195・落ち目殺し 上
「ほう、“落ち目殺し” が地表に出ているとは珍しいな」
「“落ち目殺し”?」
巨大なケラ、主化したグリロタルパスタッバーを見つめながら呟かれたフローグの言葉、狩夜はその一部を復唱する。
ニュアンスからして、ヤツの二つ名であるのは間違いない。つまりあの主は、二つ名がつくほどに有名な魔物ということになる。
で、当のヤツはというと、配下であるグリロタルパスタッバーの群れと共に、食事の真っ最中であった。自らが仕留めたロバストアルマジロ、その鱗甲板の裏側に顔を突っ込み、こびりついた肉を黙々と齧っている。
「なんだ、知らないのか? ミーミル王国国内の開拓者ギルドに立ち寄れば、ヤツの話題は嫌でも耳に入るだろう?」
「えっと、フヴェルゲルミル帝国から真っ直ぐここにきたもので……有名なんですか?」
「ああ。ミズガルズ大陸探索における、目下最大の障害にして、レッドラインを境に魔物の強さに大きな開きが出る理由の一つ、それがヤツだ。ミーミル王国国王直々の討伐依頼に加え、有志によって集めらた懸賞金もついている。開拓の最前線、レッドラインのすぐ向こう側にある脅威として、ある意味魔王よりも有名な魔物だな」
「そっか、有名なんだ……」
当面の間、絶叫の開拓地への進出はしない。そう考えていた狩夜は、ユグドラシル大陸の外の情報を積極的に集めてはいなかった。真央から聞いた主の情報も、ユグドラシル大陸内部のものに限られる。ゆえに “落ち目殺し” という名は初耳だった。
あんなのがレッドラインのすぐ向こう側にいると知っていれば、狩夜の行動も変わっていたことだろう。
やっぱり事前準備と、情報収集は大事だな――と、胸中で呟きながら、狩夜はフローグの言葉に耳を傾けた。
「ヤツは、レッドラインの内側から外に出るものは基本無視し、レッドラインの外から内側に向かうものにのみ襲いかかる。レッドラインの外から内側に向かうものは、人間であれば屈強な魔物を前に命からがら逃げ出した手負い、魔物であれば住処を追われた弱者、つまり、傷つき弱った敗者の場合がほとんどであることを、ヤツは知っているのさ。そしてヤツは、その敗者たちを長年狩り続けることで、多くの配下と共にレッドライン付近の荒野地帯を支配する主――ハンドレットサウザンド級の高みにまでのし上がった」
「それが、“落ち目殺し” の由来ですか……」
「ああ。ヤツのことを卑怯と思うか?」
「まさか。頭いいなって心底感心しているくらいですよ。そんなことをする魔物がいるんだって、背筋が薄ら寒くなる思いです」
ここは絶叫の開拓地。人の理が通じない未開の地。弱肉強食という言葉すら生温い蠱毒壺である。ずるい、卑怯は、敗者の戯言。ヤツはレッドラインを狩りに利用することを思いつき、それを実行、大成した。それがこの場での全てであり、善だの悪だの論ずることに意味はない。
ゆえに狩夜は、今すぐに論ずるべきことをフローグに尋ねる。
「で、フローグさん。その “落ち目殺し” が、レッドラインの外から内側に向かう、傷つき弱った敗者である僕たちの前に立ち塞がっているわけですが、どうするんです? 今の僕たちじゃ、戦っても勝てないでしょう?」
先ほどの話が事実なら、ヤツは狩夜たちが縄張りに足を踏み入れた瞬間、躊躇なく襲い掛かるということだ。そして、狩夜はもとより、フローグ、紅葉、そしてレイラは、主と正面切って戦えるような状態ではない。
戦ったら、絶対――とは言わないが、十中八九負ける。
フローグは、いったいどうやってヤツとの戦いを避け、レッドラインを越えるつもりなのだろうか?
「俺とモミジがいればなにも問題ない。いくぞ」
狩夜の心配を他所に、こう口を動かしながら一直線に西進を続けるフローグ。その無謀な行動に、狩夜が慌てた様子で「ちょ、フローグさん!?」と声を上げる中、先行する彼の足が、ヤツの縄張りを踏みしめた。
瞬間、ヤツとその配下が一斉に動く。皆一様に、その顔をフローグに、そして、後に続く紅葉、狩夜へと向けた。
そして――
「え?」
ヤツはすぐさまその場を退き、さも当然のようにフローグの前に道を開ける。
ヤツの予想外な行動に、狩夜が目を見開き、口を半開きにして驚きを表現する最中、ヤツはフローグに道を譲った後、すぐさま右前足を大きく振り上げ、周囲の配下たちに何やら指示を飛ばした。すると、配下たちはヤツと同じように動き、我先にとフローグの前に道を開ける。
ほどなくして、レッドラインへと真っ直ぐに伸びる道が完成。フローグはその道の中に迷わず飛び込み、こうなることを予期していたらしい紅葉も、狩夜を背負ったままフローグの後に続く。
「ふ、フローグさん、これはいったい……」
「縄張りへの侵入者である俺たちの中に、ハンドレットサウザンドの開拓者がいるからだ。ヤツは、高レベルの〔鑑定〕スキルを持っているらしく、こちらの強さを一目で見抜き、自分と同格以上の相手との戦闘を、極力避けようとする習性がある」
左右に並ぶグリロタルパスタッバーを見渡しながら、恐る恐る問いかける狩夜。そんな狩夜を安心させようと思ったのか、フローグはすぐさま答えを返し、次のように言葉を続ける。
「ヤツは強さだけでなく、スキルや装備。数や、大きさ、相性、様々な要素から相手を観察し、僅かでも負ける要素があれば、決して襲ってはこない。おっと、勘違いはするなよ? だからこそヤツは厄介なんだ。ヤツも他の魔物と同じように、人間を見るや否や、考えなしに襲い掛かってきてくれればなと、俺たちが何度思ったことか……なあモミジ?」
「まったくでやがりますよ。紅葉たち名のある開拓者が、準備万端整えてヤツを打倒しようする度、見事に肩透かしを食らって、今なおヤツは、ああしてのうのうと生きていやがるです」
「つまりヤツは、絶対に勝てる戦いしかしない特殊な魔物なんだよ。これもヤツが “落ち目殺し” と呼ばれるゆえんだな」
そしてそれは、あの言葉の語源でもあるのだろう――と、狩夜は思う。
レッドライン。その線を一度踏み越えたが最後、真の強者しか、生きて帰ることは許されない。
狩夜が知恵を絞り、策を弄し、魔物を利用し、己が命を賭け、それでもなお越えることのできなかった壁――レッドライン。
それが、フローグ、紅葉といった真の強者の前には、魔物の方から戦いを避け、いとも簡単に道が開けてしまう。
世界最高峰の開拓者との力の差を、まざまざと見せつけられた。
そして、ランティスともあろうものが、なぜあれほどの数の魔物と会敵し、エムルトの放棄という決断を下してまで、それらすべてを引き連れて希望峰へと逃げ帰ってきた理由もわかった。
その数を大きく減らし、ハンドレットサウザンドの開拓者であるフローグと紅葉を失った精霊解放軍が、“落ち目殺し” の縄張りを通り、レッドラインを越える方法は、ヤツが襲撃を断念するほどの大軍勢を、魔物を利用して偽装する以外になかったのである。