099・妹 下
時が進む。兄が机に向かい、勉学に励んでいた。
万病を癒す薬はないと知った兄だが、妹への償いを諦めはしなかった。空想の世界からは決別し、現実の医学に可能性を求めたのだ。
医者だ。医者になろう。妹を救えるような凄い医者に、自分自身がなればいいのだ。
祖父と両親の不仲は、心労が一番良くないという医者の一言で、ぎこちなさを残しつつも一応の解決を見ている。妹の容体も安定していた。努力するなら今だ。
目指すは県内一の進学校、それなりに名前の知れた私立中学。片道二時間かかるが、妹のためなら耐えられる。
合格目指して兄はがむしゃらに勉強し――その道中で、何度も何度も壁にぶち当たった。難問という注意書きのある問題、それと向き合う度に手を止め、頭を悩ませた。
こうして、また兄は理解する。どうやら自分は凡人であるらしい――と。そして、こうも理解した。恐らく、一生努力を続けても、自分に妹は救えない。
兄は既に知っていた。妹を救えるのは、一握りの天才だけであると。それこそ、医学の歴史に名を刻み、世界の英雄として永久に語り継がれるような大天才だけだ。妹の病気は、それほどまでに難しいものなのだ。
全国統一テストの順位に打ちのめされた。同じ塾に通う人間に、そんな問題も解けないのか? と笑われた。お前もっと頑張れよ――と、軽蔑されもした。兄を無敵にしてくれる妹は隣にいない。辛いことは普通に辛く、苦しいことは普通に苦しかった。兄は何度も何度も挫けそうになった。
そんな人間が英雄になれるか? 誰だってわかる。無理だ。不可能だ。なれるわけがない。
誰もがノーベル賞を取れるわけじゃない。誰もがオリンピックで金メダルを取れるわけじゃない。誰もがプロの世界で活躍できるわけじゃない。
人は、残酷なまでに、平等じゃない。
自分が世界の主役でないと知り、兄はまた一つ大人へと近づく。
だが、兄は泣きながら勉強を続けた。才能と現実に見切りをつけた後も、必死に努力を続けた。
自分に妹は救えない。ならせめて、妹を病魔から救う勇者が現れるその時まで、妹を守り抜ける男になろう。
あの時、言葉だけで自分と妹を救ってくれた、年若い医師。あの人みたいなかっこいい男になりたい。兄は、祖父と共に過ごす中で抱いた猟師という夢も、学校で友人と遊ぶ時間も諦めた。妹と共に過ごす大切な時間。それ以外のすべてをなげうって、勉強に明け暮れた。
現実にはすでに見切りをつけた。だからわかる。この世界は、日本という国は、凡人に優しくできている。凡人でも、本気で努力を続ければ、日本一の学校に合格できるようできている。
これは凡人でも手が届く、ごくごく普通の目標であるはずだ。
鬼気迫る様子で勉強を続ける兄。そんな兄を見て、お前、普通じゃないぞ、少しは休めよ――と、友人の一人が口にした。だが兄は、それを雑音の一つと切り捨て、勉強を続ける。その友人が、次第に自分と距離を置くようになるのも気づかずに。
そうして努力を重ねに重ね、迎えた受験当日。兄は、絶対に遅刻しないよう、かなり余裕をもって家を出た。
受かる自信があった。その自信を裏づける努力を、凡人なりにしてきたつもりだ。体調もいい。落ちる要素などどこにもない。
来年から通うことになるであろう学校、目標のための通過点でしかない学校。その校門を、兄はくぐった。そして、受験会場に向かう途中、携帯電話の電源を切ろうとしたとき、不意に着信が鳴る。直後に受けた火急の報せに、兄の頭は真っ白になった。
安定していた妹の容体が、急変したらしい。
兄は、受験を放り出して妹の元に向かう。そして、息を切らせながら駆けつけた病室で、病に苦しむ妹は、兄に向かってこう言った。
「ごめんね、お兄ちゃん……」
この言葉に、兄の胸がズキリと痛んだ。
「こんな妹でごめんね……いつも大事なときに邪魔しちゃって……本当にごめんね……こんな妹、いないほうがいいよね……もう、私のために頑張らなくていいから……だから……」
目を見開き、時間が止まったように立ち尽くす兄を見つめながら、妹はこう言葉を続ける。
「私の好きな、いつものお兄ちゃんに戻って」
この言葉で、兄はようやく自覚した。自分はいつの間にか、普通でなくなっていたのだと。そして、そんな兄の姿に、妹は心を痛めていたのだと。その心労が、病気を悪化させたのだと。
これを境に、妹は兄を避けるようになった。家にも帰らなくなり、お見舞いにもこないでと、電話越しに懇願された。
自分がいると兄の邪魔になる。兄が不幸になる。兄の周りに友達がいなくなる。頑張り過ぎて、いつか兄は疲れてしまう。
優しい妹は、そう考えたに違いない。
兄は泣いた。自分の愚かさを知り、兄はまた一つ大人へと近づく。
これ以降、兄は情熱を失った。受験のない市立中学に進学し、これといった部活動に参加することもなく、ただ漫然と日々を過ごす。
