117・血脈 下
「あの、ちなみに里見さんの旦那さんはどちらに? 泊めてもらうんですから、ご挨拶ぐらいしたほうがいいですかね?」
別の奥さんとよろしくやっているのかもしれないが――と思いつつ、おずおずと口を動かす狩夜。気まずすぎてできることなら顔を合わせたくないが、満月の夜に別の男を連れ込んだなどというあらぬ誤解を招いて、里見たちを窮地に立たすわけにもいかない。
相応の覚悟と共に口にした言葉であったが、狩夜の心配は杞憂に終わる。里見が「挨拶など不要」と言わんばかりに首を左右に振り、こう言葉を続けたからだ。
「この子らは、現帝との。腹の子は、青葉様とのお役目で授かったものにござる。帝は元より、青葉様も国の要人。童と会わせるわけにはいかぬでござるよ」
帝と、青葉。里見の言葉から察するに――
「その御二人が、残り二人しかいないという?」
「さよう、月の民の男でござる」
「あの、ちょっと待ってください……帝の奥さんで、そのお子さんということは、里見さんたちって、もの凄く偉い人じゃないんですか? 僕、平伏したほうがいいですかね?」
「いや、だから、この子らはお役目で授かった子だと言っておるでござろう。拙に旦那はおらぬ。確かに狛犬家は由緒正しい家系にござるが、童が平伏するほどの家柄ではござらんよ」
「私か左京が男の子だったら、母上が皇后だったんだけどね」
「私か右京が男の子だったら、帝位継承権がもらえたんだけどね」
「ねー左京」
「ねー右京」
「「ねー」」
「ん? どういうことです?」
いい加減慣れてきた右京と左京のユニゾン会話。それを見聞きしながら首を傾げる狩夜。すると、すかさず里見からの補足説明が入る。
「お役目とは、月の民の男が名家の娘――すなわち、勇者の血を少しでも多く受け継いでいて、比較的男子が産まれやすいであろう女子との間で子作りに励むことでござるよ。そして、見事男子を生むことができた者のみが正式な奥であると認められ、その子供の存在が相手に認知されるのでござる」
「――っ」
この説明を聞き、なんともいえない感情が狩夜の胸の内を覆い尽くした。そして、その感情に促されるまま、狩夜は口を動かす。
間違いであってくれ。そう願いながら。
「お役目。つまり、その行為はただの仕事である――と? 義務で仕方なくしているだけだ――と?」
狩夜が言わんとしていることを察したのか、里見は盛大に苦笑いを浮かべた。次いで言う。
「まあ……そういうことでござるな……」
――そこで肯定しちゃ駄目だろう!!
胸中でこう叫びつつ、狩夜は座卓の下で両手を握り締めた。
仕事だから? 義務だから? これはつまり、月の民の男女がおこなう営みには、すでに愛はないということを意味する。そのようなおこないが許されていいはずがない。
子供が男子だった場合のみ、その存在が認知される? ならば、女の子として生を受けた右京と左京はなんなのだ? 見ず知らずの狩夜に優しく手を差し伸べてくれたこの子らは、いったいなんだというのだ?
そんなの、そんなの――!
「童は、優しい子にござるなぁ」
エーリヴァーガルの暗部を知り、それに引きずられる形で暗い方へと向かい始めた狩夜の思考。それを引き留めるかのように、里見の優しい声が客間に響いた。
狩夜は「え?」と、口から声を漏らし、里見の顔を直視する。
「エーリヴァーガルの現状と、拙ら女子の扱いを知って、憤りを感じておるのでござろう? それは、童が優しい証拠でござるよ」
「里見さん……」
「だが、それは童が抱く必要のない感情にござる。愛のある正しい営みなど、拙はとうの昔に諦めた。国の未来のためにこの体が使われるなら、拙は本望にござる」
「……」
「何より、本当に辛いのは拙ら女子ではなく、男の方でござるよ。寿命を縮める薬を使って無理矢理準備を整え、好きでもない女子に寄ってたかって体を貪られる。フェロモンを感知したわけではないので、性への興味はなく、快楽も少ない。彼らにとって、女子との交わりは仕事どころか苦行にござる。月の民の男が一晩でどれほど痩せこけるか知っているでござるか? 次の日の朝にはまるで別人でござるよ」
――そうだった。月の民の男性は、命を削って次代を作っているのだった。
「あ、あの、当番制にしたりして、男性の負担を減らしたほうが……」
「理性ではそう考える。陽が落ちるそのときまで、今日は我慢しようと皆思う。だが、無駄でござるよ。満月の夜がくれば、野性が理性を塗り潰す。そして、男子を産む使命を持つ拙ら名家の娘は、他種族の男とは交われない。餓虎と化した拙らの牙が向かう先は、おのずと二つ。座敷牢に自ら入る者もいるが、それも長くは続かない。いずれ堕ちるでござるよ」
「……」
「帝も、青葉様も、近親交配の末にようやくお産まれになられた玉体にござる。だが、それゆえにお体が弱く、初見では女子と見紛う儚げな容姿をしておられる。寿命が短いのは誰の目にも明らか。その短い寿命を薬で更に削り、懸命にお役目に励んでおられるのだ。拙ら女が弱音を吐くわけにはいかぬでござるよ」
「……そうまでして作らなきゃ駄目なんですか? 男の子を」
「無論でござる。男が完全に姿を消し、月の民だけで次代を作れなくなれば、拙ら月の民は、他種族に頭を下げ、媚び諂わなければ滅んでしまう弱小種族に成り下がるでござるよ。そうなれば、ここエーリヴァーガルの統治も他種族に取って代わられるが必定。男は絶対に必要でござる」
「そう……ですね……その通りだと……思います……」
里見の言葉に間違っていることは何もないように思われた。よそ者である狩夜が、感情のまま無責任にこれ以上口を挟むのは慎むべきだろう。
だが、そうやって死に物狂いに新たな男性を作ったところで、状況は好転しない。月の民の男性が一人や二人増えたところで焼け石に水だ。
今の月の民がおこなっている政策は、単なる延命処置である。この絶望的な状況を打破するためには――
「やっぱり、月精霊ルナを解放して、ヨトゥンヘイム大陸を奪還するしかないんですかね……」
既存通りのこんな回答しか思い浮かばない非才の身を嘆きながら、狩夜は月明かりを頼りに右手を伸ばし、座卓の上に置かれた湯飲みを手に取った。次いで「今すぐそれができれば世話ないよね……」と胸中で呟きつつ、湯飲みを口元に運ぶ。
「それが理想でござるな。ゆえに、此度の精霊解放遠征には拙も期待しているでござるよ。まあ、他に方法がないわけではないのでござるが――こっちも現実的とは言えぬでござるからなぁ」
「え? 他にも現状を打破する方法があるんですか?」
こう声を上げてから狩夜は湯飲みに口をつけ、注がれていた液体を口に含んだ。お茶ではなくただの水であったが、別段文句はない。世界樹の恵みたるマナに舌鼓を打ちながら喉を潤し、里見の次の言葉を待つ。
その次の言葉が、己の今後を左右しかねない重大なものであることを知らずに。
「うむ。拙ら月の民の血脈に、異世界人の血を再び入れることでござるよ。三代目勇者と同じ日ノ本の人間ならば言うことなしにござるな」
「ぶほぉおぉ!?」