162・業月読命と須佐之男 下
「ふ、ふん! できるものならやってみろ! そこから一歩でも動いたら、貴様が助けにきたその帝と将軍は、決して無事ではすまんぞ!?」
「さて、それはどうですかね?」
カルマブディスの脅しに対し、狩夜はこう言葉を返しながら不敵に笑って見せた。そして、それとほぼ同時に、動くはずのない息絶えた蛇の頭部が、主殿の中で音もなく口を開く。
「「――っ!?」」
禁中の誰もが塀の上の狩夜に視線を注ぐ中、揚羽と立羽だけがそのことに――人間すらも一飲みにしそうなほどに巨大な蛇の頭部の中で、ずっと息を殺し、機をうかがっていた、二人の草の存在を感知する。
「っく!」
倒れて動かない帝にとっさに駆け寄ろうとする立羽。だが、草の片割れ、矢萩がそれを許さない。蛇の牙を削って作った即席の苦無を投げ、立羽の動きを阻害する。
そして、もう一人の草、牡丹が疾風のごとき速度で蛇の頭部から飛び出し――
「うおっしゃー! イケメンゲットー!」
歓喜の雄叫びを上げながら、誰よりも早く帝の元へと辿り着き、即座に両手で抱きかかえた。
「な!?」
ようやく矢萩と牡丹の存在に気づいたカルマブディスが狩夜から視線を外し、慌てて後ろを振り返るが、時すでに遅し。もう牡丹は主殿の床を全力で蹴っていた。
敏捷特化型のテンサウザンド。その本気の跳躍は驚異的であった。主殿から塀の外まで、文字通りひとっ飛びである。
「叉鬼狩夜、揚羽様のことは任せたからね! ばっははーい!」
こう言い残し、牡丹は帝と共に夜の帝都の中へと消えていった。こうなってはもう狩夜でも追いつけない。この場で彼女らに追いつけるものがいるとすれば、牡丹とほぼ同等のステータスを持つ、矢萩だけである。
そんな矢萩に向けて、狩夜は叫んだ。
「作戦成功です! 矢萩さん、後は手筈通りに!」
「心得ました! 叉鬼殿、ご武運を!」
こう答えた直後、矢萩の姿が主殿の中から掻き消える。この後矢萩は、レイラ謹製の解毒剤を手に禁中を駆け回り、オーガロータスの毒に侵された他の人質たちを、順次解放する予定だ。
禁中の内部に散らばっていたカルマブディスの仲間たちは、狩夜を捕らえるべく主殿の庭先に集結している。彼女を邪魔するものはもういない。いや、まだ数人はいるかもしれないが、テンサウザンドの矢萩をどうにかできるものはいないはずだ。
「い、今すぐ帝を追え――いや、追うな! 美月揚羽と他の人質たちを、あの猪豚よりも早く確保しろ! そいつらを盾に帝国を脱出し、新天地で再起を図る!」
状況を瞬時に把握したカルマブディスが、こう指示を飛ばした。その言葉を受け、ある者は血相を変えて揚羽に駆け寄ろうとし、またある者は主殿の庭先から飛び出そうとする。
だが――
「させないよ」
狩夜の背中から木製のガトリングガンが飛び出し、即座に火を噴いた。高速で発射された無数の種子がカルマブディスの配下たちの進行方向上に着弾し、その行く手を阻む。
この庭先から、誰一人逃がさない。そう視線で語りながら、狩夜は言う。
「帝は無事奪還しました。これでもう、お前が王になる術はない。どうしますか? 今すぐに降参するなら、痛い目に遭わずにすみますよ?」
「ま、まだだ! 私はこんなところで終わる男ではない! 美月揚羽、自らの足で私の下までこい! 忘れるなよ! 鹿角家と美月城は、今も私の支配下に――」
『いえ、もうお前は終わりです! カルマブディス・ロートパゴイ!』
カルマブディスの言葉を遮るように、ラタトクスの額から青葉の声が響いた。そして、カルマブディスからの返答を待たずに、青葉はこう言葉を続ける。
