に、今の俺は立っているだけだ。
俺はその呪縛から逃れるために、あえて弱い立場を選んだのかもしれない。派遣という立場は、肩書きも権力もない。誰かを押さえつける余地も、勝利の快楽に溺れる余地もない。だから、衝動は自然と抑えられる。小さな安全装置のように、弱さが俺を守ってくれる。弱さの中では、俺のエゴは芽吹きにくい。誰かを傷つける必要も、勝利のために暴力を行使する必要もない。
それでも呪縛は消えない。衝動は、いつでも胸の奥でうずく。習慣の連鎖は、たった一度の快楽で始まる。二度目、三度目……その快楽が繰り返されると、やがて逃れられない呪縛に変わる。三度目の瞬間、勇者が現れるまで、俺はその習慣に縛られ続ける。勇者とは、外部の介入かもしれないし、別の学習された行動かもしれない。だがそれは不確実で、現実はほとんどが習慣の中にある。
スクーターのライトが街灯に反射する。風が頬を撫でる。拳を握らなかった夜の余韻が、胸の奥に小さな静けさを残す。弱さを盾にして、自分を守る。衝動に呑まれず、快楽の回路を学習させずに済む。弱い立場は退屈で、無力かもしれない。だが、それは同時に、自由でもある。
俺は今日もスクーターを走らせる。習慣の呪縛は完全には消えない。それでも、弱さを盾にしたこの夜の自由は、わずかに、確かに存在するのだ。
あとがき
これまでに読んだトラウマ論の中で、最もナンセンスだと感じたのは、
「その人が亡くなることで、トラウマや症状が消える」という考え方だ。
それでは逆の立場を考えた場合、同じ人が別の誰かにトラウマを与えている可能性を否定できない。
つまり、トラウマ論そのものが、単純化されすぎていて、現実の複雑さをまったく捉えていないように思える。
こう考えると、自分の潔癖症的な自己認識と似通っているようにも思える。
感情や行動の秩序を他者や状況で整えようとする癖――それが気持ち悪いくらいに自分の内面に残る。
もしトラウマ論が、「加害者を死ぬまで許さないこと」を前提に語られるのであれば、
それはあまりにもいびつで、ブラックユーモアのように感じられ、どこかずさんに思えてしまう。
最後に、強調しておきたいのは、この考え方はあくまで自分独自のものだということだ。
それによって苦しんでいる人にとって、決して善意の考え方ではない。




