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天使の才能  作者: WK2013
8/9

8.天使の夏休み

 帰省していたマイさんからの3度目のメールが、8月8日にあった。

「ちゃんと食べてますか?」

「モナドの調和が乱されない程度には」と返信する。


 さらに「マイさんのいない日常」が続き、ほぼ1ヶ月となった頃、15日にメールが来た。「19日に戻る」とのこと。

「よろしければ20日のお昼にお会いしませんか」とマイさん。

「OK」と返信。

「それでは、11時半に『キッチン・アンジュ』で」


--------- ◇ ------------------ ◇ ---------


 その日も朝から暑い一日。発生した台風の影響はまだなく、照りつける太陽の下、約束の時間ぴったりに「キッチン・アンジュ」に着いた。

 少し早めに来て、ご主人と奥さんにお土産を渡したり、休み中のことを話したりしていたマイさんは、ボクが入っていくと、いつも通りニッコリと笑って軽く会釈をする。

 今日は完全にお客さんなのだけれど、ボクたちはやはり遠慮してカウンター席の奥に座る。

 奥さんが冷たい水を持ってきてくれる。熱気に包まれた体が求めるまま、一気に飲み干す。

「今日はわたしの父のご馳走ということで、なんでもお好きなものを召し上がってください」とマイさん。

「お世話になっている修士の方がいると話をしたら、日頃のお礼にお食事でも、とお小遣いをくれたんです」

「なんか、お会いしたこともないお父様のお世話になるなんて、申し訳無いような気持ちだけれど」

「そう言ってないで、タイさん。たまにはビーフシチューとかどうですか? サラダとライス大盛りは無料ですし」

「そうだね。そうしようか」

 マイさんはボクのために「ビーフシチューのサラダ、ライス大盛り」を、自分のためには「エビフライミックス」を注文した。


「タイさん、いかがお過ごしでした?」

「バイトと勉強。修論のテーマを考えていた」

 ときどき無性にキミに会いたくなった、と喉まで出かかった言葉を、シチューの牛肉の固まりと一緒に飲み込んだ。

「マイさんはどうだった? 友達と会った?」

「バンドのときの仲間と再会しました」

「少し焼けたみたいだけれど、気のせいかな?」

「そうですか? 海に行ったとき、焼かないように注意してたんですけど...」と少し恥ずかしそうにマイさん。

「海へは男友達も?」

「バンド仲間の彼氏とか、『彼氏じゃなくて医学の同志、とかいいながら実はいい感じのお相手』の男子、とかは一緒にいましたけれど...あ、わたしは『彼氏いない歴=実年齢』なんで...」と言うと、マイさんは微妙な笑みを浮かべる。

「ははは。恥ずかしながらボクも同じ」と、どうってことない、という風にボクは返す。

「バンドの仲間には医者の卵がいるんだね」

「ええ。一浪して地元の国立大の医学部に入学しました。バンドではベースでメインボーカルをしてた子です」

「救世主の?」

「はい。彼女が医学を志したのには長い話があるんですけれど、またいずれ、にします」

 二人が食事を終えると、奥さんがアイスコーヒーを持ってきてくれた。サービスとのこと。

「父からのお小遣い、ここの払いをしても相当余るので、母と行った日本料理店に行きましょうか? ランチならたぶん大丈夫です」とマイさんが提案する。

「うん、それは嬉しい。けれどお父様、キミがお食事する相手が男でも心配しないの?」

「あ、そういえば...」とマイさん。

「男性だ、と言うの、忘れてました」


--------- ◇ ------------------ ◇ ---------


「『熱帯』は読み終えることができた?」アイスコーヒーをストローでかき混ぜながらボクは聞いた。

「はい...なんとか」

「どうだった?」

 彼女は作品の内容をざっと話すと言った。

「『消化不良』ということでしょうか。読後の納得感が得られないんです」

「謎を謎のままに語らしめる」というこの本に対する向き合い方が自分にはできない、ということ? この作品は「高校生直木賞」を受賞した。自分と年のそれほど離れていない高校生が楽しんで評価している。そういう作品を楽しむことができないとしたら、自分の今までの読書歴は何だったのだろうという気持ちになる。

 叡山電車、太陽の塔、古道具店、達磨...過去の作品に出てきたスポットやアイテムが登場するのも、本作ではどうもピンとこない。そしてエンディング。メタフィクションという構造から、こういう終わり方なのはわかるけれど、なんか「あ~あ」っていう感じ。

「大好きな作家の作品を楽しめないって、わたしのように好き嫌いのはっきりとしている人間には結構つらいんです。それも、苦悩した時代に終止符を打ち、作家としての宿題が終わった、と作者自身が言っている作品だけに、なおさらです」

 アイスコーヒーを一口含むと、マイさんは続ける。

「さらに読書経験を積んで、改めて読んだら違うかもしれません。けれど少なくとも現時点では、わたしにとっての森見登美彦さんは『夜は短し~』の森見さんであり、『四畳半~』の森見さんであり、そして何といっても『ペンギン・ハイウェイ』の森見登美彦さんなんです」

「話を聞いている限りでは、内田百閒や小川洋子が好きなキミだったら、『熱帯』も十分楽しめそうな作品のように思えるけど」

「この夏に天歌に帰って、タイさんやこちらの友達としばらく離れて気づきました。高校までは読書体験を共有する人がいない中で、読書も一人よがりになっていんだと思います。だから...」

 眼鏡の奥の彼女の瞳が、真っ直ぐにボクに向けられる。


「『熱帯』がメタフィクションということだったら、ゲームをやっている、バンドのときの仲間の...」

「タエコですか?」

「彼女に読ませたら喜ぶかもしれないね」

「タエコには、ゲーム原作の小説について教わってきました。ネットメディアと親和性の高いジャンルに、トライしてみます」

「森見登美彦が好きなキミなら、入って行けないジャンルではないと思うよ」


「そうそう、タエコといえば、帰省したときにバンドの仲間5人で集まって、スタジオセッションをやったんです」

「どうだった?」

「相当久しぶりだったのに、結構うまく行きました。本当に楽しかったです」

 つい最近のことなのに、懐かしく思い出すようにマイさんは話す。

「何曲やったの?」

「レパートリー7曲。そのうち1曲は、恥ずかしながら...わたしのソロの弾き語りなんです」と、本当に恥ずかしそうにマイさん。

「そう、ギターで弾き語りやるんだ」

「本来、わたしはボーカルではないんですけれど、スタジオのオーナーに勧められて。その方のお好きな曲を練習して、ステージで3回披露しました」

「それは、聴いてみたい気がする、というか、是非聴いてみたい。音源をもらうことはできる?」

「7曲の音源差し上げます。それから...」

「それから?」

「よかったら...弾き語りをライブでご披露しましょうか」と真っ直ぐボクを見てマイさんが言う。

「本当に? ぜひ!」

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