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南国のマリア  作者: 霧島勇馬
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第九章 ジュニア、奪還

   第九章 ジュニア、奪還

 マリア、フリオ、ミランダの三人を乗せた車が、マグリトラーン・スモール・アパートメンツが見える位置に停まった。

 場所は、静かな住宅街だった。首都近郊のせいか、比較的大きな一戸建て住宅が並ぶ。庭で日光浴をしている老人の横で、黒人の庭師が芝を刈っている。

 道端にはバス停があり、数人の男女がバスを待っていた。

 運転席のフリオの横で、マリアがフロントガラスの奥から、外観を観察する。

 けっこう大きなアパートだった。外壁のペンキが剥げているわけでもない。廃墟ではなく、ただ単に一定期間、管理人がいなかったアパート、といった感じだ。立派なエントランスがあり、奥へと続く通路の右側に部屋がある構造のようだ。

 門の前には、見張りの男が二人、いた。フリオに従いていけば、すんなり中に入れるだろう。

 外は思っていたより、人通りがある。アパートの外に逃げ出せたら、マリアたちの勝ちだ。

 それにしても、エヴァは随分と胸元の開いたドレスをマリアにあてがった。乳房の上部を露出させる服装は初めての経験で、どうにも恥ずかしかった。授乳中の胸は、今にもドレスから零れ落ちそうだった。

 これまでのマリアを彷彿とさせないよう、身長を変える意味で履いたピンヒールは十一センチもあり、歩くのも大変だ。ジュニアを奪還してから後は、ヒール靴を脱いで走るため、中に薄い布製のルーム・シューズを履いている。だから余計に、バランスを取り難かった。

