正直者が馬鹿を見る、臆病者は馬鹿を見た
掃除を済ませ、二人揃って図書室へと向かう。
微妙な距離を取りながら、とくに会話することもなく無言で歩いた。
二分も歩けば目的地へとついた。
「ちゃんと二人で来たわね」
満足げな笑みを浮かべながら月丘先生が迎えてくれる。
「それじゃ後はお願いね、会議に行かなくちゃならないから」
挨拶もそこそこにさっさと出ていこうとする。
本来はもう会議に出ていなくてはならない時間なのだろう。
「あ、これ。部室の鍵。もし委員会終わった後も戻らなかったら部室で待ってて」
友樹が鍵を受け取ると、月丘先生は足早に駆け出して行った。廊下を走っていいのだろうか。
二人はカウンターへととりあえず座る。
図書委員の仕事といっても大したことはなにもない。
こうしてカウンターに座って、貸出希望の紙を受け取り、指定の場所へと置くだけ。
その間は何をしててもいい。だから友樹は持ってきていた本を鞄から取り出し読むことにした。
詩葉も同じく本を読んで暇をつぶすことにしたらしい。
図書室には他に三人程度まばらに座っておのおの、読書したり、調べ物をしたり、勉強したりしていた。
やはり図書室は静かでいい。
本に囲まれた独特のにおいも心地いい。
誰に何を言われるわけでもない読書の時間。活字の世界は現実よりも解放的で自由だ。
穏やかで自由な時間は、ガラッと大きな音を立てて崩れ去った。
ドアが勢いよく開き、男子生徒が三人ほど入ってくる。
「マジで!?漫画おいてあんの?」
「マジマジ!この前来た時に見つけたんだって!」
人間の喉に本来備わっているはずの音量調節機能が壊れてしまっているのだろうか。
この場には不似合いな音量で彼らはわいわいと騒ぎはじめた。
「おー!マジでリアルダンク置いてんじゃん!」
「素足のゴンもあるぜ!」
「俺トゥエンティワン読むわ!」
彼らは我が物顔でテーブルを占拠し、漫画を何冊も乱雑に置いた。
一人は鞄から炭酸飲料やスナック菓子を取り出し始めた。パーティーでも始める気であろうか。
一人は突然軽快なリズムと愉快なライムが流れ始めたと思うと、スマホを耳に当て何やら喋りだした。
一人はどこかの貴族の末裔なのか、イスを二つ並べて足を伸ばしている。
屑一色、きれいな役満だ。テーブルの真ん中にかいてある行動を彼らはコンプリートした。
周囲からの視線を嫌悪感として感じ取る機能が人間に備わっていればこうはならないのだろうが、残念ながらそんな機能は人間にはなく、もちろん彼らにも備わっていなかった。
たまにこういう連中が入ってくることもある。
友樹は軽くため息をついたが、また本へと視線を戻した。
その時、ふと視界の端の景色が変わっていることに気付いた。
隣に座っていたはずの詩葉の姿が無かった。
どこに行ったのだろうと見回すと、男子生徒集団のすぐ後ろにいた。
彼女はゆっくりと口を開いた。
「あの、すみません」
騒いでいた声がピタリとやむ。
今まさに、スナック菓子を開封しようとしていた彼らは面倒くさそうに振り向いた。
「……何?」
「え、えと、他の人の迷惑になるので図書室ではお静かにお願いします。飲食も禁止です」
「はーい」
一人がからかうように小学生みたいな返事をした。
ぶつくさ文句を言いつつも割と素直に注意に従ってはくれている様子だ。
ひとまず静かになったので、詩葉が戻ってきた。
やはり馬鹿真面目なんだなとぼんやり思う。
彼らはしばらく小声で話していたが、しかしまた二、三分たたない内に声が大きくなり始めた。
「で、やっぱこのシーンが最高にかっこいいわけよ!」
「だな!そことあとはここだな!」
「わかるわぁ!」
気づくとまた詩葉が席を立っていた。
彼らも気づいたようで、仲間内で目配せをする。
友樹は彼らの元へ向かう彼女の姿をぼうっと眺めていた。
