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【1章完結】天使の國  作者: 遠梶満雪
2章 阿修羅研鑽階層イーラ・エト・インサーニア
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6節 悪魔の問いかけ

 情報熱機関という理論がある。


 ある物体が持つ情報を観測(・・)し、エネルギーを獲得、その後周囲のエネルギーを消費して忘却(・・)することで初めの状態に戻る───簡潔に言えば、情報をエネルギーに変えることが出来る、という話である。


 この理論は、とある論争の果てに生み出され、その成立が確認された。


 きっかけは、或る物理学者の戯れだった。

 仮定。分子の粒が一つだけ入った、仕切り付きの箱があるとする。つまり片方の部屋は絶対零度だが、もう片方は分子一つ分の熱がある。


 物理学者は言った。

 もし、この分子の運動を観測することが出来る存在がいたとして、彼が分子を観測して仕切りを動かせば。

 観測しただけで、その悪魔は左右の部屋の温度を変えられたことになる、と。


 これは、人類が長い間を積み重ねて確かめてきた、不変であるべき法則、熱力学第二法則に反していた。


 かつて人類は、この『マクスウェルの悪魔』と名付けられ提言された物理学の反逆者を躍起になって殺そう(ひていしよう)とした。否、一度は確かに(ひてい)したのである。


 だが、百五十年ほどの紆余曲折を経て、答えは出た。




 マクスウェルの悪魔は、実在したのである。




──────────────────────


 ぱたん、と本が閉じられた。


 理想帝国が楽園の王、天使カリタシウス。彼は、その椅子が一度も満たされたことのない冷酷な長机の上座に着き、古ぼけた本を膝に乗せていた。


 猫が鳴き、カリタシウスは伏せていた目を上げる。

 長机の向かいにいつの間にか、猫を抱えた少年が座っていた。彼がおもむろに口を開く。


「ありがとう、と言うべきなのかな。僕の愛し子」


 黒猫の艷やかな毛皮を撫で、マクスウェルは言った。


「君が僕を知る故に、僕は今ここに在る。正しく言えば、現象としての僕は消えたことはないのだけれど」

「────お前は」


 少しだけ驚いたかのようにカリタシウスが呟く。

 マクスウェルはにこりとも笑わない。


「続きを教えてあげようか。結局、僕がしていた仕事(・・)は極めて小さな世界…………生物の細胞内での出来事だった。おかしなことに人類は、あれほど必死になって否定した僕が働くことで生きていたんだ」

「……………………」


 猫は喉を鳴らしている。

 その音ばかりが響く部屋の中で、二人は向かい合っていた。カリタシウスが静寂を破る。


「……ヒトを憎みはしないのか」

「何故? 僕はただの現象だ。感情など無いよ」


 小首を傾げたマクスウェルは猫の額を(くすぐ)る。


「逆に、そう言う君はヒトを憎んでいるのかな、カリタシウス」

「そんな筈がないだろう。私は愛さなければならないのだから」


 それが当然だというように答えたカリタシウスに、マクスウェルは不思議そうな顔をした。


「愛する理由も覚えていないのに?」


 返事はない。情報を観測する悪魔を前にして、知られていないことはない、と悟らざるを得ない。何故か、カリタシウスは胸の辺りを掻き回されるような不快感を覚えた。


 マクスウェルは猫を床に下ろすと、席を立った。少年らしい足取りで出口に向かう。


「乱雑になった情報(おもいで)は、二度と元には戻らない。それが君たちの振るう力の対価なのだから」


 扉から半分身を覗かせて、マクスウェルはそう言った。


「人間の欲なんて本当に良い餌を見つけたものだね、喜ばしいことだよ」


──────────────────────


 夜半、アルカもヴァイスハイトも夢を見ている頃、ラビは宿の屋根の上に座り、月を見上げていた。三日月よりも肥えたくらいのそれは、くっきりと日向と影の境を映し出している。

 野宿でないと夜は退屈だ、と考え始めた頃に、後ろから声が掛かる。


「こんばんは、月の代行者」

『誰だ』


 ラビが振り返ると、そこには黒白の少年が立っていた。足元でくわと猫が欠伸する。


「僕はマクスウェル。よろしく」

『…………よろしく』


 ラビの隣に腰掛けたマクスウェルは、先刻までのラビと同じように月を見ている。折り畳んだ足を抱えて膝に顎を埋める彼の姿は、異様な雰囲気に目を瞑ればどこにでも居そうな、気弱な少年のそれである。


『何故、ここに?』


 そう問えば、マクスウェルは少しだけ顎を引いた。


「当然、君を観測しに来たのさ」


 それきり、二人は暫く黙って座っていた。まるで星空観察をする友人同士のような光景だった。ラビは目を輝かせている。


『美しいこの星から眺める月は綺麗だ』


 そうだね、とマクスウェルは相槌を打つ。


「彼自身はそのことに気づいていないみたいだけれど、君は分かっているんだね」

『私は彼ではない』

「うん、そうだ。君はあくまで代行者──その身に宿した光さえ、月のものではないようだ」


 だから彼の狂気に汚染されないままでいられる、とマクスウェルは呟く。ラビは彼をじっと見ていた。


「──光明諸島でスペーシアを倒した後、『暴動』を見て何を思った?」

『何も思わなかった。それが私に与えられた使命だからだ』

「では、テンペランティウスを倒したときは?」

『不思議な感覚だった。アルカが泣くことは、私の内部に不具合を生じさせる』


 それなら、とマクスウェルは続ける。


「これから君はフォルティアを倒すだろう。そうしたら、この研鑽階層の人間は生きていける場所を失う。死ぬ者も出るかもしれない。それについてはどう思う?」


 ラビは困ったような顔をした。液晶には、何の文字も浮かばない。何度か画面が点滅した後、ようやく答えが返ってきた。


『分からない。私は、人間と争いたいとは思わない。私の役目は天使を倒すことで──人間を滅ぼしたい訳ではない』


 けれど、時としてそれは同等の意味として扱われる、そのことに困惑している。ラビはそう答えた。

 マクスウェルは頷く。


「それは飼い主が死んだからと、小鳥を野に放つような話だ。人類は最早、自立して生きていける状態にない。多くのものが失われ過ぎたのだから」

『ならば、どうしたらいい』

「さあね、僕はその答えを有さない。…………だが仮定として、天使の毒に冒されていない人類がまだどこかにいるのだとしたら、道は残っているのかもしれないね」


 何はともあれ、悩んでいる時間はないよ、とマクスウェルは告げる。


「全ては迅速に果たされなければならない────無垢な人形、君の光が尽きる前にね」


 夜は明け始め、東の空が白み出した。

 にゃお、と声がして、気がついたときには彼の姿はどこにもなかった。ラビは首を傾げ、それから立ち上がる。

 遠くで鶏が金切り声を上げている。


 まずはヴァイスハイトを叩き起こそう、ラビはそう思った。

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