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113・欲望と快楽の国 下

「魚か。いいね!」


 イスミンスールにきて以降、魚が一匹も生息していないウルズ川水系周辺で活動してきた狩夜。必然、魚料理は一カ月以上口にしていない。


 懐かしき魚の味を思い浮かべるだけで、自然と足が動いた。狩夜は『猫の額』の入口に向かい、迷うことなくその引き戸を開ける。


「いらっしゃいまし~」


 中に入ると同時に、割烹着を着た三十歳前後の女将が狩夜を出迎えた。黒髪を簪でまとめた気品を感じさせる美人さんで、頭から飛び出た大きな猫耳が可愛らしい。


「あらまあ、魔物連れ。開拓者様ですね。お泊りですか? お食事ですか?」


「泊まりなんですが――あの、お部屋は?」


「空いていますとも。ぜひぜひ泊まっていってくださいまし。本日の宿泊客はお客様一人だけ、従業員総出で歓迎いたします」


「あ、そうなんですか?」


「はい。精霊解放遠征が始まって、腕利きの開拓者様が皆出払っておりますでしょう? なので宿泊客が減ってしまって」


「ああ、なるほど」


「今夜、当『猫の額』はお客様の貸し切りです。ご自分の家にいるとでも思って、おくつろぎくださいまし」


「貸し切りですか。なんだかお大尽にでもなった気分ですね」


「まあ。うふふ」


 冗談交じりに口にした狩夜の言葉に、女将が上品に微笑む。次いで、メニューを尋ねるような気軽さで、こう言葉を続けた。


「では、お大尽様。さっそく今晩の伽の順番を決めましょう」


「あ、はい。わかりま――って、今なんて言いました?」


 聞き間違いだよね? と言いたげな顔で首を傾げる狩夜。そんな狩夜を無視して、女将は「あちらをご覧ください」と、宿の奥を見るよう促してくる。


 促されるままに視線を動かすと、女将によく似た猫耳の女の子が、いつの間にか五人も立っていた。


 全員が熱に浮かされたような顔で、とろけた視線を狩夜に向けている。熱い吐息を口から漏らしながら、ソワソワと体を揺すっていた。


「私の娘たちです。先ほども言いましたが、今晩はお客様の貸し切り。従業員総出でご奉仕させていただきます」


「あ、あの……悪い冗談はやめ……」


「もちろん、従業員の中には私も含まれます。八人産んだ体ではありますが、まだまだ現役。今夜、お客様が九人目を――」


「すみません! 間違えました!」


 女将が言い終えるのを待たず、脱兎のごとく駆け出す狩夜。『猫の額』から飛び出し、大通りを禁裏方面に向かってひた走る。


 十数秒後、ここまでくれば大丈夫だろう――と、狩夜はエーリヴァーガルのほぼ中心で足を止める。次いで、荒れた息を整えながら、頭上の相棒に言い訳をするかのごとく、こう呟く。


「はぁ……はぁ……まったくもう……そういうお店なら、そういうお店らしい看板を立てといてよね……って言うか、表門のすぐそばにあんなお店があっていいの? この国のモラルはどうなっているんだ?」


 狩夜は気を取り直し、再度周囲を見回した。今夜泊まる場所を、気に入れば長期滞在することにもなる、()()()()宿屋を探す。


 ほどなくして、それは見つかった。名前は『狐の御宿』。


 看板を入念に確認したところ、どうやら狐系の月の民が経営している、美味しい豆腐料理を売りにした宿屋のようだ。


「豆腐か。いいね!」


 懐かしき豆腐の味を頭の中で思い浮かべると、それだけで自然と足が動いた。狩夜は『狐の御宿』の入口に向かい、迷うことなくその引き戸を開け――


「すみません、間違えました!」


 即座に閉めた。そして駆け出した。さっきよりも酷かった。


「だから! そういうお店なら、そういうお店らしい看板を立てといてよ!」


 扉を開けるなり目に飛び込んできた、とんでもない光景を頭の中から消去するべく、適当な壁を見繕って頭突き見舞う狩夜。そして、自身をゴミを見る様な目で見ている(ような気がする)相棒に向けて、こう叫んだ。


「見るなレイラ! そんな目で僕を見ないでくれ!」


「……!?」


「なんのこと!? って言うか、なんで狩夜はそんなことしてるの~!?」と言いたげな顔で、狩夜に頭突きをやめるよう、身振り手振りで懸命に訴えるレイラ。そんな相棒を無視し、狩夜は物言わぬ壁に対して「煩悩退散! 煩悩退散!」と頭突きを継続する。そして、ソウルポイントで強化された額がようやく割れ、少量の血が流れると同時に、その動きを止めた。


「こ、今度こそ、まともな宿屋を探さなきゃ……」


 このままでは野宿になってしまう――と、額の治療をレイラに任せ、次なる宿屋を探すべく歩きだそうとする狩夜。が、そこであることに気づき、足を止める。


 いつの間にか、太陽は完全に沈み、辺りは夜になっていた。そして、エーリヴァーガルを包む空気の質が、日没前とは明らかに異なっている。


「いったい何が……」


 狩夜がこう呟いた次の瞬間、人間の壁を二度破り、常人より遥かに強化された狩夜の聴覚が、自身に向かって徐々に近づいてくる夥しい数の足音と、その足音の主が漏らしたと思しき複数の独白を拾い上げた。


「雄の匂いがする……」


「雄の声が聞こえる……」


「こっち……こっちに人間の雄がいる……間違いない……」


「お願い……助けてぇ……この火照った体を沈めてぇ……」


 熱に浮かされたような女性の声と、熱い吐息。平時であるならば、男の本能を刺激して、原初の衝動を呼び起こすはずのそれらに対し、狩夜はなぜか戦慄し、全身を小刻みに震わせた。


 猛獣ひしめく檻の中に、自分一人閉じ込められたかのような閉塞感がする。


 ソウルポイントで強くなったはずの自身が、脆弱な小動物にでもなったかのよう無力感がする。


 狩夜は確信した。自分は、知らず知らずのうちに虎口に飛び込んだ。間違いなく狩られる側に立っている。


 そして、


 そして。


 そして――


「みぃつけたぁ♡」


 自身を、叉鬼狩夜という人間を、子孫繁栄のための道具、快楽を得るための肉人形としか見ていない、雌の欲望ただ一色に染まったその両目を見た瞬間、狩夜は生まれて初めてこう思った。


 女って怖い。


 ――フヴェルゲルミルは、欲望と快楽の国ですわ。


 丁度一カ月前に聞いた、アルカナの言葉が脳内で再生されると同時に、狩夜は地面を蹴り全力で駆け出した。そんな狩夜を、明らかに正気を失っている月の民の女性たちが、群れを成して追いかけてくる。


「どうなってるんだこの国はぁぁあぁあぁ!?」


 怒声とも悲鳴とも取れる声を上げ、狩夜は碁盤目状の道を縦横無尽に駆け抜けた。


 捕まるわけにはいかない。ここで捕まったが最後、狩夜の中の大切な何かが跡形もなく砕け散る。そんな予感が――いや、確信がある。


 真円を描く月の下。貞操と人生観。快楽と子孫繁栄。それらを賭けた本気の鬼ごっこが、帝都を舞台に始まった。

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