見慣れた、日常
自転車で十分もすると友樹は駅に着いた。
改札に入ると間もなくやってきた電車に乗る。
人の波をかき分けなんとか自分の場所を確保するとほっと一息ついた。
電車は嫌いだ。特に朝のは。
ぎゅうぎゅう詰めの満員電車、もちろん狭苦しく不愉快であることも嫌だったがそれだけではない。
ここはあらゆる場所の中――少なくとも日本において最も生気の薄い場所のように感じられるからだ。
虚空を見つめるくたびれたサラリーマン、イヤホンからの騒音をまき散らしているのを意に介さない若者、口を開けば陰口をたたく女学生。
それら全てが嫌いだった。
世間体で覆い隠し悪意を敷き詰めた虚像の目的地へと誘う動く収容所。それが朝の満員電車だ。
死んだ目をした大人たちをみるたびに思う。これが自分の未来なのだろうか。
そんな収容所で友樹はというと本を読んでいた。
本の世界に入ればそんな現実を見なくて済む。
二十分もすれば目的の駅についた。
そこからは十五分ぐらい歩けば友樹の通う守見高校がみえてくる。
大通りをあえて避けて人通りの少ない小道を歩くのが好きだった。
静かで心地いい。
空想も自由だ。
そんな登下校を毎日繰り返す。一人で。
隣を歩く友人はいなかった。別に欲しいとも思わない。
道を歩きながらぼさぼさだった頭をなでつける。
真っ直ぐになったと思ったがどうも一か所だけ変な癖がついてしまい直らない。
いくらやっても、真っ直ぐになる気配がないので放っておくことにした。
学校に着く。
所属する二年五組の教室へ。
変わったことは何もない。
昼休みになった。
弁当箱を持ちながら教室を出る。
昼食時はいつも所属している文芸部の部室へと向かう。
ひとりで静かに食べられるからだ。
本を読みながら食べても誰に咎められることもない。
だが、この日部室の鍵は閉まっていた。
個人的に持ち歩いていたのだが、つい先日顧問の先生にばれて鍵は渡してしまった。
職員室まで取りに行くのも億劫だ。
どこか静かなところはないかと思案した。
屋上への扉はあっさりと開いた。
まさか開くとは思っていなかったので友樹は少し驚いた。
「まったく不用心な学校……」
つぶやきながら屋上へと足を踏み入れると、転落防止用であろうフェンスのところに先客がいることに気がついた。
背を向けてはいたが、腰まで届くかのような長い黒髪が特徴的な彼女の名を友樹は知っていた。
天野原鶲。
友樹と同じ二年五組のクラスメイトで学級委員をしていた。
友樹とは小学生からずっと同じ学校であったが、だからといって仲がいいわけでも話をするわけでもなかった。
誰にも笑顔を振りまき、愛想のいい、街ですれ違えば思わず振り向いてしまうような、可憐な女の子。
そんな印象を友樹は持っていた。
学校での彼女は明るく活発でいつも友達に囲まれている人気者。
そんな彼女がなぜこんなところに一人でいるのか。
フェンスをつかみ遠くを見つめている彼女の姿はどこか寂しく見えた。
なんとなく気まずくなって戻ろうとすると、いつの間にか振り返っていた彼女の方から声を掛けてきた。
「光崎クン。どうしたの?こんなところで」
ひたきはこちらに近づきつつ、屈託のない笑顔を向けながら言った。
「え……いや、あの、えと、いや僕は……」
しどろもどろになって声にならない声を出す。
彼女は笑顔のまま、持っている弁当箱を見やる。
「あ、お弁当!一緒に食べる?」
ひたきとは同じクラスだったが録に接点はない。
彼女とどころか高校に入ってクラスメイトと話した記憶すら曖昧だった。
そんな友樹に突然の人気者からのお誘い。
友樹は躊躇することなく、二つ返事どころか三つ返事の勢いで、
「ご、ごめんなさい!」
断った。
そして、彼女に背を向け駆けだした。
