1.楽園の甘い毒
少女は目を覚ました。
天蓋付きのベッドから体を起こし、きょろきょろと辺りを見回す。
所狭しと絵画の飾られたいつもの壁を眺め、彼女は額の汗を拭った。
「今のは、夢……」
ベッドを降りると、少女は過去の悪夢を振り切るように速足で歩いて行って、城の窓から庭を見下ろす。
トランレーヌ王国の王都から離れた郊外の川岸にある、白亜の小さな城。その赤い薔薇の咲き誇る庭で、派手に着飾った女たちが三人集まってガーデンパーティを楽しんでいた。召使が次々に色とりどりのスイーツを運んで来ては、猫足の白いアイアンテーブルにあるスイーツタワーに乗せて行く。色彩の弾け飛ぶような光景がそこで繰り広げられていた。
はしゃぐ彼女たちの声を聞き、ようやく少女はほっとした。
若干16歳の少女、ジョゼ。
この白亜の城──フルニエ城の主である。
彼女は金色と黒の混合という珍しい髪色をしている。それを侍女の手でまとめて結い上げると、掘り出し立ての黒水晶の結晶のように、彼女の髪色は金から漆黒への特殊なグラデーションを作った。ゆるやかな癖毛をパールの留め具で所々留めれば、流行りの波打つようなシニョンが出来上がる。ジョゼはこのきらびやかな髪形を好んだ。
彼女は、どこの国から来たのか分からないエキゾチックな風貌をしている。大きな黒い瞳に、小さな鼻と唇を持つ。しかしその肌は透き通るように白かった。
ドレスはいつも、黒。
まるで喪に服しているのかのような──
ジョゼはいつもの日課で、遅い朝食の後には執事の用意した新聞を広げる。紙面は最近、おどろおどろしい事件で持ちきりだった。
〝ルブトン川で謎の首なし遺体を発見。花屋の従業員と断定〟
ジョゼはそれを見て、何かを思い出したように少し息を止める。
「首無し遺体は今年に入って三体目ね……警察は何をやっているのかしら」
その時だった。
「ワインをお持ちしました」
召使の少年がそう言って、コルクを開ける。ジョゼは振り返ってその様子をじっと見つめると、窓から駆けて行ってグラスに注ごうとする少年の手を制した。
「ああ……待って、マルク」
ジョゼは抜き置かれたコルクをつまむと、自らの鼻先にそっと近づけて呟いた。
「……このコルク、よく見たらシャトー・ギャロワのコルクじゃないわ。それに──」
ジョゼは香りを嗅ぐなり眉間に皺を寄せた。
「ワインに、毒が仕込まれてる。このジャスミンのような香り──イエロー・ジャスミンの毒だわ」
召使のマルクは困ったような顔をして、コルクを見下ろした。コルクは既にワインの赤い色を吸っており、何かを塗られた形跡は見出せない。
「それは直接シャトー・ギャロワから仕入れて来たものなの?」
「そうです」
「ならば、どこかですり替えられたのよ。心当たりは?」
「……物資を運ぶ途中、休憩を何度か挟みました」
「なら、そのタイミングが怪しいわね。御者にも確認を取るわ。何にせよ、早く気づけて良かった」
ジョゼは再び窓の外を見た。マルクは青ざめながら、震える手で例のワインに再び栓をする。
「だってこのワインは、あなたのお母様たちにも出すところだったのだから」
窓の下、庭でこの世の春を満喫している女が三人。女優のリゼット、歌手のミシェル、踊り子のアナイス。三人は全員娼婦で、アナイスはマルクの母親であった。
「いいこと?マルク。あなたがしっかりしなければ、私どころかアナイスごと死ぬところだったのよ。こんなものは早々に処分して頂戴ね」
マルクは頷くと、彼女の指示通りにすぐに出て行った。
ジョゼは別の窓まで歩いて行って、静かに少年の背中を見守る。裏手から出たマルクは、ワインの中身を川岸にぶちまけた。
その途端、川のほとりにぷかぷかと灰色の鯉の死骸が浮き上がる。それを目にしたマルクは震える手で、忌々し気にワインの空瓶を地面に叩きつけて割っていた。
ジョゼは窓にくるりと背を向けると、落ち着かない様子で部屋の中を歩き出す。
「嫌な予感がするわ。……もしかして……あのワインは私を殺すためではなく……これから来るあの方を殺すために?」
今日は、彼女に来客があるのだ。
「どこかから我々の情報が洩れている可能性があるわね……」
青い顔で部屋に戻って来たマルクに、ジョゼは言いつけた。
「厨房に伝えて。ドリンクは、この間のシャトー・ロスコーの三年物……あれの飲みかけを持って来るのよ。客人に新品を出さないのは失礼に当たるかもしれないけれど、安全には代えられないわ」
「かしこまりました……」
ジョゼは再び窓の外を見る。
川の向こう側から、一台の馬車が橋を渡って来るのが見えた。
馬車の到着と共に、ジョゼは玄関に出て待ち人を出迎えた。
降りて来たのは、若い貴族の男だった。国会議員になってからまだ日の浅い元軍人の男で、黒く長い髪を後ろで束ね、姿勢のいい頑丈な体に沿う黒いフロックコートを着ている。彼は馬車から降りるなり昼の光に当てられたのか、目を細めていた。
セルジュ・ド・バラデュール。
先頃ドニ1区で初当選した、若い政治家である。バラデュール伯爵家の次男で、娼館に現れたなどという噂を一切聞かない、堅物と評判の男であった。
なので、ジョゼとの面識はない。
しかし、セルジュの強い要望で今回、娼館の主との顔合わせがセッティングされたのだ。
きっかけは、一通の手紙──
「お待ちしておりました、セルジュ様」
