156・本質 下
「ま、待ってください!」
「――っと? なに、青葉君?」
三歩ほど前に進んだところで、不意に右腕を引かれた。そちらに目を向けると、縋るような瞳で狩夜を見つめる青葉と視線が重なる。
青葉は、右手では狩夜の右腕を掴み、左手では先ほど手渡したマタギ鉈を胸に押しつけていた。そして、右手に更なる力を込めながら、言う。
「か、狩夜殿が類稀なる益荒男であるということは姉より聞き及んでおりますが、それはいくらなんでも無謀です! あそこは紛れもなく死地! そして、サウザンドの開拓者が一人増えたぐらいで何かが変わるような戦場ではありません! それぐらいはボクにだってわかります!」
「……」
「戦場で勇敢に戦い、華々しく散るのが武士の本懐! そして、女人に守られるは男子の恥! それは理解できます! ボクだって、ボクだって本当は……ですが、ボクはそれをしていい立場じゃない! ボクの命は、ボクだけのものじゃないんだ! 産まれたときから自由になるものなんて一つもなかった! ボクは、生まれ持った命ですら自由に使えない! 死に場所すら自分の意思では選べない!」
「青葉君……」
「狩夜殿だって同じです! 我らはあなたに死なれると困るのです! あなたは我らの、危機に瀕したフヴェルゲルミル帝国の、最後の希望なのですから!」
日頃から色々と貯め込んでいたいたらしい青葉からの悲痛な訴え。青葉は、理屈と感情の両面から、狩夜をこの場に引き留めようとしている。
そんな青葉に対し、狩夜は困ったように左手で頬をかいた。次いで言う。
「まあ、青葉君の言いたいこともわかります。オーガ・ロータスの異常状態を治療できる僕らに死なれたら困るっていうのも……あそこが僕なんかの力が通用しない死地だっていうことも……」
サウザンドの開拓者が、十一匹ものテンサウザンド級に勝負を挑むなど、無謀を通り越して自殺行為である。どう贔屓目に見ても勝てるはずがない。数の差以前に、身体能力が違いすぎる。
狩夜が一人であの怪物を戦った場合の勝率、および生存率は、まったくのゼロだろう。突然目の前に現れた、不可能という名前の壁。聞こえてくる、無理無駄無謀の三拍子。
そんな非情な現実に対し、狩夜は――
「でも、それを理由に諦められないのが僕なんだ」
開き直ったようにこう言った。そして、狩夜の言葉の真意を測りかねているのか、困惑顔で首を傾げる青葉に向けて、次のように言葉を続ける。
「やめた方がいい。考え直せ。できるわけがない。お前には無理だ諦めろ。現実は甘くない。家族、友人、学校の先生、周りにいるあらゆる人間から、何度も何度も言われたよ。その言葉に、あの頃の僕は耳を傾けようとはしなかった。やりたいことがあるんだ邪魔をするなって切り捨てたんだ。そんなことはない。努力を続ければいつかきっと――ってね」
「……」
「頑張ったんだ、自分なりに。走って、走って、走り続けた。誰よりもだなんて口が裂けても言えないけれど、したんだよ、努力をさ。だけど、結局は報われなかった。僕が目指した場所は、凡人では絶対にたどり着けない場所だった。努力じゃどうにもならないものだった」
「狩夜殿……」
「それを理解して、挫折して、走れなくなった後で気づいたよ。周りにいる人間は、僕の邪魔をしたかったわけじゃないんだって。傷つくだけですべてが無駄に終わることがわかっていたから、心配して言ってくれてただけなんだって」
子供だったとしみじみ思う。あの頃の狩夜には、善意と悪意の違いがわからなかった。自身を引き留めようとするもの、そのすべてが敵に見えた。
悪意だけで口にされた誹謗中傷も中にはあったと思う。だけど、がむしゃらに走り続けた頃に周囲からかけられた言葉の多くは、確かな気遣いと、優しさから紡がれたものだった。今ならばそれがわかる。
