8節 遍く旅人を導く星
初めは小さな欠片だった。
名前をくれた。
姿をくれた。
意味をくれた。
それは定義に他ならない。
あなたのお陰で私は私になった。
それでも私とあなたの記憶は、とうの昔に擦り切れた。
私が生まれた、たった一つの理由のあなた。
────あなたの顔が、思い出せない。
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「月の代行者…………」
城の屋上で、テンペランティウスはうわ言のように呟いた。
事の始まりは、とある天使が彼の任されている村の外れで負傷した男に出会ったことだった。
男は自身が管理していた村の羊が数匹、狼に襲われたことの責任を問われて村人に両耳と片腕を切り落とされていた。
驚いた天使が顛末について詳しく話を聞くと、彼は狼を追い返した不思議な少年のことを話した。奇妙な旗と板を持ち、人とは思えない戦闘力を有する少年。無知な村の男はその異常性を不審がる様子もなく、嬉しそうに彼のことを語った。
「なんて言ってたっけなあ……月、ええと月の……代行者? とか何とか……」
変だったけど、良い子だったよ、と男は笑っていた。
その青褪めた満面の笑みを思い浮かべ、テンペランティウスは脈打つ心臓のように拳を握り潰す。掌から真っ赤な涙がぼたぼた落ちた。
そんな彼の手首を、いつの間にか背後に忍び寄ってきていた女が掴んでいた。彼女は学者然とした恰好で、どこか中性的な雰囲気を帯びている。
テンペランティウスは疲れたような顔で相手を見た。
「…………お前のことは締め出した筈だが、どこから這入ってきた」
「えへへ、何と地力で城壁を攀じ登って来ましたー! 頑張ったね! 偉い! 感動した!」
異様な気勢で自画自賛を繰り返す彼女の手をテンペランティウスは振り払う。それを意にも介さず、彼女は変わらず支離滅裂に喋り続けた。
「という訳で皆さん愛しのポールちゃんです! 改めましてこんにちは! あ、ポールって男性名だろーとかそういう野暮なツッコミはダメですよー」
それはそうと、とポールは肩を竦める。
「とうとう来ちゃいましたねえ、終焉」
「終焉、だと?」
「はい。天罰と言い換えたほうが良いかもしれませんね、天使だけに。あれ? それだと罰天か」
テンペランティウスは怪訝そうにポールを見た。彼女はネクタイを片手で締め直しながら人差し指を立てる。
「とにかく、いよいよ人類史のエンディングが近付いてるという訳です。貴方がた『天使』の延命処置も虚しく、ね。まあ、即死案件だったところを千年延長出来たなら充分グッドエンドでしょう」
人類史のエンディング。その意味を噛み締めているのか、テンペランティウスは黙っている。ポールは飄々と言葉を続けた。
「貴方たちも分かっていたんでしょ? これはただのその場しのぎ。まるで折角綺麗に纏まりそうだった人気漫画を、編集部の指示で無理矢理引き延ばしてるような感じの!」
「………………?」
「そっかこの例え通じない! やだ、ジェネレーションギャップー!」
一人で訳の分からないことに一喜一憂するポールに、テンペランティウスはいよいよ呆れ返ったようだった。
「何なんだ貴様は…………」
その言葉に、ポールは意味深長に目を細めた。祈るように手を組み合わせ、ポールはゆっくり目を閉じる。
「……我々は、遍く旅人を導くモノ。永らく人に見つめられ、また私も人を見つめてきました。私は本物の傍観者。助ける術を持たぬ観客」
それから、ポールが差し出した掌を、テンペランティウスはじっと見ていた。
「さて、迷える子羊さん! 貴方もまた、私が守護する旅人の一人! アドバイスは必要ですか?」
「貴様、観客ではなかったのか?」
「私が介入出来ないのは、この物語の行く末だけ。貴方が行きたい場所があるなら、旅人の守護者たる私のサポート対象範囲です!」
えっへんと胸を張る彼女に、テンペランティウスは素っ気無く返した。
「不要だ。何も迷うことはない。どこから来た誰であろうと、私の楽園を崩すことを許しはしない」
彼の赤い瞳の奥底で、星の瞬きのような炎が揺らめいた。
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節制とは、何事をも適度に行うこと。己を律する理性を持つこと。また、秩序ある統制を保つことである。
謂わば欲の反対。
けれども、そのように在りたいと強く強く望むこともまた、一種の欲なのではないだろうか。
節制の天使テンペランティウスはその相反する性質により、常に自己否定的な負荷をかけられていたとも言える。
末の兄弟と言われるように、楽園の統治を始めるのが最も遅かったことと、その規模も極めて小さかったことは根本が不安定だった彼を焦らせたのだろう。
それもあってか、彼は兄弟たちと比べて異質だった。
彼は楽園の環境を向上させようと努力を重ね、また、自身の理とは離れたことにもよく関心を向けていた。そういった行動は他の天使には見られないものであり、もし上手くやれてさえいれば彼の楽園は月に届いたかもしれない。
不幸だったのは、彼とその楽園の民との相性が極めて悪かったことだろう。
陽気で楽観的な性の人間たちに対し、節制を重んじ、勤勉と清貧を規律に敷いたその先は、元来の気質を抑圧されたことから来る無気力と怠惰であった。
醜悪な光景は彼の繊細な自尊心を傷付け続けたが、彼の優しさが僅かな輝きを見捨てることも許さない。
結果、屈折した感情は炎となり、万物を灰燼に帰した。
故にこの楽園は循環する。
破壊と再生の円環により、ここに人類は停滞した。
無限焼却修整都市オピドゥム・アケディアエ。
私はここを、そう名付けることにした。
(とある手記より引用)




