106・第二章エピローグ そして兄は走り出す 上
「よし、出港!」
ミーミル川の終点にして、ユグドラシル大陸の東端。そこに築かれた城塞都市ケムルトに、ランティスの声が響き渡った。
精霊解放軍がウルザブルンを出発してから、すでに二週間の時が流れている。ユグドラシル大陸すべての主要都市を、特筆するような事件もなく無事に巡り終えた解放軍は、今まさにミズガルズ大陸に向かって旅立とうとしていた。
司令官の号令と共に、港町でもあるケムルトから、一隻の船が出港する。
船の名はフリングホルニ。全長五十メートル以上、幅十メートル以上の巨体を誇る、イスミンスールのいかなる船よりも大きく、頑強な、木造の軍船だ。
その形状は、ガレー船と帆船の双方の特徴を併せ持つガレアス船で、三本のマストと、三十本を超える櫂を有している。大砲の類はないが、魔物の角を削って作られた巨大な衝角が船首水線下に取り付けられており、水中から船を襲おうとする水棲魔物を牽制していた。
そんなフリングホルニの甲板には、精霊解放遠征に参加する開拓者たちの姿がある。彼らは、ケムルトから上がり続ける声援に答えるように、その手を大きく振り返していた。
“極光”のランティスがいた。“爆炎”のカロンがいた。“鉄腕”ガリムがいた。ミーミル王国の英雄である三人の他にも、名の知れた開拓者がずらりと顔をそろえている。
彼らならきっとやってくれる。光の精霊を解放し、魔物から大地を取り戻してくれる――と、ケムルトの住人たちは期待に目を輝かせ、少しでも彼らの力になるべく、声援を送り続けた。
ケムルトの住民だけじゃない。ユグドラシル大陸全土の期待が、才能が、資財が、技術が、フリングホルニという一隻の船に集約されていた。
それらすべてを力に変えて、精霊解放軍は大海原を一直線に突き進む。サウザンドの開拓者によって振るわれる櫂から得られる推進力は凄まじく、フリングホルニはガレアス船では考えられないほどの速度で、一路ミズガルズ大陸を目指した。
そんなフリングホルニの甲板の上に、不可思議な植物を頭上に乗せた、黒目黒髪の少年の姿は――ない。
○
精霊解放軍がユグドラシル大陸を発ってから、二日後――
「や、やっと帰ってこれた……」
「……(ぐったり)」
ウルズ王国の都・ウルザブルン。その北門付近に、疲れ果てた様子でふらふらと歩く、狩夜とレイラの姿があった。
狩夜たちは、今朝方まで迷いの森の中を迷い続け、つい先ほどウルザブルンに戻ってきたばかりである。
狩夜の服装は、いつも通りのハーフジップシャツと、トレッキングパンツ。ダーインの角によって切り裂かれたそれらであるが、レイラの夜なべにより見事復活。ほつれ一つなく修復されていた。
さすがは勇者、裁縫技術も伝説級である。
「まさか……二十日間も迷い続けることになろうとは……」
「……(コク……コク……)」
うんざりとした様子でぼやく狩夜と、これまたうんざりとした様子で同意を示すレイラ。次いで、迷いの森の中であった出来事を思い返す。
歩けども歩けども、一向に抜けられない果てなき森と濃霧の迷宮。上からなら抜けられるのでは? と、木を登ってもみたが、登れども登れども、空どころか木の終わりすら見えてこなかった。正直、空間がループしていたとしか思えない。
だったら最終手段だ――と、レイラの力を借りて迷いの森を伐採しながら突き進んでもみたが、これも無駄。
濃霧によって限定された視界、半径約五メートル。その範囲を過ぎて狩夜とレイラの視界から消えた木々たちは、切られていようがへし折られていようが、一瞬で元通りだ。初めてこの現象を目の当たりにしたときは、レイラ共々愕然としたものである。
世界樹の第一次防衛ラインは伊達ではない。一度正規ルートを外れたが最後、迷いの森は、人も魔物も例外なく迷わせる。
今朝になって「そろそろ出してやるか」と言わんばかりに、突然目の前にウルズ川の源泉が現れたときは本当に驚き、心底安堵した。そして、何を切っ掛けにして入口に戻ることができたのか、それすらも狩夜たちにはわからない。
「迷いの森……まじで迷いの森……」
スクルドの案内なしに、もう一度中に入ろうとはとても思えなかった。正規ルートはレイラが覚えていたが、その正規ルートすらも、一定時間が経過すると、別のパターンに変化する可能性を否定しきれない。
不用意に飛び込んでまた迷ったりしたら、目も当てられないほどに悲惨な状況に陥るだろう。どうやら、狩夜の体からダーインの呪いが消えて、スクルドが目を覚ますまでは、聖獣との再戦すらおぼつかないらしい。
かといって、精霊解放遠征に参加して、光の精霊の解放を目指す道も、すでに閉ざされてしまっている。
「……ランティスさんたち、もう出発しちゃってるよね?」
諦めの溜息と共に、狩夜はこう呟いた。
