6節 悪魔の問いかけ
情報熱機関という理論がある。
ある物体が持つ情報を観測し、エネルギーを獲得、その後周囲のエネルギーを消費して忘却することで初めの状態に戻る───簡潔に言えば、情報をエネルギーに変えることが出来る、という話である。
この理論は、とある論争の果てに生み出され、その成立が確認された。
きっかけは、或る物理学者の戯れだった。
仮定。分子の粒が一つだけ入った、仕切り付きの箱があるとする。つまり片方の部屋は絶対零度だが、もう片方は分子一つ分の熱がある。
物理学者は言った。
もし、この分子の運動を観測することが出来る存在がいたとして、彼が分子を観測して仕切りを動かせば。
観測しただけで、その悪魔は左右の部屋の温度を変えられたことになる、と。
これは、人類が長い間を積み重ねて確かめてきた、不変であるべき法則、熱力学第二法則に反していた。
かつて人類は、この『マクスウェルの悪魔』と名付けられ提言された物理学の反逆者を躍起になって殺そうとした。否、一度は確かに殺したのである。
だが、百五十年ほどの紆余曲折を経て、答えは出た。
マクスウェルの悪魔は、実在したのである。
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ぱたん、と本が閉じられた。
理想帝国が楽園の王、天使カリタシウス。彼は、その椅子が一度も満たされたことのない冷酷な長机の上座に着き、古ぼけた本を膝に乗せていた。
猫が鳴き、カリタシウスは伏せていた目を上げる。
長机の向かいにいつの間にか、猫を抱えた少年が座っていた。彼がおもむろに口を開く。
「ありがとう、と言うべきなのかな。僕の愛し子」
黒猫の艷やかな毛皮を撫で、マクスウェルは言った。
「君が僕を知る故に、僕は今ここに在る。正しく言えば、現象としての僕は消えたことはないのだけれど」
「────お前は」
少しだけ驚いたかのようにカリタシウスが呟く。
マクスウェルはにこりとも笑わない。
「続きを教えてあげようか。結局、僕がしていた仕事は極めて小さな世界…………生物の細胞内での出来事だった。おかしなことに人類は、あれほど必死になって否定した僕が働くことで生きていたんだ」
「……………………」
猫は喉を鳴らしている。
その音ばかりが響く部屋の中で、二人は向かい合っていた。カリタシウスが静寂を破る。
「……ヒトを憎みはしないのか」
「何故? 僕はただの現象だ。感情など無いよ」
小首を傾げたマクスウェルは猫の額を擽る。
「逆に、そう言う君はヒトを憎んでいるのかな、カリタシウス」
「そんな筈がないだろう。私は愛さなければならないのだから」
それが当然だというように答えたカリタシウスに、マクスウェルは不思議そうな顔をした。
「愛する理由も覚えていないのに?」
返事はない。情報を観測する悪魔を前にして、知られていないことはない、と悟らざるを得ない。何故か、カリタシウスは胸の辺りを掻き回されるような不快感を覚えた。
マクスウェルは猫を床に下ろすと、席を立った。少年らしい足取りで出口に向かう。
「乱雑になった情報は、二度と元には戻らない。それが君たちの振るう力の対価なのだから」
扉から半分身を覗かせて、マクスウェルはそう言った。
「人間の欲なんて本当に良い餌を見つけたものだね、喜ばしいことだよ」
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夜半、アルカもヴァイスハイトも夢を見ている頃、ラビは宿の屋根の上に座り、月を見上げていた。三日月よりも肥えたくらいのそれは、くっきりと日向と影の境を映し出している。
野宿でないと夜は退屈だ、と考え始めた頃に、後ろから声が掛かる。
「こんばんは、月の代行者」
『誰だ』
ラビが振り返ると、そこには黒白の少年が立っていた。足元でくわと猫が欠伸する。
「僕はマクスウェル。よろしく」
『…………よろしく』
ラビの隣に腰掛けたマクスウェルは、先刻までのラビと同じように月を見ている。折り畳んだ足を抱えて膝に顎を埋める彼の姿は、異様な雰囲気に目を瞑ればどこにでも居そうな、気弱な少年のそれである。
『何故、ここに?』
そう問えば、マクスウェルは少しだけ顎を引いた。
「当然、君を観測しに来たのさ」
それきり、二人は暫く黙って座っていた。まるで星空観察をする友人同士のような光景だった。ラビは目を輝かせている。
『美しいこの星から眺める月は綺麗だ』
そうだね、とマクスウェルは相槌を打つ。
「彼自身はそのことに気づいていないみたいだけれど、君は分かっているんだね」
『私は彼ではない』
「うん、そうだ。君はあくまで代行者──その身に宿した光さえ、月のものではないようだ」
だから彼の狂気に汚染されないままでいられる、とマクスウェルは呟く。ラビは彼をじっと見ていた。
「──光明諸島でスペーシアを倒した後、『暴動』を見て何を思った?」
『何も思わなかった。それが私に与えられた使命だからだ』
「では、テンペランティウスを倒したときは?」
『不思議な感覚だった。アルカが泣くことは、私の内部に不具合を生じさせる』
それなら、とマクスウェルは続ける。
「これから君はフォルティアを倒すだろう。そうしたら、この研鑽階層の人間は生きていける場所を失う。死ぬ者も出るかもしれない。それについてはどう思う?」
ラビは困ったような顔をした。液晶には、何の文字も浮かばない。何度か画面が点滅した後、ようやく答えが返ってきた。
『分からない。私は、人間と争いたいとは思わない。私の役目は天使を倒すことで──人間を滅ぼしたい訳ではない』
けれど、時としてそれは同等の意味として扱われる、そのことに困惑している。ラビはそう答えた。
マクスウェルは頷く。
「それは飼い主が死んだからと、小鳥を野に放つような話だ。人類は最早、自立して生きていける状態にない。多くのものが失われ過ぎたのだから」
『ならば、どうしたらいい』
「さあね、僕はその答えを有さない。…………だが仮定として、天使の毒に冒されていない人類がまだどこかにいるのだとしたら、道は残っているのかもしれないね」
何はともあれ、悩んでいる時間はないよ、とマクスウェルは告げる。
「全ては迅速に果たされなければならない────無垢な人形、君の光が尽きる前にね」
夜は明け始め、東の空が白み出した。
にゃお、と声がして、気がついたときには彼の姿はどこにもなかった。ラビは首を傾げ、それから立ち上がる。
遠くで鶏が金切り声を上げている。
まずはヴァイスハイトを叩き起こそう、ラビはそう思った。