とっさの行動だった。
彼女が今どんな表情でその間抜けな姿を眺めているのかは、友樹にはわかるはずもなかった。
結局、お弁当を食べられないまま昼休みが終わり、午後の授業が過ぎ、放課後となった。
今日は月曜日、友樹は今年初めての図書委員会持ち回りの仕事が当てられている日だった。
真っ直ぐ図書室へと向かう。
図書室は学校の中でも好きな場所の一つだ。
本を楽しみ、学ぶための場所。
これ以上素晴らしい場所が学校にあるだろうか。
図書委員になったのは誰もなりたがらなかったからだが、こうした委員会の仕事も苦ではなかった。
図書室へと入ると、カウンターには司書教諭、いわゆる図書室の先生兼文芸部の顧問である月丘先生が座っていた。
短いポニーテールを結わえ、前髪を下ろしていないのが真面目な印象を受ける今年二年目の新人教師。
こちらに気付くと、顔をほころばせ口を開いた。
「あ、光崎君。よく来たわ。……あれ、あなた一人?」
「はい、そうですけど」
彼女は怪訝そうな顔をこちらに向けている。
「……何か?」
「もう一人いるはずなんだけどなあ~図書委員は」
そういえば。委員会は男女一人ずつ決められている。
「必ず二人一緒に来ることって言ったでしょ?どこにいったの、詩葉さんは?」
詩葉苺果。
ショートボブの地味目の女の子。
彼女の情報はそれぐらいしか知らなかった。
クラスでは目立たず、誰かとしゃべっているところを見たことが無い。
もちろん友樹とも言葉を交わしたことはなかった。
そういえば彼女も図書委員になっていたことを思い出す。
「分かりません」
真面目な印象だったからさぼってるわけではないと思うのだが。
「……探してきなさい」
「でも、入れ違いに――」
「探してきなさい」
「はい」
教室へと戻ると、詩葉をあっさりと見つけた。
彼女はこちらに背を向け、ほうきを持って床を掃いている。
他には誰もいない様子であった。
おそるおそる彼女に話しかける。
というのも、誰かに話しかけるだけでも神経を使うというのに、それが女子ともなれば相当なものであるのは賢明なる読者諸兄には明白であろう。
「詩葉さんだよね?あの……ええっと、委員会にその、行かなきゃっていう、一緒に」
やや日本語を不自然にしながらも懸命に訴える。
彼女はやっとこちらに気付いた様子で、びくっと肩を震わせながら振り向いた。
「あ、光崎くん……。ごめん、掃除してて」
友樹は彼女の声をおそらく初めて聞いた。
澄んでいて綺麗な声だなと思った。
「掃除って、一人で?」
「うん、他の人は帰っちゃったから」
「そうなんだ」
他の人は彼女に押し付けた、というよりは悪気はなく適当にさぼって帰っただけなんだろう。
誰に監視されてるわけでもなく、一日ぐらい掃除をやらなかった所で分かりはしない。
彼らは、まさか彼女一人で一班八人分もの働きをしているとは思ってもみないのだろう。彼女はいわゆる馬鹿真面目、という人なのだろう。
「ごめん、もうすぐ行くから。先に行ってて」
彼女は申し訳なさそうな顔をして言った。別に謝る必要は全くないのだが。
「わかった」
友樹はそう答えて、教室を後にした。
と、数歩歩いたところで本来の目的を思い出す。彼女と一緒に行かなければまた追い返されてしまう。
引き返すと、彼女はちりとりにごみを入れようとしているところだった。
しかし、ちりとりを押さえる人がいないので、入れにくそうに何度も何度も忙しくちりとりを動かしてはほうきを動かしていた。
見かねた友樹はそっと近づいてちりとりを押さえてやった。
「あ、ありがと」
下を見たまま彼女はお礼を言った。
「委員会には二人で行かなきゃいけないんだ。早く終わらせないと」
「そうだよね、ごめん」
別に謝らなくてもいいのに。