化膿する資本
まえがき
本作はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。
スペースXが株式の上場を果たしたあの日、ウォール街だけでなく、ワシントンD.C.の心臓部さえもが激しく揺れ動いていた。
一企業の時価総額が、数カ国の国家予算を塗り替えた。
それは単なる富の集積ではなかった。
「世界の通信」と「宇宙への足」という、全人類の生存インフラを文字通り一社が独占したことを意味していた。
巨額の資本とインフラ。この二つの怪物を手に入れた企業は、もはや国家の意思決定さえも内側から歪める力を持ち始めていた。
かつて、国家には切り札があったはずだ。「税金」という制度である。
企業が国家を超える肥大化を遂げないよう、その手足を縛り、富を還流させるための最強の足枷。
しかし、その絶対の盾すらも、「効率」と「コスト削減」という冷徹な合理性の前では、音を立てて崩れ去る無力な紙切れに過ぎなかった。
その現実を最も深く理解している男が、防衛省の地下会議室にいた。
「スペースXの株価は上場後も暴騰を続けています」
若き財務官僚は、スクリーンに映し出された目眩のするようなチャートを見上げながら、どこか陶酔したような声で言った。
「アメリカ政府でさえ、彼らのインフラに逆らえなくなっているのが現状です。我が国も、独自の国産ロケット『H3』のような大赤字の金食い虫は即座に廃止し、上場した彼らのプラットフォームに全面移行すべきです。それが市場の、そして時代の合理性というものです」
若者の言葉は正論だった。
民間企業の株主たちが、市場のルールで世界を支配していく。近代資本主義の到達点に見えた。
しかし、会議室の最奥で書類に目を落としていた経済産業省の参与、東条は、深くため息をついた。
「君は、その合理性が、国家の身体を内側から腐らせていることに気づいていない」
東条の声は低く、そして冷たかった。
「なぜ国家が税金という制度を作ったか分かるか?
企業が国より大きな力を持たせないためだ。
主権を脅かす巨大な病巣を作らないための、いわば防疫システムだった。
だが、我々は『安さ』という目先の利益に目を奪われ、そのシステムを自ら機能不全に陥らせた。
税金を払う側であるはずの企業が、国の生命線であるインフラを握り、逆に国家から果実を吸い上げる構造が完成してしまったんだ」
東条は立ち上がり、スクリーンのチャートを遮るようにその前に立った。
「これは上場企業による世界の調律ではない。
資本という名の病原菌による、国際秩序の『化膿』だ。
インフラを握った一企業のトップが、ある日その巨大な資本力を使って
『我が社の思想に従わない国の通信は、明日からすべて遮断する』と決定したらどうする? どんな法律も、どんな税金も、彼らのスイッチを止めることはできない。
意思決定の権利は、すでに政府の手から滑り落ちている」
若き官僚は言葉を詰まらせた。
「ですが……では、なぜ我が国は、あの時代遅れのH3ロケットにこだわり続けるのですか? 最先端の半導体すら使っていない、あの不効率な塊に」
「それが、化膿を食い止めるための、我が国に残された最後の抗生物質だからだ」
東条は不敵に笑った。
「H3は意図的に、海外の脆弱な最先端サプライチェーンから隔離されている。
使われているのは、国内で100%調達できる、枯れた自動車用の半導体だ。
スペースXの株価がどれだけ上がろうが、彼らがどんな思想に染まろうが、この『金食い虫』がある限り、日本は自分の意志で宇宙へ目を向け、自前の盾を打ち上げることができる。
合理性を突き詰めた奴らから順番に首輪を繋がれる世界で、この不合理な意地だけが、他国からの強制自爆を防ぐ唯一の生存領域なんだよ」
東条は手元の端末を叩き、H3ロケット次期改良型への、莫大な国家予算の投入を承認した。
市場の合理性から見れば、それは完全な「敗北」のデータだった。
しかし、国家の生存という闇の領域においては、これ以上ない冷徹な「勝利」のチェスの一手だった。
深夜、東条は一人、誰もいないオフィスから夜空を見上げた。
上場し、時価総額の頂点に立ったスペースXの衛星群が、今夜も冷たい光の網で地球を覆い尽くしている。
「合理性という名の、何と恐ろしい病か」
東条は呟き、最後の手元の書類を閉じた。
人間が豊かさを求めて生み出した資本主義が、いまや国家の主権すらも飲み込んでいく。
その化膿していく世界の中で、日本は不効率という名の歪な盾を構え、ただ静かに潜み続けるしかなかった。
あとがき
「税金」という制度は、本来であれば企業が国家を超える権力を持たないよう、社会の富をコントロールするためのシステムであったはずです。
しかし、資本主義の「合理性」を極限まで突き詰めた結果、一企業が国家の生命線であるインフラを掌握し、国家と企業のパワーバランスが逆転しかねないという、極めて危うい現象が起きつつあります。
ただどうやっても、国がどれほど契約や法規制で縛ろうが、彼らが世界のスイッチを握っているという事実は変わりません。
暗号化も法的権威も、巨大なインフラの前では気休めに過ぎない。
そして、国民から選ばれたはずの総理大臣であろうと、世界最強の権力者であるはずの大統領であろうと、巨大な資本力という冷徹な「力」の前には、すでに頭を下げざるを得ない現実が目の前にあります。
人間は、安さと便利さという「合理性」の誘惑に決して勝つことができない。
私たちは、自分たちを滅ぼすかもしれないシステムを、自らの合理的な選択によって育て上げ、もはや引き返せない領域に入っているのかもしれません。
テクノロジーの進化と市場の合理性がもたらす、国家主権の崩壊という現代のディストピア的な危機感を、本作を通じて表現してみました。




