006・名前 下
「さて、次は食べ物だけど――」
こっちはどうしよう? と、狩夜は首を捻った。森の中でマンドラゴラが果物を取ってくれたので、さほど腹は空いていない。だが、少し物足りない気もする。やはり肉が食べたい。川原での野営とくれば、やはり肉だ。
狩夜の脳裏に浮かぶのは、あのウサギモドキの姿だった。果物を口にできたし、森では荷物になるからと、道中鉈で屠ったものはその場に捨て置いたが、今になって惜しくなってきた。
日が完全に暮れる前に、もう一度森の中に入ってみようか? そう、狩夜が悩んでいると、
「ん?」
いつの間にか狩夜の足元へと来ていたマンドラゴラが、トレッキングパンツを引っ張った。狩夜は「何?」と視線で告げながら、マンドラゴラを上から見下ろす。
狩夜の視線が自分に注がれていることを確認したマンドラゴラは、その口を大きく広げた。それを見た狩夜は「食べられる!?」と胸中で悲鳴を上げる。
その直後――
「うわ!?」
“ポン!”という音と共に、マンドラゴラの口から何かが吐き出された。
それは、脳天を鉈で割られたウサギモドキ。狩夜が一番初めに屠り、マンドラゴラが丸飲みにしたものである。
マンドラゴラは、吐き出したウサギモドキを両手で抱え、狩夜に向けて「あげる」と言いたげに差し出してきた。その顔はどこか得意げである。
「君の体は四次元ポケットか?」
苦笑いを浮かべながら、恐る恐るウサギモドキを受け取る狩夜。そこで気づく。
軽い?
訝しがりながらも狩夜は鉈を抜き、石の上に寝かせたウサギモドキの腹に刃を通した。次いで、頷きながらこう呟く。
「やっぱり……」
狩夜は、自分の考えが正しかったと確信しつつ、先ほどつけたウサギモドキの切り口を見つめた。
毛皮が裂け、その下にはピンク色の肉と内臓が覗いている。しかしだ、血がまったく出ない。滲みすらしない。
傷口を手で触れてみたが、手は奇麗なままだ。心臓も空っぽのようで、縮みきっている。このウサギモドキには、血が一滴も残っていない。
どうやらマンドラゴラは、腹の中でウサギモドキの死体を保管しつつも、血液だけは美味しくいただいたようである。
マンドラゴラは、処刑場の土に芽吹いて、囚人の血を養分にして育つという。だが、実際は獣の血でもいいのかもしれない。自生していた場所も解体場の裏だった。
「僕は囚人じゃないからね」
狩夜は、すぐ隣で解体作業を見守るマンドラゴラに視線を向け、真剣な表情で告げる。マンドラゴラは「何の話?」と言いたげに首を傾げた。
「まあ、いいけどね。手間が省けたし」
マンドラゴラの吸血性うんぬんはとりあえず忘れることにして、狩夜はウサギモドキの解体作業に取り掛かる。
内臓の摘出は実に簡単だった。腹を裂いて逆さまにしただけで、ウサギモドキの饅頭の様な体から内臓がたれてくる。それを鉈で切り離して終了だ。
次に皮を剥ぎ、頭を外す。こちらは少し手間取った。なぜなら、胴体と頭の境目が非常に曖昧だったからである。そもそも首が存在しない。
どうにかこうにか頭を外した後、狩夜はようやく食べられる形となったウサギモドキの肉に向き直る。手頃な大きさの枝を肉に突き刺し、下拵えは終了だ。
「さてと……」
火傷をしないように気をつけながら、ウサギモドキの肉をかまどにかける。食欲をそそる肉の焼ける匂いが、夜の河原に立ち込めた。
そう、解体作業が終了する頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。空には満点の星が広がり、月が輝いている。
夜だ。名前も知らない世界での、初めての夜。
「星の配置、全然違うな」
川原に座り込みながら空を見上げる。北斗七星も、カシオペア座も、夏の大三角もなかった。月はあるが、地球のモノとは大分違う。こちらの月の方が明らかに大きい。だが、星の輝きだけは変わらなかった。
「さて、これからどうしよう?」
そう言いながらかまどに手を伸ばし、ウサギモドキの肉をひっくり返す。
ようやくゆっくり考える時間ができた。狩夜は今後のことをじっくり考えようとして――すぐに落胆した。肩を深く落とし、溜息を吐く。
