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【1章完結】天使の國  作者: 遠梶満雪
2章 阿修羅研鑽階層イーラ・エト・インサーニア
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11節 光の終わり

 研鑽階層にはかつて『英雄』と呼ばれる男がいた。


 現在でも残っている写真の数枚には、愛しい妻の隣で、可愛い子どもたちを両腕に抱く姿。その首にはいつも優勝レイが掛かっていて、力強い笑みを浮かべている。

 敗北を知らず、慢心を知らず、強く、優しく、絵に描いたような『ヒーロー』。


 ともすればそれは憧憬の行き先であり。

 ともすればそれは気持ち悪さでもあり。


 何にせよ彼は、『最高の人類』だった。


 無敗のまま英雄戦線(グランドゥモ)の六つの冠を手にした年のある日、彼は称賛と敬愛と嫉妬と絶望を一身に背負い、『人類の進化』へ挑戦した。


 つまり────天使フォルティアへ挑んだのである。


──────────────────────


 結果は誰が見ても明らかだった。


 天使の羽に汚れはない。

 伏しているのは男一人。


 人類最強と呼ばれた英雄は、カミ(・・)に指を触れることさえ許されなかった。人類は、天使の足元にも及ばなかった。


 さらに言えば、英雄の身体にさえ、目立った傷はない。

 初撃での気絶。

 それはフォルティアが手加減をし、なおかつ一撃で試合を終わらせようとした結果であることは明白だった。


「嘘だ!!」


 観客席から少女が叫ぶ。


「嘘だ嘘だ嘘だ!! パパが負ける訳ないのに!」

「ルーチェ!」


 引き留めようとする兄の手を振り払い、幼いルーチェは駆け出した。父の勝利を祝うために、今まで何度も走った道を。英雄の愛娘なら、といつも特別に入れてもらえた控え室まで。


「パパ!」


 ドアを開けると、彼女のヒーローは力なく笑った。


「ルーチェ……格好悪いところ、見せちゃったね」

「パパ…………」


 今までに見たことのない父親の様子に、娘は後退る。光がなく、洞窟のようになってしまった瞳が恐ろしかった。

 父親は何かを振り払うように首を振ると、ルーチェに向かって外を指差した。


「飲み物を、買ってきてくれないか? 一緒に飲もう」

「……うん、分かった」


 それはいつも通りのルーティン。いつも外の売店で、甘いコーラを二本、父親と自分の分を買ってくるのがルーチェの役目だった。


 表に出て、賭け券売りの隣の店で顔見知りの店主に声をかける。


「おじさん」

「ああ、ルーチェちゃん。……いつものかい?」

「うん」

「──親父さん、残念だったな。まあ、気にすんなって伝えてやってくれよ。ご贔屓さんへの応援だ、お代はいらねえ」


 最近入ったという販売員から冷えたコーラを二本、手渡される。

 ルーチェは少しだけ微笑んだ。


──────────────────────


「ゴクッゴクッ…………うん、おいしい!」

「あはは! パパ、飲むの早すぎー!!」


 わざとらしく喉を鳴らす音を真似て、父親はコーラを三口ほどで飲み切ってしまう。それをケラケラと笑って見ていたルーチェは、父親の様子がいつも通りに戻っていることに安堵した。


 それから、自分も飲もうと蓋を開けると、父親が引き留める。


「………………ルーチェ!」

「なあに」

「……パパ、もう一本飲んでもいいかな」

「えー! しょうがないなあ!」


 そう言いつつもはにかみながら渡す。

 すると、また買ってきていいから、と急かすように部屋を追い出された。


「お母さんとお兄ちゃんの分も買って、おうちで飲みなさい」

「……はーい」


 去り際、ルーチェは父にきつくきつく抱き締められた。彼の両手は震えていた。父親は言う。


「ルーチェ……私は、家族を愛している」

「急に、どうしたの、パパ」

「愛しているんだ。それを、覚えていてくれ」


 その声は今にも泣きそうで、弱くて、哀しかった。


「忘れないよ、パパ。忘れようがないよ」

「ありがとう、ありがとうルーチェ。君はいつでも私に勇気をくれる、最高のヒーローだ」


 それから頬にキスを落として、二人は別れた。それは永遠の別れだった。


 何故なら、次にルーチェが父を見たのは、彼が棺桶の中にいる姿だったからだ。


──────────────────────


 あの日、ルーチェが控え室を出たあと。父は血を吐いて倒れているところを発見された。とっくに事切れていた。


「あなた────どうして」


 喪服を着た母親が泣き崩れている。兄はその背を撫でていて、周りの人たちが口々に噂話を呟いている。ルーチェは少し離れたところで立ち尽くしていた。


「自殺だって?」

「控え室で毒を飲んだそうだよ」

「酷い負け方だったもんなあ」

「だからって、闘技でならまだやれたろうに」

「お子さんもまだ小さいのにねえ」


 ルーチェの頭の中では、あの日のように同じ言葉が荒れ狂っている。


 嘘だ。

 嘘だ嘘だ嘘だ。

 パパがこんな逃げ方(・・・)をする訳がない。


 だって彼は─────最高の英雄なんだから。


 血が滲むほどに拳を握り締めても、もう誰も止めてはくれなかった。


 追い打ちをかけるように、心ない参列者の声が聞こえる。


「まあ、死んだってことは弱かったってことだな」

「そうだな、弱かったんだ」

「英雄ってのも大したことなかったんだな」

「あーあ、がっかりしたぜ」

「賭けて損したよ。金返してくんねーかな」


 認めたくない。

 認められない。

 認めない。


 証明しなければならない。彼が正しかったことを。

 証明しなければならない。彼が美しかったことを。


 その為に──────。


──────────────────────


 葬儀も終わり、彼の遺灰が研鑽階層の底へ撒かれたあと、兄は、妹に帰ろう、と声をかけようとした。


「ルーチェ?」


 ルーチェはどこかへ消えてしまっていた。方々を探しても痕跡すら見つからない。目撃情報から下層に行ったのだと分かったが、それきり音沙汰はなかった。


 これが新たな英雄譚の始まり。

 二つの輝きを巡る、物語の序章である。

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