対角線のプロローグ
朝7時、目覚まし時計が鳴り起きると、朝食の良い匂いがして腹が鳴った。
キッチンでは、明らかに上機嫌である妻の志穂が鼻歌をうたいながら俺に満面な笑顔で
「おはよう。ご飯できているよ、早く食べよう」という。
その上機嫌な理由を知っているが、何も知らない体で俺は答える。
「おはよう。うん、ありがとう」と。
夜中にトイレで起きた時、何気にスマホを見ると、3日前に路上で刺され意識不明の重体だった人気芸人が搬送先の病院で亡くなったというニュースがあった。その芸人である野宮は妻の大学時代の先輩であり、そして俺が子供のころに殺したかもしれない相手だった。
テレビでキャスターが未明に野宮が亡くなったことを伝える。
「びっくりだよね。慧と結婚したばかりだったのに。慧も可哀そうだよ」
志穂が必死に上機嫌な様子を隠して神妙に言う。
「うん。そうだね」
俺はぼんやりと答える。
「犯人はまだ捕まっていないって。早く捕まってほしいね」
「・・・うん」
「あれ、何か元気ないね。野宮さんのファンだったの?」
「いや、特には。でも野宮って何か結構遊んでいたんでしょ?ほら大学時代に志穂の友達を弄んだって言っていたから。芸能界でも色んな人と噂になっていたし」
「・・・うん、・・・絶対に許されないよ、本当に天罰かもね。・・・いやいや亡くなった人をとやかく言うのはいけません。さぁ、食べよう」
志穂は一瞬、真顔でテレビを見たがすぐに笑顔で食べ始める。
俺は朝食を食べながら、2日前のあの女のことを思い出す。
マッチングアプリで知り合った女が、ホテルでセックスの後に言ったあの言葉。
「私、芸人の野宮を刺したの。ファンでさ、DM送信したら会えて嬉しかったけど、すぐにセフレコースにまっしぐら。都合の良い時だけ呼ばれて抱かれて。そしたらいきなり慧と結婚したうえにSNSはブロックされて腹立ってさー。だからラジオの生放送終わりに、その後に行く店も知っていたから待ち伏せて刺した。でも何か怖くなってさ、誰でも良いから傍にいてほしかったの」
刺したという話が真実という証拠はなかったから、何を言っているんだと笑いながらごまかした。
ただ思った、あんな奴、刺されて当然なんじゃないのか?
約二ヶ月前、野宮が有名女優である慧と結婚発表をした時の志穂のあの顔。
その夜に貪るように志穂から求められた、何度も何度も何度も。俺が果てても関係なしに。俺のことなど関係なしに。俺のことなど見てもなく。
その時の志穂を見れば、ただ野宮のことを考えていると理解出来た。おそらく大学時代に野宮に弄ばれたのは友達ではなく、志穂だったのだろう。
志穂には話していないが、俺と野宮は子供の頃に短い間ではあったが接点があった。引っ越し先の近所に野宮がおり、歳が近かったためかよく遊んだ。だがその野宮を母はよく可愛がり、俺はそれが気に入らなかった。一人っ子で常に両親の愛情を受けていたためか、子供ながらに母をとられたと思ったのだ。だから俺は自宅付近の塀の向こうに魔法の絨毯があると言って野宮を誘い、塀を上ったところで突き落とす計画を立てた。塀は二メートルぐらいで死んだら死んだでそれでも構わないと考えていたが、野宮が塀を上ろうとすると帰宅した母から止められ、その後すぐに野宮は引っ越して二度と会うことはなかった。すでに両親は他界しているから、俺と野宮の接点は誰も知らない。
「ねぇ、警察に一緒に行ってくれない?」
別れ際、あの女はそう言った。怯えたように懇願するように。
俺は再び笑ってごまかした。
あいつは捕まったり、自首した時に俺のことを話すのだろうか?
もしそうなれば、俺は罪に問われるのだろうか?
あの女の話が本当であったと確信していたことを黙っていれば、大丈夫ではないのか?
俺の子供のころ、志穂の大学時代、浮気相手の女、それぞれの分岐点にいた野宮。
改めて思う。お前さえいなければ、お前がいたから、お前のせいで。全部、全部、全部ーーー。
「ねぇ、大丈夫?何か怖い顔しているよ。もしかして、味がおかしかった?」
志穂が俺を心配そうに見る。
「あ、ごめん、いや今日も美味しいよ。取引先に謝罪に行く事を思い出して」
俺はあえて大げさなため息をつきながら、項垂れて答える。
「アハハハ、ほら、お父さん頑張れって言ってあげて」
志穂はお腹をさすりながら俺に微笑む。
「え?」
「うん。今日産婦人科に行ってくるけど。検査薬ではね。今朝分かってびっくりしたよ」
志穂はやっぱり微笑んでいる。
大学時代、志穂ではなく、本当に友人が野宮に弄ばれたのかもしれない。
あの日、志穂からひたすら求められたのは、野宮の結婚発表とは関係なかったのかもしれない。
今朝、志穂が上機嫌だったのは野宮が死んだこととは関係なかったのかもしれない。
家族であれ、真意を測ることは出来ない。ただ志穂が未だに野宮を想っているからと考え、俺が浮気をするのは間違っていると思った。
もし、あの女が警察に俺のことを話せば、とても信じられなかったと言おう。
志穂には浮気を必死に謝罪して何とか許してもらおう。
勝手にいじけていた俺を子供が叱っている。志穂のお腹を見ながらそんな気がした。