階段の向こう
この一年、私は神社の古い石段を毎週終末の掃き続けてきた。
落ち葉や小さなゴミを見つけると、つい手が止まらなくなる。誰かが転んだら嫌だ、散歩の途中に通りかかる人が気持ちよく上れるように。
最初は何も言われなかった。階段を掃く時間は、私にとってただの散歩の一部で、静かな達成感があった。落ち葉の音、箒の手応え、石段の冷たさ。全部が心地よく、自然に手を動かしていた。
そして、階段の隅にゴミを集めることを続けた・・・
それは週に2キロ平均だとすると、365割る7で52から53になり、*2で100キロ以上の落ち葉が階段下にたまった・・・
しかし、ある日、周囲の民家の人に言われた。
「ゴミは、こちらに捨ててください、神社に人が集まる時、集まった、落ち葉などをこちらに捨てるので・・・」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸に小さな違和感が走った。
ずっと自分の意思でやっていた掃除が、まるで指示された作業のように変わってしまった気がした。
なんだか、掃除を続ける気持ちが一気に薄れていった。
分かっている。理性では、そちらに捨てたほうが合理的だし、他人に迷惑もかけない。
でも、心は素直に納得できない。
それでも、落ち葉で誰かが転ぶのは嫌だし、散歩の途中で掃除するのはやっぱり心地よい。
そして、ふと思った。
もしかしたら、神様って、こういう存在なのかもしれない。
私の小さな善意や努力に対して、特別に評価したり報酬を与えたりはしない。
ただ、そこにあることを見ているだけで、必要以上の言葉はない。
そう思った途端、言葉での感謝さえ、少し軽く感じられた。
もし善意で何かをしている人がいて、「ありがとう」という一言以外は、それを習慣を阻害するなら、なにかをしなくなる覚悟を持ってないと、なにも気づきでもその言葉を発してはならないと気づかされることになった・・・
神社の階段の掃き掃除を習慣にしていたも私はいまも悩んでいる・・・。
それが当たり前にされること時点で、違和感しかなく・・・
行事があり、その時に、地域が掃除するのでいいのではないかと・・・
だから、神無月、祭りがある状況は神社に神様がいないのかもしれない・・・
人間のエゴが支配する領域になるので・・・
私のような考え方の神様であってほしいと願いながら・・・




