3節 漂泊する不均衡な獣
未だ夜闇の消えない頃、微かに朝日が空を白くしている内に、ラビとアルカは小屋を出て村へ向かった。彼女が任されている幾つかの労働を終わらせる為だ。
「待っていても良かったのに」
『一宿一飯の恩』
間もなく村に辿り着き、二人で家畜小屋の掃除を進めていると、放牧場のほうから男が一人わたわたとやってきた。
彼はアルカと同じ『働きもの』の青年で、村の羊の管理をしているのだった。
「誰か! 誰か、ああ、き、君たち……」
「何かあったんですか?」
男は何度も唾を飲み込んで、汗をだらだらと流して、躓くように言葉を発した。
「おれが仕事に、ほ、放牧の仕事に、行ったらさ、む、向こうに、お、お、狼が! 羊もやられちまって……目の前で!」
「怪我はない?」
「ないよ、に、逃げたから、おれは元気だけど、でも、ああ、羊が、うう、村のみんなに何て言われるか……」
男の恐怖は狼そのものというよりは、責任を問われて責められることにあるようだった。彼は頭を抱えてぶるぶるとみっともなく震えていた。
「ともかく、狼を追い出しに行かないと……」
「無理だよ、あんなの天使様でもなきゃ……」
駆け出そうとするアルカを男が引き止める。そこにラビが歩み出た。タブレットを掲げて主張する。
『私が排除する』
男は不安げな瞳でラビをギョロギョロ眺めると、少し落ち着いた様子で呟いた。
「な、何そのガラス板? ……いや、き、君どうみても子供だし……君に任せたらそれこそ怒られてしまうよ……」
『私は月の代行者。使命を帯びて此処に在る。戦闘の心得はあるつもり』
「…………? 言っていることがよく分からないけど……」
男は納得が行っていないようだったが、構わずラビは旗を担いで飛び出した。アルカも慌てて後を追う。
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それは狼と呼ぶには些か大き過ぎた。
他の生き物にも例えようがない───化け物だった。
楽園は人だけを慈しむものではない。天使によって歪められた環境は、彼らのような野生動物も愛し、醜く変質させた。
狼は悪臭を放つ唾液をぼたぼたと垂らし、鼻先を血で赤黒く染めている。全身が炭のように黒く、毛並みは逆立ち、さながら巨大な影のようでもあった。憐れな羊の頭骨を軽々噛み砕きながら、それはこちらに振り返った。
ラビは臆することなく前に踏み出し、旗の先を差し向ける。
『悪意なき隣人。ここはお前の座標ではない』
開戦の合図。彼が鮮やかな旗を一振りすると、興奮した狼は素早く飛び掛かってくる。その両の前足で踏みつけるような攻撃を躱し、硬直の間に飛び込む。
一撃、二撃、三撃と間隙なく旗による殴打を繰り返す。しかし、それらは獣の重厚な毛皮によって脅威を数段下げられているようだった。
それを見てラビは即座にアプローチを切り替えた。
『アプリケーション:執行する一撃』
横から叩き込まれた強打に狼が少し怯む。しかし、ラビが間合いに入った為にすぐさまその首筋目掛けて悍ましい牙を剥いた。
咄嗟に旗の柄で防ぐ。狼はそのまま深く噛みつき、およそ離しそうにはない。それを見て、ラビは旗を引き抜こうとするのではなく、逆に押し込んだ。
異物感を覚えたのか、狼が反射的に顎を開いて後ずさる。その鼻面に追撃を入れる。
『アプリケーション:賢明なる一閃』
恐ろしいほど正確に穿くような刺突が為された。それは獣の闘争心を砕くに充分だった。
儚く甲高い悲鳴を上げ、望まれない客人は尾を巻いて森の方へと逃げていく。
カランコロンと音を立て、旗が決着を告げた。
『戦闘完了』
儀式的に外套の頭巾を深く被り直したラビの元へ、そろりそろりとアルカと村の男が近寄ってくる。
「ほ、本当にやっつけちゃったの? 体は何ともない?」
『:-)』
グッと親指を立てる彼には、既に先程までの戦いの気配はなかった。
「強かったなあ……。すごいなあ……。君はアルカの知り合い? なのかい? 初めて見る顔だけど……。でも、助けてもらったのは事実だし、村のみんなにも紹介しなきゃね」
そう言ってわしゃわしゃとラビの頭を撫でた男は、獣の逃げていった方角を見ながら首を傾げた。
「それにしても、こんなこと今までなかったんだけどなあ……。やっぱり、火事のせいかなあ」
『火事?』
「そう。二つ向こうの村の辺りで酷い火事があったらしくてさ。村も一帯の森も跡形もなく燃えて、生き残りは誰もいないって」
それで森の生き物がこっちに逃げて来ているのかも、と男は心配そうに言った。
「誰だって、腹が空いたら辛いよなあ…………」
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「さ、探しましたよぉ!!」
「誰?」
『遅い』
村で歓迎を受けている最中、一人の男がヘロヘロとやってくる。
神父然とした格好だったが、教義を示すような紋章は見当たらない。人懐っこそうな柔和な顔立ちの若者で、アルカよりもずっと長い栗色の髪を低い位置で一つに纏めていた。
『彼はヴァイスハイト。探していた商人』
「道中の護衛として雇ったのに、フラッとどこかへ消えちゃうんですからー!!」
『:-P』
悪びれた様子もないラビに、ヴァイスハイトは黙って手刀を入れる。それからアルカと視線を合わせるように屈むと、そっと手を差し出した。
「君は彼の新しいお友達ですか? 改めて自己紹介を。僕はヴァイスハイト、しがない商人です」
ミステリアスで甘い声色に、やや中性的な顔つき。加えてにこやかな振る舞いが当然万人を魅了するだろう男だった。
アルカは快く握手に応じた。
「よろしく、怪しい人!」
「酷い!!」




