196・落ち目殺し 下
――やっぱり、この人たちは僕みたいな凡人とは違うな。
狩夜が胸中でこう呟き、苦笑いと共にその事実を受け入れる中、フローグは口を動かし続ける。
「まあ、今回ばかりはヤツの習性に助けられたな。おかげで、労することなくレッドラインを越えられる。とはいえ、さすがにいい気分ではないな。モミジ、急ぐぞ」
「おうでやがります」
フローグ、紅葉の両名でも、テンサウザンド級の魔物がひしめく花道を進むのは居心地が悪いらしく――狩夜にいたっては生きた心地がしない――二人はレッドラインへと向かう速度を更に速めた。
ほどなくして、狩夜たち三人はレッドラインの十数メートル手前、ヤツのすぐ横へと差し掛かる。
「……」
これほど近づいても、ヤツは沈黙を保ったままだ。襲いかかってくる気配は微塵もない。どうやら本当に、このまま狩夜たちをレッドラインの内側へと見逃すつもりのようだ。配下に手を出させるつもりもないらしい。
ふと、狩夜とヤツの目が合う。そして、普段からレイラと無言の意思疎通をしているためか、狩夜はなんとなく、ヤツの言いたいことを察することができた。
あれは「ハンドレットサウザンドの開拓者が二人も!? 怖いなぁ……早くどっかいってくれないかなぁ……ドキドキ」って顔だ。
狩夜は確信する。ヤツは強く、頭もいいが、極度のビビリである――と。
ヤツが、フローグ、紅葉の両名に襲いかかる気概を持つのは、二人に先んじてミリオン級になれたときだけのように思えた。
ヤツとの戦いは回避した。レッドラインはもう目の前。これでもう大丈夫だと、狩夜が安堵の息を吐きかけた、次の瞬間――
「ガァアァァァアァアァアアァァァァアァ!!!!」
「「「「――っ!?」」」」
全身の身の毛がよだつ、凄まじい咆哮が、周囲一帯に響き渡る。
テンサウザンドである狩夜と、ヤツの配下であるグリロタルパスタッバーたちが、時間が止まったかのように体の動きを止める中、フローグと紅葉が目を見開き、足を止めることなく口を動かす。
「この、高レベルの〔咆哮〕スキルは……!?」
「あの虎野郎でやがりますよ! よもや、こんなにも早く紅葉たちに復讐しにきやがるとは!」
再戦は予期していたが、それはずっと先のこと、互いに傷を癒してから。
二人がそう考えるのも無理はない。フローグと紅葉も消耗しているが、主のそれは二人以上だ。右前足と多くの血液を失い、全身は傷だらけ。とてもじゃないが戦える状態ではない。
現に、注意深く主の居場所を探ってみれば、〔咆哮〕スキルと共に放たれ、狩夜たちへと届いた主の気配は、強大ながらも遥か東方に位置することがわかる。よしんばフローグ、紅葉の動きを止めることができたとしても、攻撃のしようがない距離だ。
ならば、今このときに使用された〔咆哮〕スキルに、いったいどんな意味がある?
ただの嫌がらせ?
無事にレッドラインの内側へと逃げ果せた好敵手への再戦の決意表明?
いや、違う。主の狙いは別だ。
そもそも、この〔咆哮〕スキルは、フローグや紅葉に向けられたものでも、狩夜やレイラに向けられたものでもない。
主の狙いは――
「――ッ!? ――っ!?!?」
“落ち目殺し” だ。
主は、遥か東方から〔咆哮〕スキルを使い、自らの怒声と気配を、ヤツへと叩きつけたのである。
〔咆哮〕スキルは、同格以上の相手に使用した場合、成功確率が著しく低下する。今回もその例に漏れず、ハンドレットサウザンド級の魔物であるヤツは、スキル効果を跳ね除けた。よって、この〔咆哮〕スキルで、ヤツの行動が遅延することはない。
だが、ビビリなヤツに、特大の恐怖を感じさせることはできたらしい。
叩きつけられた〔咆哮〕スキルと、自身と同格な魔物からの強大な気配。そして、ヤツは主が消耗していることを知らないのだから、当然万全の状態であると考える。加えて〔咆哮〕スキルは、使用した直後に対象に襲いかかるのがセオリーだ。
恐慌状態に陥り、思考が雑になっているヤツは、主の正確な居場所も探らずに、こう考えたに違いない。
今、私は、東からくる別の主から、命を狙われている。今すぐに逃げなければ危険だ――と。
襲いくる主が、地中への攻撃手段を有していない保証はどこにもない。よってヤツは、この危機を確実にやり過ごすべく、弱体化覚悟でレッドラインを越えることを選択。つまり、西に向かって逃げ出した。
弱って十中八九勝てるであろう邪魔者たちを、力づくで押し退けて。
「だぁあぁあぁ!! きたでやがりますぅぅうぅうぅ!!」
「振り返るな! 前だけを見て全力で走れ! ヤツと戦うにしても、レッドラインの内側の方がまだましだ!」
フローグと紅葉は、目の色を変えて突撃してくるヤツに応戦することなく、目前に迫るレッドラインに向かって全力で走った。いまだ〔咆哮〕スキルの影響下にある狩夜は、二人を応援することすらできず、ただただ硬直している。
そして、狩夜たちを背後から攻撃しようと、ヤツがその右前足を振り上げたとき、まずフローグが、それに一瞬遅れて紅葉と狩夜が、レッドラインを踏み越えた。
ドン!
「――っ!?」
直後、狩夜の首筋に衝撃が走る。
ヤツからの攻撃かと、息を飲む狩夜。動かない体を必死に力ませ、この後に襲い来るであろう激痛に備える。
だが、狩夜の体に走ったのは激痛ではなく、〔未来道〕の副作用と、〔咆哮〕スキルの硬直から体が解き放たれる解放感。そして、全身の痛みが消し飛ぶ爽快感であった。
慣れ親しんだこの感覚に、狩夜は即座に後ろを振り返る。
狩夜の目に飛び込んできたのは、真上から迫るヤツの右前足と――
「レイラ!」
治療用の蔓を自身の首に突き立てる、息を吹き返した頼もしい相棒の姿であった。