正直彼女の行動は理解できなかった。
あの手の手合いは放っておけばいい。
関わったって、正しいことをしたって、何の得もない。
碌な事にならないことなんて十六年も生きていれば馬鹿でもわかることだ。
「何ですか、先生」
彼らは薄ら笑いを浮かべながらじっと詩葉をにらんだ。
そこそこの自称進学校であるはずの守見高校にはいわゆる不良はいない。
彼らは不良というわけではない。が、群れて気が大きくなっている小さな人間なのだろう。
詩葉は彼らの様子に少しひるんだ様子だったが、おずおずと口を開いた。
「静かにしてくれないなら出ていってくれませんか」
今度は先ほどより少し強い口調だった。
その声は少し震えている。
「図書室は誰にでも利用できる権利はあると思いまーす」
まるで反省している様子はない。詩葉は体を震わせ、すっと息を吸い込んだかと思うと、
「出てって下さい!」
図書室の外まで響くような大声で彼女は叫んだ。友樹は突然の大声、というよりは彼女が大きな声を出したことに少し驚いた。
流石に彼らも気まずくなったようで、
「チッんだよ、こっちは楽しくやってただけなのに」
「もういいよ、行こうぜ」
「めんどくせー女」
捨て台詞を吐きつつ漫画を散らかしたまま彼らはそそくさと出ていった。
詩葉はお騒がせして申し訳ないとばかりに周囲に頭を下げると、漫画を片づけ始めた。
心配しなくとも、ここに彼女を責めるものは誰ひとりいない。
片付け終わると、何も言うことなくカウンターの元の席に腰を下ろし、本を読み始めた。
どんな顔をしているのだろうとチラリと彼女の顔をのぞき見る。表情は先ほどまでと変わらず無表情に見えた。
だが眼を見ると、少し潤んで赤くなっている。
視線に気づいたのか、彼女は恥ずかしそうに口元を本で隠し、ささやいた。
「ごめんね。いきなり大声出したりして。私の方がうるさいよね」
そう言って小さく笑った彼女は普段の印象とはまるで違って見えた。
「いや、そんな。皆迷惑してたし。……勇気あるんだね、詩葉さんは」
「勇気なんてないよ。私なんて不器用なだけで、本当に――」
後半は声が小さすぎて聞き取れなかった。
それきり会話はなく、お互いに読書に戻った。
その後は特に何事もなく平穏な時間が過ぎ、閉館時間である一七時になった。
図書室の鍵を閉め、職員室の所定の場所へと戻す。
詩葉とも「それじゃ」とだけ声をかけ、解散した。
月丘先生の言われた通り、ひとまず部室で待つことにする。
真っ直ぐ文芸部の部室へと行き、鍵を開けて中へと入る。
文芸部の部室はせまい。
三畳間より一回り大きいぐらいで、中央にテーブルと向かい合うように椅子が二つ。本棚が一つというシンプルな部屋だった。
だが、それでもこの部室は広すぎるぐらいだ。
何しろ部員は友樹ただ一人なのだ。
本を読むだけなら半畳で充分だ。
贅沢すぎるぐらいの環境がこの部室にはあった。
どの道文芸部の活動としては年一で部誌をだすぐらいのもので、それ以外はひたすら本を読んでいた。
読みかけだった本を読んでしまおうと鞄から取り出す。
『ライ麦畑でつかまえて』。
今は亡きアメリカの作家、J・Dサリンジャーが著した傑作青春小説。
17歳の少年ホールデンがあてもなく街を放浪し、社会や大人のインチキへの不満を漏らしていく。
この小説がどうにも気にいって、一年前に初めて読んだ時から、たびたび読み返していた。
椅子に腰かけると、友樹は活字の世界へと潜って行った。
二十分くらい経っただろうか。
突然ゴンゴンと荒いノック。
とほぼ同時にドアがガラリと開いた。
「あ、良かった。待っててくれたのね。ごめんなさい遅くなって」
月丘先生は、ポニーテールを揺らしながら少し慌てたように部室へと入ってくる。
突然現実に戻される感覚は妙なものだ。
どっちが現実でどっちがそうでないのかわからなくなる。というのは少し大げさだろうか。