別れ際にランティスが口にした『遠征軍がユグドラシル大陸を発つまで』という期間は、とうの昔に過ぎ去ったと思われる。正規の手段で精霊解放遠征に参加する術が、もう狩夜にはない。
そして、狩夜とレイラの二人だけでミズガルズ大陸に――絶叫の開拓地乗り込むというのも、正直、現実的ではない。なぜなら、精霊解放遠征の期間中は、ミズガルズ大陸の西端に築かれている人類の拠点が、解放軍とその後援組織の貸し切りになってしまい、一般の開拓者が利用できなくなってしまうからだ。
水辺にいればとりあえず安全なユグドラシル大陸と違い、ミズガルズ大陸には安全な場所などどこにもない。徒党を組んで拠点を構築し、見張りを立てなければ、人類は夜眠ることすらできはしないのだ。拠点の中にあるという、開拓者ギルドをはじめとした公共機関を利用できないのも非常に痛い。
イルティナに相談して、マーノップ王や、他国の王にも事情を話し、特例を出してもらう――という方法ももちろん考えたが、現時点ではそれは悪手のように思えた。なぜなら、狩夜は一年後に世界樹が枯れるという非常事態を、事実であると証明できない。
レイラが勇者であることは、その身に宿す世界樹の種を見せれば済むが、世界樹の今後については、スクルドが眠りについた今、確たる証拠が手元にないのである。狩夜の言葉を信じない者も出るだろう。
勇者の仲間の言葉だから――と、よしんば信じてもらえても、狩夜の言葉を聞いた王たちが、どのような対応をするかは未知数だ。ある王は『勇者に全面的に協力して、聖獣の打倒を目指すべきだ』と主張し、別の王は『いや、今まで通り精霊の解放を目指すべきだ』と主張するかもしれない。それは各国の民も同様である。狩夜が真実を口にした瞬間、全種族を巻き込んだ世界規模の混乱が起こるのは必至であった。
現状、世界の意思は『精霊の解放』で統一されている。それを乱すようなことはするべきではない。迷いと焦りは、ランティスたち精霊解放軍から著しく力を削ぐだろう。
精霊を解放し、世界を救うのが勇者である必要はない。名声や地位は、狩夜もレイラも欲していない。ランティスたち精霊解放軍が、狩夜たちとは無関係に光の精霊を解放してくれるなら、それはそれで万々歳だ。
ゆえに、狩夜とレイラだけが知る世界の真実は、今しばらく秘密にしておいた方がいいだろう。少なくとも、第三次精霊解放遠征の成否が明らかになるまでは。
これが、この二十日間考えに考えて、相談に相談を重ねた末に出した、狩夜とレイラの結論である。狩夜たちは、精霊解放軍に正規の手段で参加できなかった時は、絶叫の開拓地への進出をきっぱり諦めると決めていた。
そして当然、そうなった場合どうするかも決めてある。
「レイラ、光の精霊はランティスさんたちにまかせて、僕たちは聖獣に――強くなることに集中しよう。プランBを発動だ。ユグドラシル大陸にいる主を、君と僕とで狩り尽くす」
ユグドラシル大陸の中で活動しながらも、多量のソウルポイントを短期間で獲得できる唯一の方法を述べる狩夜。この言葉でレイラも気合が入ったのか、真面目な表情でコクコクと頷く。
ユグドラシル大陸には、いまだ多くの主が残っている。そいつらがため込んでいるソウルポイントを、あますことなく根こそぎいただく。ランティスたち腕利きの開拓者がユグドラシル大陸にいないのも好都合だ。競争相手がいないうちに、主の首級を狩夜たちで独占する。
まずはここ、ウルズ王国が統治するユグドラシル大陸南部。次に、フヴェルゲルミル帝国が統治する大陸西部。最後に、ミーミル王国が統治する大陸東部。そうしてユグドラシル大陸全土を巡り、主を狩り尽くしたころには、精霊解放遠征の成否がわかり、スクルドも目を覚ますことだろう。
主を倒した際に得られるソウルポイントは膨大だ。千を下回ることはまずない。特に、猿の楽園で倒した主は凄かった。マナによる弱体化からほぼ解放されていたあの主と、その側近四匹。ついでに千を超えるワイズマンモンキーの群れ。それらすべてのソウルポイントは、目を疑うほどの数値となって、狩夜の中に蓄積されていた。
煮ても焼いても食えないワイズマンモンキーにも、うまみはあったのだ。そう、倒した時に得られるソウルポイントが多いのである。
迷いの森での二十日間も、決して無駄にしていたわけではない。狩夜と同じように迷っていた魔物と鉢合わせすれば、その都度応戦し、撃破してきた。その中には主も数匹いて、やはり多くのソウルポイントを狩夜に提供してくれている。
よって、今の狩夜の基礎能力向上回数は――
「あ、いた!」
「兄貴、例のガキです! ようやく見つけやしたぜ!」
「ん?」
主の情報を得ようと開拓者ギルドに向かう道中、狩夜の思考を妨げるかのように、なんとも荒っぽい声が響いた。