情報が足りなすぎる。考えた末に出た結論が「考えても無駄」と「川に沿って下山」だけなのだから、救いようがない。
――いや、救いはあるか、一応。
狩夜は、隣で一緒にかまどを囲むマンドラゴラに目を向けた。マンドラゴラは火が怖くないのか、じっとかまどを見据えている。
一人じゃないというのが、こんなにもありがたいこととは思わなかった。もしマンドラゴラがいなければ、何度死んだかわからない。
だが、感謝するのは違う気がする。確証こそないが、狩夜をこの世界に引きずり込んだのはマンドラゴラのはずだ。そもそも、マンドラゴラがあの広場に生えていなければ、狩夜はこんな目に遭ってはいない。しかし、邪険にはできない。理由はわからないが、マンドラゴラは狩夜を守ってくれる。懐いてくれる。そして、とんでもなく強いのだ。
このマンドラゴラは、狩夜をこの世界に引きずりこんだ悪魔である。だが一方で、この世界で狩夜を守る天使でもあるのだ。
信用できないが、一緒にいるしかない。
狩夜は、躊躇いがちに左手をマンドラゴラに伸ばし、その頭を撫でる。マンドラゴラはその手を拒まなかった。気持ちよさそうに目を細め、狩夜の手にされるがままだ。
「君さ、名前とかあるの?」
ウサギモドキの肉を右手でひっくり返しながら尋ねる。いつまでもマンドラゴラのままでは不便だ。長いし。
この問いにマンドラゴラは、きょとんとした顔を返した。次いで、首を左右に振る。
「ないんだ? なら、僕がつけちゃっていいかな? ちなみに、僕は狩夜。叉鬼狩夜。わかる?」
狩夜が自分の顔を指さしながらこうたずねると、マンドラゴラはコクコクと頷く。
「よし。今度は君だ。そうだな――」
狩夜は、右手を顎に当てて唸った。一方のマンドラゴラは、狩夜にキラキラと光る期待の眼差しを向けている。
うん。マンドラゴラだから――
「ドゴラってのはどうかな?」
実に安直な名前を口にする狩夜。すると、ドゴラ(仮)は、一瞬唖然とした顔をした後「やだやだやだ!」と言いたげに、首を激しく左右に振った。どうやらお気に召さなかったらしい。
「え、なんで? 強そうでいいじゃん。わかりやすいし」
こう言うと、ドゴラ(仮)は、真剣な表情で両手を胸の前へと動かした。次いで、お椀を作るようにその手を動かす。その動きで、察しはついた。
「ああ、レディだったのね。これは失礼」
確かに、女性の名前にドゴラはない。
だったら、別名のマンドレイクから取って――
「なら、レイラってのはどうかな?」
これを聞いたレイラ(仮)は「それだー!」と言いたげに、狩夜に向かって右腕を突き出してくる。どうやら、こっちの名前は気に入ったらしい。
「じゃ、君は今日からマンドラゴラのレイラだ。よろしく、レイラ」
こう言うと、レイラは嬉しそうに何度も頷いた。
「レイラ」
試しに呼んでみると、それだけで嬉しいのか、レイラは名前が呼ばれるたびに飛び跳ねた。なんだか微笑ましい。
「お、そろそろいいかな」
ウサギモドキの肉がいい感じになったので、狩夜は串代わりの枝を手に取る。
きつね色になった肉と、適度についた焦げ目。混じり気のない肉本来の香りが、食欲をダイレクトに刺激してくる。実においしそうだ。
「レイラも食べる?」
狩夜が溢れ出る涎を飲み下しながらたずねると、レイラは「いらな~い」と言いたげに、嫌そうな顔で首を左右に振った。焼かれた肉は嫌いなのかもしれない。
「そう? なら遠慮なく。いっただきま~す!」
大口を開けてウサギモドキの肉にかぶりつく。異世界の肉、その味は――
「うん、おいしい!」
普通に美味かった。肉の味は元の世界と大差ない。
獣のように肉に噛りつき、貪った。手も、口も止まらない。ただひたすらに、食欲を満たす行為に没頭する。
肉は正義だ。うまいは正義だ。異世界でもそれは変わらない。
「ほんとにおいしい! ウサギモドキ最高!」
笑いながら叫ぶ。狩夜の歓喜の叫びが、周囲の山々に木霊する。
こうして、異世界での初めての夜は更けていった。