「傷だらけになって、疲れ切っていた僕は、その優しさを受け入れることをよしとしたよ。周りからの助言を聞き入れて、絶対にたどり着けないならしかたないって諦めた。目的から目を背けて、それを忘れて、ごく普通に生きることを選んだよ。それより大切なものなんて、何一つないくせに」
何をしても夢中になれなかった。いつもどこか冷めていた。人生に見切りをつけた、つまらない人間がそこにいた。
そんな人間を、社会は優しく受け入れてくれた。それでもいいよと、居場所を用意してくれたのだ。夢も、希望も、熱意もない人間が、ごく普通に生きていけるように、日本という国はできていた。
抗いがたい善意というぬるま湯。それにつかりながら、目的もなく、ただ漠然と毎日を生きる。それを享受し、維持することが、いつしか人生のすべてになっていた。
「そんな僕を、とある出会いと出来事が変えてくれたよ。努力じゃどうにもならないものが、努力次第でどうにかなるかもしれないものに変わったんだ。一度は諦めた場所が、手の届く所にまで近づいた。そしたら力が湧いてきたんだ。もう二度と走れないって、膝を抱えていた人間が、今じゃ少しもじっとしていられない。我ながら現金だよね。呆れちゃうよ、本当に。でもさ、それが叉鬼狩夜っていう人間の本質なんだ」
「……」
「あの頃に比べたら、少しは大人になったと思う。人の忠告には耳を貸す。必要なら周りに助けを求める。そして、絶対無理なら諦める。だけど、手が届くなら止まれない」
狩夜はここで言葉を区切ると、左手を青葉の右手の上に重ねた。そして言う。
「青葉君。心配してくれてありがとう。でも、僕にはやらなきゃならないことがあるんだ。だから――いかなくちゃ」
青葉が、打算と思惑だけで狩夜を引き留めているのではないということはわかる。先の言葉には、確かな善意と、狩夜への好意があった。
でも、善意のぬるま湯なんてもう要らない。強くなるために、目的を果たすために、悪意と殺意が渦巻く地獄が欲しい。
だからいく。カルマブディス・ロートパゴイから向けられた、あの悪意を飲み込んで、叉鬼狩夜は先に進むのだ。
「狩夜殿が何を言っているのか、ボクにはわかりません。ただ……そんな目をしている人が、決して止まらないということはわかります。姉が、そうでしたから」
青葉は諦めるようにこう言うと、狩夜の右腕から手を離した。
「どうしてもいくのですね?」
「うん、いくよ。もう立ち止まらないって決めたんだ。僕は前に進み続ける。レイラと一緒に」
「わかりました。もう止めません。そして、これはお返しいたします。これは死地に赴くあなたにこそ必要なものです」
マタギ鉈を両手で持ち、狩夜へと差し出す青葉。だが、狩夜は首を左右に振り、返却を拒否。そして、怪物に向け足を踏み出すと同時に、こう言葉を返した。
「貸すって言ったでしょう。それは、青葉君が持っていてください。僕には別の武器が――蛇の怪物を倒すのに、これ以上ないってくらい凄い武器があるんですよ」
この言葉を最後に、狩夜は青葉の存在を意識の外に追い出した。そして、真剣な眼差しで怪物を見つめる。
なんど脳内でシミュレートしても、勝ち筋なんて見えやしない。このまま進めば、確実な死が狩夜を待つばかりである。そう、狩夜が一人であるならば。
ペシペシ。
「大丈夫、私がいる」そう言いたげに、レイラが狩夜の背中を叩いた。狩夜は「うん、わかってる」と頷き返す。相手が相手だ。遠慮なくレイラの、勇者の力を頼るとしよう。
だが、けして丸投げはしない。戦うのは、あくまで狩夜である。
一人では勝てない強敵を倒すために、自分の力だけではどうしようもない現実を打破するために、そして、僕が僕であるために――
「あれを使うよ、レイラ。今日も、僕に力を貸してくれ」
「……(コクコク)」
相棒からの同意に背中を押され、狩夜は歩きながら右手を前に突き出した。そして、自らが考案し、レイラが完成させた、とある武器の名前を口にする。
「魔草三剣が一つ――葉々斬」