『揚羽様、聞こえますか!? こちら青葉です! 鹿角家を占拠していた謀反人どもは、すでに無力化しております! オーガ・ロータスの異常状態からも脱し、我ら鹿角衆は意気軒昂! 皆、謀反人どもへの怒りに燃えております! 現在禁中に向けて急行中! もう間もなく到着します!」
ラタトクスの額から聞こえてくる声は青葉だけではない。揚羽の傅役たる彼女もまた、ここではない場所で声を上げた。
『公方様! こちら峰子なのです! 小生たち美月家臣団も健在ですぞー! もちろん母君や、妹君たちもご無事なのです! 鹿角衆と同じく、小生たち美月家臣団も現在禁中に向けて急行中! もうすぐその場に馳せ参じますぞー!』
「な……な……」
この二人の声に、カルマブディスがついに顔を青くした。そして、わなわなと全身を震わせながら、こう口を動かす。
「馬鹿な……馬鹿な、馬鹿な馬鹿なぁ!? だとしたら、先ほどの通信に返答したのはいったい誰だと言うのだ!? あの声は確かに私の仲間のものだった! 定時連絡だってちゃんと――」
「レイラ」
カルマブディスの言葉を遮るように、相棒の名前を呼ぶ狩夜。その呼びかけに答えるように、一発の銃声が禁中に響いた。そして、ガトリンガンから発射された一つの種子が、カルマブディスの手前三メートルほどの場所に着弾する。
着弾した種子は即座に発芽し、成長。人の口に酷似した花を持つ、不気味な植物が姿を現した。
その花が、カルマブディスの仲間とまったく同じ声で喋る。「こちら美月城、異常なし」と。
もはや顔面蒼白となったカルマブディスに向けて、狩夜は言った。
「オーディオフラワー。便利でしょ? 鹿角家と美月城を先に攻略してからここに向かったから、こんな時間になっちゃいました。そしたら将軍様が腹を切ろうとしてるし……いやー焦った焦った。間に合って本当によかったよ。僕、言いましたよね? お前の野望は、僕たちが叩き潰すって!」
「く……く……くそがぁあぁ!」
こう叫びながら力任せにケージを叩きつけるカルマブディス。壊れたケージからラタトクスが逃げ出し、すぐ近くにあった庭木を駆け上った。
そんなラタトクスの姿を視線で追いながら、狩夜は口を動かす。
「ま、そんなわけです。これで、人質は全員無事に救出されました。あなたを縛るものは、もう何もありませんよ、将軍様。大丈夫。これは死の際にあなたが見た幻覚でも、都合のいい夢でもありません。帝も、青葉君も、そして僕も、誰も死んでなんかいない。あなたの家族も、家臣も、オーガ・ロータスも、全部なんとかなりました。後は、そこにいる謀反人たちを成敗するだけ。それですべてが終わります。だから――」
狩夜はここで一旦言葉を区切る。そして、有らん限りの声で次のように叫んだ。言葉には力がある。そう信じて。
「立て、美月揚羽! あなたを慕うこの国の民が! 家臣が! 他でもない! あなたの言葉を待っている!」
「――っふ。惚れた」
揚羽は小言でこう呟いた後、介錯人が落とした刀を手に取りながら立ち上がる。そして、その刀を抜き放ちつつ、自信に満ちた声で名乗りを上げた。
「フヴェルゲルミル帝国・第八百三十二代将軍にして、月読命流皆伝、美月揚羽……推して参る!」
ラタトクスを通して、青葉や峰子たちも聞いたであろうこの名乗りを合図に、狩夜は塀を蹴り、その身を空中に躍らせた。そして、勇ましい笑顔を浮かべながら、葉々斬を握る右手ではなく、空手である左手を前に突き出し、叫ぶ。
「使うよレイラ! 魔草三剣が一つ――草薙!」