003・見知らぬ森 中
狩夜は、右手を腰へと伸ばし、鞘に納めていた鉈を抜いた。祖父の手によって磨き抜かれたマタギ鉈が、日の光を受けてギラリと光る。
油断なくマタギ鉈を構えつつ、揺れ動く茂みを見つめ続ける。祖父によって教え込まれた猟師としての心構えと、技術の数々が、狩夜の脳裏を駆け巡る。
ほどなくして、音の正体がその姿を露わした。
「……ウサギ?」
いや、見た目はむしろハムスターに近い。しかし、その大きさはウサギサイズであった。
ふわふわの黄色い毛皮に包まれた饅頭のような体。クリクリの瞳に、小さい耳と短い尻尾。口からは長く頑丈そうな前歯が覗いており、手足はない。何とも珍妙な姿であるが、見た目から察するに、齧歯目の哺乳類だと推測できる。
中々に愛嬌のある生き物であった。ペットとして売り出せば人気が出そうである。
この生物を見た瞬間、狩夜は確信した。
――うん、ここは間違いなく日本じゃない。というか、地球じゃない。
こんな可愛らしい生き物なら、何らかの形でテレビに取り上げられたり、動物園にいたりするはずだ。だが、狩夜はこんな不思議生物、見たこともなければ聞いたこともない。
そのウサギモドキは、手足のない体を器用に動かし、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、狩夜に向かって近づいてくる。
そして――
「うわっと!」
ある程度距離が詰まると、口を大きく広げながら大ジャンプ。狩夜の胴体めがけ飛びかかってきた。
狩夜は慌てて体を捻ってウサギモドキの攻撃をやり過ごし、すぐさま距離を取った。つい先ほどまで狩夜の脇腹があった場所で、ウサギモドキはその口を閉じる。トラバサミが閉じたかのような音が、森の広場に響き渡った。
「あぶな!」
つぶらな瞳と可愛い外見に騙された。見かけによらず好戦的な生き物である。先ほどの攻撃は、明らかに狩夜を殺しにきていた。
考えを改める狩夜。こんな凶暴な生き物、ペットにできるわけがない。
ウサギモドキは地面に着地すると、即座に体の向きを反転。再度狩夜に向かって飛びかかってきた。大きく開いた口の中で、鋭い前歯がきらりと光る。
殺気を撒き散らしながら襲いくる動物というのは、どんな容姿、大きさであっても恐ろしいものだ。成人男性でも恐怖し、逃げ惑う者がほとんどだろう。初見の動物なら尚更である。だが、狩夜は逃げはしなかった。なぜなら狩夜は、日本では数少ない、本当の狩りを経験したことのある人間であったからである。
「っは! 上等!」
狩夜は、そう叫びながら獰猛な笑みを浮かべ、右腕を高々と振りかぶる。次いで、迫りくるウサギモドキの脳天めがけ、マタギ鉈を振り下ろした。
地面に対し垂直に振り下ろされたマタギ鉈は、カウンターとなってウサギモドキの脳天に突き刺さった。ウサギモドキは白目を向き、口から泡を吐いて絶命する。
頭蓋骨をかち割られ、即死したウサギモドキには目もくれず、狩夜は右に飛んだ。そして、着地と同時に左に顔を向ける。そこには狩夜の予想通り、先程まで狩夜がいた場所めがけ飛び掛かる、別のウサギモドキの姿があった。
「残念でした」
番での狩りだったのか、漁夫の利狙いだったのかは不明だが、ウサギモドキの奇襲は失敗に終わる。そして、その隙を見逃してやるほど狩夜は甘い男ではない。
奇襲に失敗し、地面を転がる二匹目のウサギモドキを見据えつつ、狩夜は右腕を振りかぶった。そして、いっさいの躊躇も慈悲もなく、マタギ鉈を振り下ろす。
生々しい手応えと共に、マタギ鉈がウサギモドキの胴体に突き刺さった。ウサギモドキは「きゅーん」と小さく声を漏らし、ほどなくして絶命する。
