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直立不動で死ぬ

すべての話は、個人的見解によって形作られています


この話は前作の カプラーの午後から少し発展した話で、危惧していることです・・・

朝は、いつも通りに始まる。

誰もが時計の針の音に従って立ち上がり、同じ角度で頭を下げ、同じ速さで歩き出す。

街には秩序が満ちている。

乱れはなく、混乱もない。

ただ、その整然とした流れの中に、“考える人間”の姿だけが見当たらない。


会話はある。

笑顔も、拍手も、感謝の言葉もある。

だがそれらは、言葉の“形”を保つだけのものだ。

意味はもう、誰の中にも宿っていない。

「なぜ働くのか」と問う声は消えた。

「何のために生きるのか」と呟く人も、もういない。


立ち止まることは、非効率だと教えられている。

だから誰も立ち止まらない。

立ち止まらない代わりに、考えることもやめた。

動いているようで、誰もどこへも行かない。


夕方、広場でひとりの男が倒れた。

誰も気づかない。

足元を避けるように、列はただ流れ続ける。

彼は、倒れる直前まで、完璧な姿勢で立っていたという。


翌朝、その場所には白線が引かれ、誰もが少しだけ間隔を広げて歩いた。

効率的に、正確に、何事もなかったように。

人々の足並みは揃い、世界は今日も滞りなく動いている。


だが、本当に動いているのだろうか。

この静止の中で、私たちは生きているのだろうか。

それとも、もうとっくに——

“直立不動のまま死んでいる”のだろうか。

――あとがき(改訂稿)――


この物語に登場する「彼」や「彼女」は、誰か特別な人物ではない。

むしろ、私たちが毎日鏡の中で目を合わせている“自分自身”のことだ。

考えることをやめた瞬間、人はもう「立っているだけの存在」になる。

動いているようで、実はもう止まっている。


この“静止”を推し進めているのは、社会が掲げる合理性かもしれない。

すべてを効率的に、正確に、途切れなく流すことが“正しい”とされる時代。

その最前線には、スマートフォンがある。

世界とつながるための装置が、いつの間にか思考を奪う檻になった。

画面を見続ける指先はよく動くのに、心は少しも動いていない。


興味深いのは、それが老眼になっていない若者たちにいちばん顕著に表れるということだ。

小さな画面を凝視し続ける彼らは、誰よりも「見えている」はずなのに、

実は、何も“見ていない”。

逆に、老眼を迎えた世代は、皮肉にもスマホから距離を置かざるを得なくなる。

その“見えにくさ”が、ほんの少しだけ、考える余白を取り戻す。


そう考えると、「視力の衰え」とは、もしかすると“思考の回復”の始まりなのかもしれない。

世界がぼやけるほどに、人はやっと、自分の中を見つめ直すことができるのだ。


もしこの社会で、人が本当に考えることをやめてしまったら——

そのとき人類は、きっと“直立不動のまま死ぬ”。

逃げることも、抗うことも、もうできないからだ。

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