頑張らない。いや、頑張れない。自分が無理をすれば、妹の病気が悪化する。そう考えただけで足がすくんだ。兄はもう走れない。
どこにでもいるさとり世代の誕生だ。大きな夢は抱かない。高望みはしない。唯一の楽しみは、長期休暇のたびに祖父の家に遊びにいくことだけという、実に慎ましい生活を兄は送っていた。
情熱を失った兄は、せめて普通であろうとしたのだ。普通の生活を送れない妹の代わりに、自分が普通の生活を送ることを選んだ。
病身の妹が視界から消えたことで手に入れた、普通の生活。優しい妹がくれた、特別な普通。兄は、普通を噛みしめ涙した。
普通がどれほど尊いものか知り、兄はまた一つ大人へと近づく。
そして、時間だけが過ぎていく。長らく会わないでいるうちに、兄はだんだんと妹のことを考えなくなった。普通の生活を送るには、普通じゃない妹が邪魔だったのだ。胸の痛みは、いつの間にか消えていた。
決して癒えないと思っていた心の傷。それを、時間がゆっくり塞いでくれた。時間は残酷で――とてもとても優しかった。
もう、涙はおろか声も出なかった。たいていのことは時間が解決してくれることを知り、兄はまた一つ大人へと近づく。
また時が進む。情熱を失った兄が、とある理由で遠い異国の地に立っていた。病身の妹を母国に残して、兄は異国へと旅立ったのだ。
妹の目の届かない場所。心配を掛けずになんだってできる場所。そんな異国の地で、兄は何もしようとはしなかった。ただ生きるためにお金を稼いで、なあなあに時を過ごすだけだった。
偉い人に期待されても、英雄に声をかけられても、偶像に馬鹿にされても、兄は首を傾げるばかりで、走り出そうとはしない。失った情熱は、刺激されることはあっても、戻ってまではこなかった。
そんな兄は、異国の中心であることを知る。いや、悟る。
それは、何もかも諦めてしまえば楽になれるという、世界が万人のために用意した、完全無欠の真理であった。
若くして真理を悟り、兄はついに大人になった。
とてもつまらない、大人になった。
そして、何一つ成し遂げぬまま、女神に看取られ死にました。何も残せぬまま、一人無様に消えました。
さて、この後母国に残した病身の妹は、いったいどうなってしまうのでしょう? なにせ、兄の背中を追いかけるのが生きがいだった妹です。もしかしたら――
もしか……したら……
○
唐突に終わる走馬灯。もう、本当に何も見えなかった。辺りは一面の黒。黒一色である。夜の帳よりなお暗く、なお深い死の闇が、狩夜のすべてを覆いつくそうとしていた。
何も見えない。何も聞こえない。だが、何も感じないわけじゃない。
胸が――ひどく傷む。他に何もないからか、その痛みが際立った。
ここで終わっていいのか? 何か欲しいものがあったはずだろう?
そう、胸の痛みが語る。
こんなものがお前の物語でいいのか? まだ、やり残したことがあるだろう?
そう、狩夜の体が訴える。
絶対に忘れるなと、鏡を見るたび思い出せと、呪いの言葉を口にしたあの日から、時を止めたかのように成長をやめた体。時間にすら抗い続けたその体が、すでに生きることを諦めている魂を殴りつける。時間が塞いでくれた心の傷を、力任せにこじ開ける。
病身のメナドを前にして、駆け寄れなかったことをあんなにも悔やんだのはなぜだ?
大切な人を失い、世界のすべてを呪っていたザッツ。そんな彼を助けたいと思ったのはなぜだ?
命を懸ける戦いの中、楽勝を良しとしなかったのはなぜだ? 無力感に苛まれる辛さを、知っていたのはなぜだ?
世界のすべてを内包した世界樹の種。それを前にして手を伸ばしかけたのはなぜだ?
傷ついた姉を前にして、己が無力を嘆き、涙を流したスクルド。その涙を止めたいと願ったのはなぜだ?
思い出せ。思い出せ! 思い出せ!! 思い出せ!!!
あの日、不治の病に侵された姫に自身を重ねて、万病を癒す薬が欲しいと口にした妹に、愚かな兄はなんと答えた?
ゲームの世界の中で、あの素材を――魔草・マンドラゴラを手に入れたとき、お前はなんと口にした?
力があると知ったその言葉で、叉鬼狩夜は、何よりも大切な妹に、いったいなんと言ったんだ!?
「あったらいいな、そんな薬。もしあったら僕は、咲夜のために命を懸けて取りにいくのに」
○
「■■■■■■■■■■■■!!!」
狩夜、絶叫。
それは、人の口から出たものとも、この世のものとも思えない、凄まじい絶叫だった。
在りし日のレイラを彷彿させるその絶叫を、敗者が上げた断末魔だと勘違いしたのか、ダーインは頭上の魔剣を天高く掲げながら、勝利を確信したかのように鼻を鳴らす。
そんな隙だらけの馬鹿目掛け、狩夜は右手を振り下ろす。
マタギ鉈が、ダーインの左眼球を貫いた。