083・血まみれの女神 上
『この日をずっと……ずっとずっと待っておりました。私に残された最後の希望。どうかお願いいたします。この世界を、イスミンスールをお救いください』
ウルドと名乗った立体映像の女性は、そう言いながら胸の前で手を組み、レイラに――救世の使命を帯びた勇者に懇願する。それと同時に、狩夜は両の目を見開いた。
胸の前で組まれたウルドの両手。その両手が、夥しい数の傷に覆われ、絶え間なく血を流し続けていたからである。
いや、傷だらけなのは両手だけではない。両の腕も、両の脚も。血染めのドレスに隠れて見えないけれど、きっとその下の体にも。ウルドの全身には、数えきれないほどの傷が刻まれている。
傷がない場所はただ一つ。首から上の顔だけだ。
狩夜の顔が歪む。こんなの、見ているだけで痛い。見ているだけで痛いのならば、当事者であるウルドが感じている痛みは、いったいどれ程のものだろう?
傷だらけで、血まみれで――それでもウルドは微笑んだ。レイラを歓迎するように。狩夜に心配を掛けぬように。
そして、こう言葉を続ける。
『お見苦しい姿を見せてしまい、大変申し訳ございません。御覧の通り、私は――世界樹は危機に瀕しております。世界に残された時間はごく僅か。勇者様、どうかお力添えを」
「どうすればいいの~?」と、狩夜の頭上でレイラが首を傾げる。狩夜もそれが聞きたかった。ウルド、そしてスクルドは、レイラに何をさせたいのだろう?
レイラが勇者だということはわかった。ウルドとスクルドが女神だということも――まあ、信じるとしよう。だが、それだけでは動きようがない。
今この世界には、どのような危機が迫っており、なにを為せば救済となるのか。それがわからなければ、今後の指針が定まらない。
『このままでは、世界樹は枯れます』
「――っ!?」
単刀直入。ウルドはまず結論から口にした。そして、それは世界の終焉に直結する結論だった。
世界樹が枯れる。それはつまり、マナの完全なる枯渇を意味する。
マナが枯渇すれば、魔物の弱体化はもうおこなわれない。そうなれば、ユグドラシル大陸の魔物は徐々に凶暴化し、いずれ人類の手に負えなくなるだろう。
いや、それ以前に、他大陸に生息する屈強な魔物たちが、世界樹の庇護が消えたユグドラシル大陸を放置しておくだろうか?
他大陸に生息する屈強な魔物たち。それらがユグドラシル大陸に足を踏み入れようとしないのは、マナを嫌っているからに他ならない。
世界樹は、ユグドラシル大陸を流れる河川に大量のマナを溶かし込み、水の流れを利用して大陸全土にマナを届けている。そして、その河川の水が最終的に行き着く場所が海だ。
ユグドラシル大陸近海にも、当然だがマナは溶けている。そのマナが、海路からの魔物の侵入を阻んでいるのだ
空路もそう。マナは揮発性が高い。河川や泉、近海から立ち上ったマナがユグドラシル大陸をドーム状に覆い、魔物の侵入を阻んでいる。
ユグドラシル大陸の水が、空気が、それらで育った草木が、他大陸の魔物を拒絶する。無理をして足を踏み入れても、間違いなく弱体化する。
フローグが持ち込んだ可能性のある他大陸の魔物、ヴェノムティック・クイーン。あれも弱体化していたはずだ。弱体化してあの強さなのだ。
世界樹が枯れれば、あんなのが大挙してユグドラシル大陸に押し寄せてくる可能性がある。
断言しよう。滅ぶ。
世界樹が枯れれば、イスミンスールの人類は間違いなく滅亡する。
そして、その人類の中には、異世界人・叉鬼狩夜も含まれる。
この瞬間、レイラの世界救済は、狩夜にとって他人事ではなくなった。
「あの、世界樹が枯れるのを防ぐには、いったい何をすればいいんですか!?」
たまらず声を上げる狩夜。巻き込まれただけの部外者とも取れる存在からの質問であったが、ウルドは無視することなく、丁寧に対応してくれた。
『方法は二つあります。一つは、世界樹の分身である精霊を、【厄災】の呪いから解放すること』
「精霊を?」
『はい。ミズガルズ大陸の光精霊ウィスプ。アルフヘイム大陸の木精霊ドリアード。ヨトゥンヘイム大陸の月精霊ルナ――どこの誰であってもかまいません。八体の精霊の内、一体でも解放することができれば、その力で世界樹の傷を癒し、当面の危機を回避することができます』
「そ、それだったら、精霊解放軍の皆さんが、ついさっきウルザブルンを出発しましたよ! 魔物をテイムして、ソウルポイントで強くなった、本当に凄い人たちばかりです! だからきっと大丈夫です! 精霊を解放して、世界樹とウルド様を助けてくれますよ!」
傷だらけのウルドを元気づけるため、希望は勇者だけじゃないことを告げる狩夜。それを聞いたウルドは、嬉しそうに笑う。
『そうですか。ならば、私の次善策は無駄ではなかったのですね』
「次善策?」
『はい。【厄災】の呪いによって、能力の大半を封印される直前。私は世界樹の種を、メッセージと共にあの世界へと転移させました。救世の勇者足りえる、心優しい誰かがそれを見つけ出し、いつの日かこの世界に戻ってきてくれることを願って」
その世界樹の種と、メッセージとやらを受け取ったのが、マンドラゴラのレイラというわけだ。
『ですが、それは賭けです。そして、お世辞にも成功率は高くない。ですから私は、次善策として【厄災】の呪いによって弱体化した人類に、レベルに代わる力を授けようと考えたのです。精霊は人類の信仰の対象。力を手にすれば、人類は必ず精霊を解放するべく動き出すと考えました』
その考えは正しい。事実として、人類は動いた。いや、力などなくとも、人類は動いていた。その証拠が、過去二度にわたって実施された、精霊解放遠征ではないか。
ソウルポイントによる恩恵がない時代にも、人類は心の拠り所を求めて魔物と戦ったのだ。それほどまでに、信仰の力というものは強いのである。
『私は人類に――そして、このユグドラシル大陸に生息する魔物に、絶えず干渉し続けてきたのです。彼らが体内に摂取したマナを通して、肉体と魂を少しづつ改竄し、人類と魔物とが、互いに共感できるよう作り変えました』
「それじゃあ、近年頻発している魔物のテイム現象は……」
『私の努力が実を結んだ――ということですね。長い時間をかけた甲斐がありました』
長い時間。文字にすればたったの四文字だが、実際には気が遠くなるほどの、永遠にも等しい時間だったに違いない。
ウルドは、ただの人間では絶対に生きることの出来ない時間を一人生き続け、その全てを世界のために費やしたのだ。
全身から血を流し、ずっと痛みに耐えながら。
『精霊解放遠征に参加する、すべての人のために、私はここで祈りましょう。そして、叶うのならば精霊の解放を。精霊が解放され、世界樹が力を取り戻せば……私の声が、かの者に届くやもしれません』
「かの者?」
『はい。それこそが二つ目の方法にして、世界樹が枯れる原因。かの者とは――痛ぅ!!』
「だ、大丈夫ですか!?」
突然苦しみ出すウルド。顔を顰め、激痛に耐えるかのように歯を食い縛り、体を震わせている。立体映像も乱れており、今にも消えてしまいそうだ。
『どうやら……起きたようですね……』
「起きた?」
『かの者が……聖獣が起きました……』