033・姫の婚約者にろくな奴はいない 下
「ぐぼはぁ!?」
目を見開く狩夜の視線の先で、ジルの体が宙を舞い、ほどなくして地面を転がった。驚くべきはイルティナの腕力である。金属製の全身鎧を纏った長身の成人男性を、あの細腕で殴り飛ばしたのだ。サウザンドの開拓者は伊達ではない。
イルティナは、殴り飛ばしたジルに早足で歩み寄ると、胸当ての上に右足を乗せてジルの動きを封じた。そして、ジルのことを害虫でも見るような目つきで見下ろしながら、ドスの効いた声でこう言い放つ。
「村が主に襲われるや否や、守るべき一般人を見捨てて真っ先に逃げる。主がいなくなった後、何食わぬ顔で村に帰ってきたと思ったら、メラドが病気になるなりまた逃げる。あまつさえ、今の今まで一切音沙汰なし! これだけのことをしておいて、よく今さら私の前に顔を出せたなぁ!」
怒声を上げながら、ジルの胸当てを何度も何度も踏みつけるイルティナ。そのたびにジルの口からは「ごふ! ごふ!」と不穏な声があがる。メラドというのは、メナドの姉の名前だろう。
「都に連絡したとき、物資運搬の護衛にお前が名乗りを上げたと聞いたときは、怒りを通り越して殺意が湧いたぞ。どれだけ私とこのティールを馬鹿すれば気がすむ? 物資を持って来れば、また快く迎え入れてくれるとでも思ったのか? この恥知らずがぁ!」
「ティ、ティナ……お、落ち着いて……君と私の仲じゃないか。逃げたのは悪いと思っているよ……で、でも仕方ないじゃないか……ゆくゆくはユグドラシル大陸を飛び出し、新たな国を築くであろうこの私に、万が一のことがあっては――」
「貴様のような根性なしに、そのような偉業をなせるものかぁ!!」
「ひぃいぃいいぃ!」
イルティナは再度怒声を上げ、胸当てを全力で踏み付けた。ジルの口からはなんとも情けない悲鳴が漏れる。王族らしからぬ姿をさらすイルティナの言動に、背後に控えたメナドが小さく溜息を吐く。が、止めるつもりはさらさらないようであった。
一方ジルのパーティメンバーは、慌ててイルティナとジルのもとへと駆け寄ると「姫様、どうかそのくらいで……」「若も反省しておりますから!」と、ペコペコ頭を下げ始める。荷車を引いていた怪鳥も同様で、引いていた荷車を放り出し、主人のもとへと駆けていった。
今まで見たことのないイルティナの姿に唖然とする狩夜。そんな狩夜の隣で「やっぱりこうなりましたか」とガエタノは呟く。
「あの、あれって……」
「ああ、気になさらないでください。あのお二人はいつもあんな感じですから。ただ……さすがに今回はイルティナ様も本気でご立腹のご様子。かく言う私も、この村を見捨てて逃げたジル殿に対して、少々怒っております。他の村民も同様でしょうなぁ」
「え、でも皆さん、さっきは歓迎して……」
「あれは物資と、都からの使者。開拓者に、危険を承知でここまでやってきた、開拓者志望の者たちを歓迎していただけですよ。別にジル殿を歓迎していたわけではございません。その証拠に――」
ガエタノは、物資が満載された荷車を右手で指差した。そこでは非戦闘員――都からの使者と思われる四人による配給がすでに始まっており、ティールの村民たちが我先にと手を伸ばしている。誰一人として、ジルのことを気にかけている様子がない。
「ジル殿は悪人というわけではないのですが、いろいろと残念なのですよ。いや、戦士団・団長の息子というだけあり、実力はあります。ユグドラシル大陸でも指折りの戦闘力を持つ魔物、怪鳥ガーガーをテイムする運も有しております。ですが、昔から胆力がない。自分ではどうしようもない事態に直面するとすぐに逃げ出す。自分より少しでも強い相手からもすぐに逃げ出す。戦士団・団長の息子は、父親とは似ても似つかない小者だと、都では有名ですよ」
「え? それじゃ、あの金属装備は……」
金属製の装備を持てるのは、王族、もしくは王族に認められるほどの功績を上げた、一部の者だけのはずだ。
「あれは、お父上である戦士団・団長のお古です。かの御仁は、いくつもの金属装備を陛下から授与された、本当に立派な御方なのですよ。子供のほうは……あれですが」
「でも、二つ名が……“七色の剣士”って……」
「ああ。それは親の七光りをもじった皮肉です」
「……」
狩夜は右手で顔面を覆い、閉口した。
今も聞こえてくる、イルティナのリンチ――もとい、お仕置きの音と、ジルの悲鳴。それらを聞き流しながら、狩夜は思った。自分は絶対、そんな不名誉な二つ名がつけられないようにしよう――と。
ペシペシ
顔を手で覆ったまま動かない狩夜に焦れたのか、レイラが狩夜の頭を叩いてきた。狩夜は顔から手を離し、視線を上に向ける。
レイラは狩夜を見下ろしながら、左側の葉っぱをジルの方へと向けた。次いで「あの人は治療しなくていいの?」と視線で告げてくる。
相方の魔物らしからぬ優しさに感動しつつ、狩夜は再びイルティナとジルの方へと視線を向けた。そして、苦笑いを浮かべながら、空気を読んでこう答える。
「あの人は……やめといたほうがいいかな」
こう答えた直後、レイラは「そうなの? なんで?」と言いたげに首を傾げ、狩夜は慌てて顔を横に向けた。イルティナの背後に控えていたメナドと、不意に目が合ったからである。
――また、視線をそらしてしまった。
狩夜は胸中でこう呟き、小さく溜息を吐く。そんな狩夜の動きには気づかずに、イルティナとジルを見つめながら、ガエタノがこう口を動かした。
「カリヤ殿、今の姫様をあまり見ないであげてください。頭に血が上り、相手がジル殿だからあのような言動をしておりますが、誓ってあれが姫様の本性というわけではありません。我々にとっては今さらですが、カリヤ殿に長々と見られるのは、姫様の本意ではありますまい」
「……」
ガエタノの言葉に再度閉口する狩夜。確かに、今のイルティナの姿はあまり見ないほうがいいかもしれない。今後のイルティナを見る目が変わってしまいそうである。
小さく頷いた後で踵を返し「えっと、それじゃあ僕は、今日も狩りがありますので、これで」と言い残して、狩夜はそそくさとその場を後にした。
ごった返す村民の間を縫って、村の外に向けて歩を進める狩夜。そんな狩夜の背後から、こんな声が聞こえてくる。
「こうしてくれる! こうしてくれる! まだまだ許さんからなぁ!」
「うわぁあぁぁぁあぁん! 助けてママーーーー!」
ジル・ジャンルオン。イルティナの婚約者にして、実に残念なイケメンであった。