5.フレデリクの怒り
「ついさっき私が買って来たシードルがあるの。アルコールは殆ど入っていないわ。どうなさいます?」
「……じゃあ、それを開けてくれ」
黄金色の液体がグラスに注がれて行くのを、ジョゼとセルジュはじっと見つめた。
乾杯の向こう側から、あっさりとした古めかしい白いドレスを着た娼婦たちがやって来る。その格好にセルジュはピンと来た。
「まさか……あれは死刑囚の」
「そう。昔むかしに、女性囚が着せられていたドレスよ」
額をくっつけるようにして囁き合っていると、せわしい馬車の音が近づいて来た。
セルジュはある予感を抱き、ポーカーフェイスを貼り付ける。
ホールの扉が開き──入って来たのは、フレデリクその人だった。
恰幅のいい中年の男である。白髪交じりの髭を生やし、頭は剥げかかっている。しかし眼光は鋭く、昔ながらの政治家という風貌であった。現在特に目立った役職にはついていないが、最大派閥〝自由党〟の重鎮だ。
フレデリクはセルジュを見つけるや、一直線に近づいて来た。
「おや、これは〝急進党〟のセルジュ君ではないですか」
同じ貴族院に属しながら、党は別々の敵同士である。セルジュは微笑んで見せた。
「フェドー議員……お久しぶりです」
「まだ君が軍人だった時に、軍会議で会ったんだったな。先の戦争で負傷した腕の怪我はどうだ?」
セルジュは腕を曲げて見せる。
「だいぶ動かせるようになりました」
「君の父上には世話になった。これ以降もよろしく頼む」
そう言って、フレデリクは手を差し出した。左の薬指には金の指輪がはめられている。
セルジュも左手を差し出し、固い握手を交わす。しかしお互いの腹の内には、対立の炎が燃え上がっている。
娼婦たちはタイミングを見計らい、しなをつくってフレデリクにアピールした。
「フレデリク様ぁ、今日は誰を処しますの?」
フレデリクは全く恥じらうことなくこう答えた。
「今日はお前ら全員だ!」
きゃあ!と娼婦たちははしゃいで見せる。フレデリクは三人まとめて腕に抱くと、高らかに笑いながら意気揚々と階段を上がって行った。セルジュは呆然とその背中を見送り、ジョゼは新旧議員の対比を眺めてクスクスと笑った。
「今日は従業員をあらかた持って行かれてしまったわ……二階は六時まで貸し切りなの」
「では、この時間は私以外、客は来ないということか」
「いいえ、一階フロアの提供はしているわ」
ジョゼがそう言ってシードルを飲み干したその時だった。
「マダム・ジョゼ、入るよ!」
「まあマシュー様、早速出来上がっているではありませんか」
「二軒目だよ……おっ、そこの男は?」
「セルジュ様よ。急進党の議員」
「おお?大分若いじゃねーか……貴族か?」
「そうです」
「けっ。貴族院なんてさっさと解体しろよ。いつか議席を全部庶民出身者で埋めてやる!」
セルジュが唖然としていると、ジョゼは囁いた。
「ラクロワ商会の主よ。今、急成長している宝石商ね。最近新しく出来たデパートと専属契約をしているわ。今や緊縮財政を続けている王族が大口顧客にならないから、市民向けに小さなアクセサリーを沢山売って荒稼ぎしているの」
セルジュは頷きながら、静かに情報を噛みしめる。
「……初めて知る商会だ」
「最近大きくなって来た新興の商会よ。そんなところの出来合いのアクセサリーなど、貴族は買いに行かないですものね。でも、市民は手頃にその場で買える宝石の登場に熱狂しているわ。そう……特に娼婦はね」
マシューは娼婦の姿が見当たらないので、ジョゼのいるエリアに座った。すると
「おい、今日はミシェルはいねーのかい?」
今度は別の客がやって来た。しかも、大勢の男たちを引き連れている。
「あら、オーブリー男爵。ミシェルは今、二階でお仕事中です」
「いつ降りて来る?」
「六時ぐらいになるかと」
「彼女に歌ってほしい宴会があるんだ。来週なんだが」
「ええ、来週は彼女に特に予定はありません。ご予約されて行きますか?」
「馬鹿を言え。俺はこれを口実にミシェルを口説き落とすつもりなんだ。直接話すさ。そして毎週頼みに来ようかと」
ジョゼは黒服を呼び出して注文を入れる。厨房が騒がしくなって来た。
「おう、そこの御仁。名前は?」
「……セルジュだ。セルジュ・ド・バラデュール」
「なんだ、議員じゃねえか。仕事も名誉も爵位もない貴族の掃き溜めだな!」
「……」
「議員も何か頼めよ。……っておい、そりゃ女向けのシードルじゃねえか!もっといい酒を開けろよ、ケチってねーでよぉ。そこの黒服。ウイスキーを寄越せ!」
やにわに娼館リロンデルは騒がしくなった。娼婦を待つ男たちがはしゃいで室内の温度が上がり、セルジュは思わず首のタイを緩める。
汗ばむ男と女で、話に花が咲く。セルジュは特に、身分の差が生じないコミュニケーションにおっかなびっくり参加していた。
「驚いた?これが裏社交界の末端よ」
ジョゼは上気した頬で妖艶に笑う。セルジュはもう一本目のシードルを注がれながら、こくこくと頷いた。
「でもこの娼館はまだ序の口。知ってる?本当の裏社交界は王宮にあるの……限られた人間にしか入れない社交場。表の社交界よりも入りづらい場所よ。私はまだ行ったことがなくて……ねえ、セルジュも行ってみたいと思わない?」
セルジュがごくりと喉を鳴らし、口を動かそうとしたその瞬間──
「警察だ!警察を呼べ!!」
物騒な怒号にやにわに喧騒が止み、二階からフレデリクが真っ赤な顔で降りて来た。