マタギ鉈をウサギモドキから引き抜きながら、狩夜は周囲を見渡し、感覚を研ぎ澄ました。そして――
「ふう」
大きく息を吐き、全身から力を抜く。周囲に動物の気配はない。
血を払った後、狩夜はマタギ鉈を鞘へと納める。次いで、足元で絶命しているウサギモドキを見下ろした。
「好戦的な割に、大した脅威は感じなかったな」
正直、ウサギモドキは強い獣ではない。それなりの武器と度胸さえあれば、誰だって殺せる獣だ。野犬の方がよっぽど怖い。狩夜の祖父が飼育する狩猟犬たちならば、一方的に蹂躙するだろう。
「……これ、食べられるかな?」
あらかた検分を終えた後、狩夜の頭の中に浮かび上がり口から漏れたそれは、実に猟師らしい考えだった。
毛皮に包まれた饅頭のような体はまだ温かく、触ってみると実に柔らかい。なんとも美味そうな感触だった。
狩夜の頭の中に、かつて祖父と共に狩り、そして食らった、野ウサギの味が思い起こされる。
「食べてみるかな?」
他に食べるものないし。
毒や寄生虫などの危険性が頭を過ったが、今更だなと狩夜は頭を振った。ここがどこで、自分が生きているのかさえ怪しいのだ。そんな些細なことを気にしている場合ではないと思考を切り替える。
もし食べるなら、心臓が完全に停止する前に血抜きをせねばならない。狩夜は先に仕留めたウサギモドキの方へと視線を向けた。向けて、間の抜けた声を漏らした。
「はい?」
あのマンドラゴラらしき植物が、息絶えたウサギモドキを両手で抱えながら、口を大きく広げていたのである。
どうやらマンドラゴラは、あのウサギモドキを食べるつもりらしい。
次の瞬間、ウサギモドキの死体がマンドラゴラの口の中へと消えた。そして、そのまま丸飲みにされる。バスケットボール大のウサギモドキの死体は、マンドラゴラの腹の中にあっさりと納まってしまった。
うん、これはおかしい。
マンドラゴラの胴回りより、ウサギモドキの体の方が明らかに大きかったはずだ。それを丸飲みにしたにもかかわらず、なぜ体に目立った変化がない?
狩夜は、その疑問を口に出すことはせず、無言でマンドラゴラの観察を続けた。
自分に注がれる視線に気づいていないのか、マンドラゴラは狩夜の足元に転がっているもう一匹のウサギモドキの元に、たどたどしい足取りで近づいた。そして、二匹目のウサギモドキを両手で抱え上げ、口の中へと――
「……っ!」
放り込む直前で、マンドラゴラは狩夜の視線に気がついた。
マンドラゴラは、はっとした様子で狩夜の顔を見つめた後、視線を狩夜とウサギモドキの間で行き来させる。そして、何を思ったのかウサギモドキを地面に放り出した後、腰が抜けたように地面に崩れ落ち、ウサギモドキの死体を見つめながら「きゃーこわーい」とでも言いたげに右手を口元に添える。
「もう遅いよ! 見てたよ!」
狩夜は即座に突っ込みを入れた。今更取り繕っても遅すぎる。
この突っ込みがショックだったのか、マンドラゴラは両手と両膝を地面につけ、暗い顔で項垂れてしまった。漫画なら『ガーン』とか『どよーん』といった擬音がつきそうな様子である。
「何なんだよ、お前は?」
襲い掛かってくる様子はないが……とにかく得体がしれない。極力かかわらない方がいいだろう。
項垂れたまま動かないマンドラゴラを尻目に、狩夜はウサギモドキに近づこうと足を動かした。その時――
「っ!?」
狩夜は、再度マタギ鉈を鞘から抜き放ち、慌てて振り返る。
何かが近づいてくる。細い木々を圧し折りながら、物凄いスピードで。
これは――
「まずい!」
狩夜は、どうにもならないと判断して右に跳んだ。