060・第三次精霊解放遠征 上
「うわぁ……奇麗……」
ユグドラシル大陸で最大の貯水量と、最優の水質を誇るとされるウルズの泉を見回しながら、狩夜は感嘆の声を漏らした。
真上に存在する大空をそのまま映し出す巨大な水鏡。舟から身を乗り出して下を覗き込めば、十メートルほど先にある泉の底や、沈んでいる流木。そして、水中を優雅に泳ぐ水の民の姿がくっきりと見て取れた。凄まじい透明度である。
別名『女神の姿見』。ウルズの泉は、その二つ名に恥じない神秘的な場所であった。
「あれ? でも普通の魚が全然いませんね? というか、水の民以外の生き物が……あれ?」
寒気を覚えるほどの透明度を誇る奇麗な水。だがそれは、水の栄養のなさと、そこに生息する微生物の少なさを意味する。正直、この泉の水質は異常だ。ざっと水中を見回してみても、魚どころか水草や藻の姿すら見当たらない。ウルズの泉の中には、水の民以外の生物がほとんど存在しないのだ。
「なんで? 大自然に囲まれた、こんな大きな泉なのに……」
「ごめんなぁ僕。そない探しても魚は一匹もいてへんよ。ウルズ川水系の魚は、アタイらの御先祖様がみーんな食ってまったさかいな」
「ええ!?」
舟を押すスキュラの女の子の言葉に狩夜は声を上げて驚いた。そんな狩夜に向けて、スキュラの女の子はこう言葉を続ける。
「大昔。厄災によって水の民の故郷であるニブルヘイム諸島から追われたアタイらの御先祖様は、ここユグドラシル大陸の泉や河川に住み着いた。故郷を追われ、海すら魔物に奪われてもうたご先祖様には、もうそこしか居場所がなかったんやな」
「はい」
「当然のことやけど、生きてくには食わなあかん。せやけど、アタイら水の民はこんな体や。陸の上じゃまともに動けへん。そうなると、水ん中や水辺で手に入るモノを食うしかない。魚や甲殻類を真っ先に食い尽くし、普段は口にしない虫や水草にまで手を出して飢えをしのいだそうや」
「絶滅するまで……食べたんですか?」
「せやで。ああ、僕の言いたいことはわかる。食いすぎや言いたいんやろ? せやなぁ……絶滅はあかんなぁ……でもなぁ、アタイはしかたない思うんよ。御先祖様らかて、食い尽くしたらあかんことぐらいわかっとったはずや。せやけど、誰だって自分が可愛い、死にとうない。限界まで腹が減ったら、食ったらあかんものにも手が伸びる。アタイだってそやし、僕かてそうやろ?」
「……そうですね。僕でもそうしちゃうと思います」
スキュラの女の子の言葉に、狩夜は少し間を空けてから同意した。
「食べなければ死ぬ」「人は命を食べて生きている」マタギである祖父から耳にタコができるほど聞かされた、残酷で絶対の掟だ。この掟に今更口を挟む気など、狩夜にはない。
まあ、狩夜は現代日本人なので『絶滅』の二文字には自然と拒否反応が出てしまうが、故郷を追われ、他に食べ物がない極限状況なら仕方ないとも思う。カルネアデスの板ではないが、極限状態でなら非人道的なおこないも擁護されることが多い。
この時の水の民を擁護する者、非難する者、双方いると思うが――少なくとも叉鬼狩夜という一人の人間は、水の民を擁護する側に回った。生きるためには仕方ない。これが狩夜の結論である。
狩夜の言葉にスキュラの女の子は小さく頷き、話を先に進めた。
「ん、わかってくれてありがとうな。ほんじゃあ話を元に戻すけど、そんなこんなで水ん中の食べもんをあらかた食い尽くして、陸に上がって魔物に殺されるか、それとも飢え死ぬかの二択を迫られたご先祖様に手を差し伸べて、庇護っちゅう三つめの選択肢を与えてくれたのが、イルティナ様の話にも出てきた木の民の王様っちゅうわけやな」
「なるほど」
「水ん中に生き物がおらんから、ウルズ川水系の水はちっとも汚れへん。マナには水の浄化作用もあるさかい、水は綺麗になる一方や。せやから今のウルズ川水系は、人間以外の生き物にとってかな~り棲みづらい環境になっとる。まあ、アタイら水の民からしたら、水は奇麗なほうが快適なんやけど」
水清ければ魚棲まず――ということらしい。水道水では魚が長生きできないのと同じだ。
「まあ、魚が食いとうなったら僕の地元のミーミル川水系か、フヴェルゲルミル川水系にいきぃや。そっちの川には魚が普通におるさかいな。光の民や月の民に「役立たずの水の民は出てけ~」「俺たちの魚を食うな~」って、ご先祖様が追い出されたみたいやから」
「……ごめんなさい」
名目上ではあるが、自身を光の民ということにしている狩夜は、スキュラの女の子に対して深々と頭を下げた。すると「気にせんでええよ~」という言葉がすぐさま返ってくる。
「僕はほんに真面目な子やね。謝ることなんてな~んもあらへんよ。アタイらが生まれるずっと、ず~っと前の話や。その頃はどの民も余裕なんてなかったんやからしゃーないわ」
スキュラの女の子は「なはは」と笑う。そして、こう言葉を続けた。
「アタイら水の民は、【厄災】からこっち、割を食うことが多いんよ。今の大開拓時代かて、ユグドラシル大陸には水棲魔物がおらんさかい、開拓者になれる水の民はほんの一握りやしなぁ……」
「あれ? でも僕、最強の開拓者は水の民だって聞きましたよ?」
そう、現時点において唯一ハンドレットサウザンドの高みにまで上り詰めた、イスミンスール最強の開拓者。それが水の民であったはずである。
“流水”の二つ名を持ち、世界最強の剣士とまで称された、その水の民の名前は――
「えっと確か……フローグ・ガルディアスさん」
「そやねん! フローグはんは、割を食い続けたアタイら水の民の、希望の星やねん!」
フローグの名前にスキュラの女の子は激しく反応し、その両目を輝かせた。そして、興奮した様子で狩夜を捲くし立ててくる。
「フローグはんわ強くてカッコええ男やで! 両生類系の水の民で、顔や体格はちょ~っとあれなんやけど……なんて言うんかなぁ……そう、あれや、心のイケメンなんや! アタイはあの人めっちゃ好きやで~! うん、フローグはんになら抱かれたい! この体を喜んで差し出すわ!」
「そ、そうですか……」
「僕は運がええで! 今、ちょうどフローグはんがウルザブルンに帰ってきてるんや! 都についたら探してみ! そら、そうこうしとるうちに到着や!」
こう締めくくってスキュラの女の子は口を動かすのをやめ、それと同時に舟を押すのもやめた。木と水と風の都、ウルザブルン。その北門付近の船着き場へと到着したのである。