「ええと、何から言えばいいのか。うん、でもとにかく伝えなきゃいけないことなの」
彼女は視線をあちこちに走らせながら、まるで独り言のように言った。
「……いったいなんですか?」
開いた本からは目を離さずにたずねる。
「と、とにかく、落ち着いて聞いてね?」
そういう彼女は落ち着いているようには見えない。
「文芸部が廃部になるの」
「そうですか」
開いた本からは目を離さずに言った。
「そうですかって。あなたねえ……」
肩すかしをくらったようだったが友樹の反応にどこか安堵も感じているように見えた。
「それで、いつ廃部になるんですか?今日ですか?」
友樹はやっと視線を月丘先生へと向けたずねた。
「とりあえず順を追って理由から話すわね」
彼女の話によると、文芸部には友樹一人しか在籍しておらず、大した実績も活動もないため廃部候補の部活として名前が挙がったのだ。
活動もしていない部活に部室を明け渡すほどこの学校に余裕はなかった。
それに、文芸部に在籍している時にしていた活動、コンクールへの応募、部誌の発行等は文芸部が無くても行えるというのが学校側の言い分らしい。
部誌は部活が無いと出せないだろうと思ったが、大方もっともな意見であった。
「一応回避する方法があるの?聞きたい?ねえ聞きたい?」
重苦しい空気を変えたいのか、彼女は突然子供のような顔をしながら催促した。
「……ええ、聞いときます」
「今月中に新しい部員を一人見つけること。それが条件!簡単でしょ?」
指をびしっと一本立てながら満点の笑顔をこちらに向ける。
「なるほど、分かりました」
うなずくとポケットからスマホを取り出し、日付をみた。
五月七日月曜日。
今日を入れて後二十五日。
「それじゃ、どうする?校内放送で呼び掛けるとか、私が授業する時に皆に告知するとか」
「いや、いいです。そんなの……やめてください」
「……それじゃあどうするの?」
「別に誰も入らなければそれで、文芸部はこの学校に必要ないってことですから」
言いながら、鞄を肩に掛け、立ち上がり部屋を出ようとする。
「ちょ、ちょっと待って!」
勢いよく肩を掴まれ、思わず鞄にしまおうとしていた本を落とした。
「ごめんなさ……あ、これ、サリンジャーね」
本を拾うと、彼女はタイトルを一瞥し懐かしそうな表情をした。
「この小説私も昔好きだったわ。……ね、きっと探せばこういうのが好きな子も――」
「失礼します」
彼女が差し出した手から力強く奪うように本を取ると、早足で部室を出た。
「あ、ちょっと!」
呼び止める声を無視しながら、こんな風に立ち去るのは今日、二度目だなと思った。
部室がある第二校舎の裏口を出る。
ここからは校舎の裏をぐるっとまわって行かなければ正門に出られない。
正面から出た方が近いのだが、敢えて遠回りをいつもする。
誰もいない静かな校舎裏を通るのが友樹は好きだった。
「好きだった……か」
先ほど月丘先生に言われた言葉を呟く。
なんだかずるい、そう思った。
無性にやるせなくなって転がっている小石を蹴り上げる。
ころころと転がっていった石は壁に跳ね返ると茂みの中に消えていった。
その茂みの横に妙なものがあるのを見つけた。
かすかに動いているそれはどうやら生物らしい。
近づいてみると小鳥が倒れていた。
大きさは十センチ前後といったところだろう。
頭からしっぽにかけては黒く、お腹の半分から上は赤っぽく下腹は白い。目の横と羽の付け根には白い斑点があった。
びくびくと体を震わせている。どうやら動けないらしい。
よく見ると左の羽から血が出ていた。どこかに体をぶつけたのか。
何てドジなやつなんだ。
「バカなやつ……」
呟くと、門の方へと向き直り歩き出す。
数歩歩いて振り返る。
もう一度向き直り、今度は駆けだした。