084・血まみれの女神 下
「聖獣って、世界樹を守護しているっていう、あの?」
『はい、その聖獣です……今は朝食の真っ最中ですね……』
「朝食……」
パンとスクランブルエッグ――というわけではなさそうだ。
このままでは枯れるという世界樹。傷だらけのウルド。そして朝食という言葉。そこから導き出される結論は――
「聖獣が食べてるんですか!? 世界樹を!? ウルド様を!? 守護するべき対象を!?」
叫ぶ狩夜。ウルドの体に次々に刻まれていく新たな傷が、狩夜の出した結論が正解であると告げている。
あまりに痛々しくて、今の今まで正視できていなかった。あまりに数が多すぎて、ぱっと見ではわからなかった。だが、よくよく見れば、ウルドの傷がなんであるかがわかる。
歯形だ。
全身に刻まれた、夥しい数の傷跡。その全てが歯形であった。
世界樹は、女神は、己が眷属に食い殺されようとしているのである。
『聖獣は【厄災】の呪いで正気を失いました……以来、ずっと世界樹を、私の体を食んでいます……何度語り掛けても、私の声は届きません……まるで【厄災】に体を乗っ取られたかのようです……』
「酷い……」
『世界樹の眷属であるがゆえに、聖獣にはマナによる弱体化が作用しません。また、世界樹を守護する結界の内側に存在しているため、イスミンスールには外敵が存在しないのです……』
つまり、天敵がいない。そして、人の手で駆除することもできない。安全地帯で暴れ回る、文字通りの厄介者だ。
まるで白血病である。世界樹は、暴走した自らの防衛機構で危機に瀕しているのだ。そして、その病に対する特効薬は一つだけ。
結界を越え、聖獣を打倒できる者。異世界からの来訪者である。
『勇者様、どうか……どうかお願いいたします。あなた様の手で聖獣を打ち倒し、世界樹を、イスミンスールをお救いください』
「……(コクコク)」
レイラは間髪入れずに頷いた。いつになく真剣な表情でウルドを見つめ返している。
了承の意を示したレイラに、ウルドは安堵の息を吐いた。そして、こう言葉を続ける。
『異世界からのお客様――たしか、叉鬼狩夜さんでしたね? あなたはどういたしますか?』
スクルドとのやり取りを聞いていたのか、狩夜の名を呼びながら問いかけるウルド。狩夜は首を傾げながら言葉を返す。
「どう――とは?」
『初めにお伝えしておきます。私は、あなたの異世界転移には一切かかわっておりません。あなたがイスミンスールにいるのは、ひとえに勇者様のご意思です』
この言葉に狩夜は「あ、やっぱりね」と胸中で呟いた。
この世界にきて、すぐに抱いた考え。狩夜を異世界に引きずり込んだのはレイラである――という仮説は、どうやら間違いではなかったらしい。
なんとなく――本当になんとなくだが、わかるのだ。レイラのことは。言っていることも、考えていることも。
きっとこれが、魂の波長が合うということなのだろう。
『あなたは勇者ではありません。また、何か特別な力を有しているわけでもありません。ですが――勇者様があなたをこの世界へ導き、今も行動を共にしているというのなら、そこには何かしらの意思と、意味があるはずです。私はそう考えます』
「……」
『あなたはスクルドに「人類のためや、世界のためになんて御大層な理由じゃ戦えない」そう言いましたね? そんなあなたに、こんなことを願うのは非常に心苦しいのですが……勇者様と共に、この世界のために戦ってはいただけないでしょうか? どうか、お願いいたします』
ウルドが、世界樹の女神が、狩夜に頭を下げた。人間以上の神様が、ごく普通の人間に「助けてください」と懇願している。
その願いに対する、叉鬼狩夜の返答は――
「……わかりました。戦います」
ウルドが頭を上げ、驚きの表情を浮かべた。頭上のレイラが「よく言った~!」と、頭をペシペシ叩いてくる。
一緒に戦うと言ってくれたことがよほど嬉しかったのか、テンション高めに狩夜の頭を叩き続けるレイラ。そして、レイラのペシペシ乱舞を甘んじて受け入れる狩夜をしばし見つめてから、ウルドは再び頭を下げた。今度は懇願ではなく『すみません』という謝罪の言葉を口にして。
「なんでウルド様が謝るんです?」
『いえ、てっきり断られると思っていましたから。あなたと言う人間を見誤った。そのことに対する謝罪です』
「いやいや。全然見誤ってませんよ。断れるなら断りたいです。人類や、世界のために――なんて理由じゃ、僕は戦えません。正直今すぐ逃げ出したい。それが偽らざる本心です。でも、世界が滅びるなら逃げ場なんてないですし……何より、大切な約束がありますから」
『約束……ですか?』
「はい。ある人と約束したんです。次に僕に助けを求めた人を、絶対に助けてみせるって」
それが、メナドと交わした約束だ。狩夜が、心に誓った約束だ。
『次に誰かがカリヤ様に助けを求めたら、その人を初めて会ったときの私だと思って、助けてあげてください』
あの夜、メナドはそう言った。ならば、狩夜に助けを求めた瞬間、ウルドはもう女神じゃない。初めて会ったときのメナドである。
病に侵され、汚いと、近づきたくないと思ってしまった、あの時のメナドなのだ。
今度こそ、助けてみせる。そして、あのときの弱い自分と決別し、強く、かっこいい男になってやる。
この願いばかりは、思うだけでは終われない。
「だから、戦います。世界のためじゃなく、僕が約束を守るために」
そうだ、その理由なら戦える。叉鬼狩夜の戦う理由は、それくらいでちょうどいい。
『そうですか――よろしくお願いいたします。狩夜さん』
ウルドはこう言って笑った後、視線を地面に横たわるスクルドへと向けた。次いで言う。
『スクルド。勇者様と狩夜さんを、聖域までご案内なさい。くれぐれも粗相のないように。いいですね?』
「はい! ウルド姉様!」
ウルドに話しかけられた瞬間、今までのびていたスクルドが跳び起きた。その必死な様子を見るに、同じ世界樹の女神というくくりでも、上下関係は随分とはっきりしているようである。
『それでは、聖域にてお二人の武運を祈っております……祈ることしかできない無力な私を……どうか許してください』
最後にこう言い残し、ウルドはその姿を消す。スクルドの発光も収まり、その場に静寂が訪れた。
「……」
「……」
ウルドが出てくる前のやり取りのせいで、なんとも気まずい雰囲気が場を支配している。この状況を打開するため、狩夜は咳払いを一つしてから、こう話を切り出した。
「ゴホン。とりあえず、聖域とやらまで案内頼むよ、スクルド」
「……わかりました。案内については異論ありません。ですがその前に、どうしても確認しておきたいことが一つあります」
「ん、なに?」
狩夜がこう言って続きを促すと、スクルドは鋭い目つきで狩夜を睨みつけてきた。次いで、責めるような口調でこう叫ぶ。
「私にはため口呼び捨てで、ウルド姉様には敬語様づけな理由を、三十文字以内で簡潔に述べなさい、人間!」
「風格」
二文字で済んだ。済んでしまった。スクルドの顔が真っ赤に染まる。
「決闘を申し込みます!!」
スクルドはそう叫んだ後、身に着けていた白い長手袋を脱ぎ、狩夜の顔面目掛けて投げつけてきた。
こうして、なんとも姦しい仲間が増えたことに頭を痛めつつ。狩夜は聖獣を打倒し、世界を救うべく、レイラ、スクルドと共に、聖域へと向かうのであった。