城の主であり娼館の主であるこの小さな少女を目の当たりにし、セルジュは少し面食らっていた。
「あなたが──ジョゼ、様……?」
「ええ。私が娼館リロンデルの主にしてフルニエ城の主、ジョゼでございます」
「……驚いた。少女とは聞いていたが、まさかこんな」
こんな?とジョゼは不満気に、しかしいたずらっぽく微笑んで見せる。セルジュは続けた。
「お人形さんが出て来るとは」
薔薇の咲き誇る白亜の城の前で不穏な黒いドレスを翻し、お人形と言われたジョゼはまんざらでもなさそうに笑った。
「さあ、ご依頼通り、まずは中でお話をしましょう。交渉はそこで……」
二人は城の中に入った。
応接間に入ると、量の減った三年もののワインが執事によって運ばれて来る。ジョゼはセルジュに、今朝の毒ワインのことは話さずにおくことにした。
テーブルを挟んで対面する。執事がセルジュのグラスにワインを注いだが、彼はワインに目もくれず単刀直入に話し始めた。
「先日は、迅速にお返事いただきありがとうございました。秘書にも任せられぬ案件のため、急に自ら馳せ参じたことをお許しください」
「お気になさらなくていいわ。私、あなたの唱える政策に賛同しているの。少しですが、力になれればと思っただけなんです」
セルジュはようやくほっとした表情を見せ、少し前のめりになった。
「政策とは、婦人参政権のことですか」
ジョゼは頷いた。
「ええ。今この政策を明確に押し出そうとしているのは、あなたぐらいのものでしょ?」
「そうですね……多くの年寄政治家には反対されています。若い少数の政治家だけが賛同してくれているという状況です」
「私、娼婦にだって国を動かす権利があると思っております。性別や職業がどうあれ、同じ人間じゃありませんか。男だというだけで人買いにだって選挙権があるのに、女だというだけで娼婦どころか貴族夫人にまで選挙権がないのはおかしいです」
「私もそう思っています。当たり前のことですが、トランレーヌの半分は女性なんです。私は、男が女性を恐れて参政権を与えないのだと思っています。自分達より賢い女が出て来ては立つ瀬がない、と怯えているのです。軍部にだって女性諜報員や通信員がいるのに、議会にいないのはおかしいですよ。優秀な人材は、女性の中にだっていくらでもいるのです」
堅物そうな見かけによらず、よく喋る男だ。議員なのだから当然と言えば当然であろう。
ジョゼは早速本題に入った。
「それでセルジュ様が私から〝買いたい情報〟とはどのような──?」
セルジュはその話題になると、急に声のトーンを落とした。
「……フレデリク・ド・フェドーという議員をご存知ですか」
ジョゼは再び少し息を止める。それから、その不審な挙動を隠すように力強く頷いた。フレデリクはリロンデルによく出入りしている議員のひとりだ。中年の小太りの男で、彼も貴族である。
「……存じ上げております」
「何でも構いませんので、彼に関する情報を余すことなく教えていただきたいのです」
「例えばどのような……?」
セルジュは真っすぐジョゼを見つめると、改めて言った。
「フェドー議員に、スパイ疑惑が浮上しています。他国と内通している、外患誘致の容疑です」
場が少し冷えた。
「しかしながら、警察に突き出せるほどの証拠がない。そこで、ジョゼ様の娼館に美人局を配置し、とにかくどんな小さなことでも情報を得たいところなのですが」
「なるほど、美人局……」
「期間は一年ほど。報酬の一部は前払い出来ますし、場合によっては更新・延長も可能です」
「……」
ジョゼはしばらく考え、セルジュに言った。
「……どのような情報をお望みなのかしら。美人局の依頼をされるのは初めてだわ」
セルジュはその言葉にきょとんとする。
「初めてなのですか?」
「ええ」
「私はあなたの噂を聞いてここに来たのですが」
「噂?」
「はい。ジョゼ様は娼館に入られてから裏社交界のあらゆる難事件を解決し、その頭脳明晰さで娼館と城を担うまでに上り詰めて来たのだと。〝裏社交界の女王〟と呼ぶにはまだ若過ぎるため〝裏社交界の姫君〟とあだ名されているのだと──」
ジョゼはふんと忌々しげに鼻を鳴らした。
「警察が裏社会で頼りないから、何度か協力してあげていただけよ。変に買いかぶられても困ります。裏社会で一目置かれているだけで、私は実は……弱くて可憐な乙女なのですよ?」
「……そうですか?」
「でも、もし本当にフレデリク様がスパイなら、接触を続けている私たちの身も危険にさらされるかもしれませんね……」
ジョゼは、新聞で読んだ首なし遺体の話と午前中に嗅いだあの甘い毒の香りを思い出し、顔をしかめた。
このセルジュとやり取りした時点で、すでに危機は迫っているらしい。
毒を食らわば皿まで、だ。
「いいでしょう、協力させていただきます。ただ、政争に巻き込まれて危険な目に遭わせないように、彼女たちを守る警備員を雇って欲しいの。出来るかしら?」
「分かりました、必ず手配します」
「ええっと……では美人局をさせる前に、従業員のみんなにあなたを紹介しておきたいの。いいかしら」
「無論、大丈夫です」
「では、あの庭まで行きましょう。そこで親睦会がてら昼食でも」
ジョゼはセルジュを連れ、応接間を出て行く。
テーブルには、全く口をつけられなかったワインが静かに佇んでいた。