 事前にフリオが偵察に訪れた時に、ルイスが隠れている事実を把握していた。

 間違いない。このビルのどこかに、ジュニアはいる。

 マリアは掌に、じっとり汗を掻いていた。

 いざとなったら、ルイスと刺し違える覚悟だった。マリアが途中で倒れたら、ミランダがジュニアを抱き、走る。大使館の前で待っているホアンと合流し、中に駆け込む。

 ホアンとジュニアは血こそ繋がっていないが、マリアがこの上なく愛した存在同士だ。きっと上手く親子としてやっていってくれるだろう。

 フリオが「行こう」と、ドアを開けた。助手席のマリア、後部座席のミランダが続く。

 三人が近づくと、見張りの男が怖い顔をして、互いを見合った。そのうちの一人が三人に近づく。

「よお、フリオ。この娘が、あんたの言ってた、いい人かい?」

 偵察に一度、訪れていたフリオが、お膳立てを作ってくれていた。

 マリアはフリオと男女の関係なのだが、社会革命クラブに知り合いがいると言っていた。一度ここに連れてきていいか?――という口実だった。

 フリオは、これ見よがしにマリアを右腕で抱き寄せた。

「エリザベスだ。美人だろ?」

 マリアはフリオにしなだれかかり、黒く長い睫で、ウィンクしてみせた。低い声音を意識して、挨拶した。

「よろしく」

 見張りの男の顔が真っ赤になった。

「ど、どうも、よろしく」

 変装は功を奏した。こんな夜の女みたいな人物がマリアで、ジュニアを取り返しに来たとは、まったく考えていないようだ。

「あれ、ミランダ! お前も一緒か? 何しに来た?」

「実はこの女性は、もともと私の友人なのよ。今日は二人で、アニータに会いに来たの。ここにいるでしょ?」

 見張りの男が、戸惑いの顔で、フリオを見た。

「中にはルイスがいるんだぞ。ミランダを入れて、いいものかな?」

「顔を合わせないようにすれば、問題ないだろう」

 つまり、なるべくルイスと顔を合わさないようにして、アニータに会うわけだ。

 問題は、その時、テレサが同席しているかどうか、だった。

 離れていたもう一人の見張りが近づいてきた。先に話を聞いていた男が、手短に状況を伝える。

「わかった。だが一応、身体検査はさせてもらうぞ」

 男は両手で軽く、ぱんぱんとマリアとミランダの体に触れ、武器を所持していないか調べた。やはり、拳銃を身につけていなくて正解だった。

 男たちは「よし、通れ」と道を開けた。

 第一関門、突破! マリアは胸を撫で下ろし、フリオにくっついて、建物の中に入った。ミランダが後に続く。

 入ってすぐ、真四角なエントランスが広がり、隅に置かれているベンチに、男二人が座っていた。

 マリアたちを見ると、興味深そうに視線を送っていた。そのうちの一人が、フリオに声を掛けた。

「フリオ、ルイスなら奥の部屋だぞ。さっきは会っていかなかったから、ルイスが気にしていたぞ」

 フリオは平静を装い、男に応えた。

「ああ、ありがとう。顔を見せてくるよ」

 ここでフリオはマリアとミランダから離れる。ルイスを引き留めるためだ。

 ミランダが自然な動作で動き、男たちの視線から、一瞬、マリアを守った。その隙に、フリオが小型拳銃をマリアに渡す。

 マリアはエヴァ特製のガーターベルトに、小型拳銃を差し、スカートを直した。ミランダがマリアの後ろに再び従く。

 廊下の奥に扉があり、その奥にルイスがいる。アニータはどこだろう? ミランダが、さりげなく声を上げる。

「ねえ、誰か、アニータを知らない? ちょっと用があるのよ」

 隅に座っていた男の一人が立ち上がり、近づいてきた。まるでいけない話でもするかのように、ミランダに顔を近づけた。

「アニータに何の用事だ? あいつは今、重要な任務に就いているんだ」

 ミランダは無邪気な声を出した。

「あら、重要な任務って、昔の私みたいな任務? 楽しそうね」

 男はムッとして、ミランダを睨んだ。

「どんな女も、お前のような尻軽なわけではないんだ。アニータの任務は、社会革命クラブの未来のためになっている。一緒にするな!」

 男の相手はミランダに任せ、マリアは素早く、周囲の状況を把握しようと集中した。

 ここは、もとはアパートだった。つまり、部屋一個ずつが、この廊下と通じている。部屋と部屋の間に、直で行き来するドアは存在しない。

 ――外観を見たところ、それぞれの部屋にベランダがあったわ。二階のベランダには螺旋階段が付いていて、そのまま下に下りられる。

 外にも見張りは一応いるはずだが、館内の狭い廊下を走るよりは、ましか。

 ただ、ルイスたちは今、革命に必要な最高品質の武器を所持している。万が一、スコープ付きの自動小銃でも使われたら、終わりだ。

 しかし、そんなピンチになったら、街路を歩いている人々の注目を浴びる。革命を直前に控え、そこまで危ない真似は、九分九厘しないだろう。

 ともかく、ここで命散らしても、何もせずに座ったままでいるより、後悔はない!

 ミランダが懸命に訴えた。

「お願い、アニータに会わせてよ。彼女、息子のアダムが生きていた頃に一度、会いに来てくれて、その時、大事なチャームを預けたの。もう、アダムが死んで、形見の品になってしまったから、是非、返して欲しくって」

 男が困った顔で、頭を掻いた。

「そんなこと言われたって、アニータもいろいろ忙しいんだ。話は伝えておくから、今日のところは引き上げてくれないか?」

「それに、エリザベスはアニータと同郷で、久しぶりに首都を訪れたから、連れてきたのよ。せっかく来たんだから、会わせてよ」

 もう一人の男が、立ち上がり、スタスタと奥の部屋へ消えた。ほどなくして、そのドアから、女が現れた。

 耳に紅い薔薇の花を差し、紅い小花模様の黒いワンピースを着ている。サンタ・テレサだ!

 つまり、テレサは今の今まで、ルイスと共に奥の部屋にいたわけだ。

「いったい何の騒ぎ? 周辺住民に不審がられたら、終わりなのよ!」

 マリアは天に祈る思いだった。

 ――ジュニア、どうぞ、ルイスの側には、いないで! アニータと一緒に、別の部屋にいますように!

 男はテレサを前に、足を揃え、背筋を伸ばした。

「サンタ・テレサ、お騒がせして、申し訳ありません! この女たちが、アニータに会いたがっているのですが、いかがいたしましょう?」

 テレサが、黒く細い眉毛を吊り上げた。

「あなたたち、アニータと親しいの? 彼女が負っている任務をわかったうえで、やって来ているの?」

 なんという高飛車な態度! テレサはすっかり、女王さまの貫禄を身につけていた。

 ミランダも気圧されたようだったが、手を腰に当て、凄んだ。

「あーら、ここで重要な任務といったら、ルイスの愛人になるぐらいしか、ないんじゃないですかぁ? あ、でもそれは、あなたの仕事だったわね」

「随分と失礼な女ね。いったい何様のつもりなの?」

 男がすかさず、テレサの側に近づき、耳元で何ごとか囁いた。テレサは一瞬、ぽかんとしたが、男の言葉に二度ほど頷いた。

「なるほど。あなたが、ミランダね。話にだけは聞いています。お子さんは残念だったわね」

 ここまでの展開を考えると、マリアとミランダが二人で、アニータに会える目はなくなった。こうなったら、ミランダがテレサを引き留めておく間に、マリアが動くしかない。

 しかし側には、テレサを崇拝する男が一人、しっかりと見張っている。マリアは焦る思いで、廊下沿いに並ぶ、三つのドアを見た。

 この三部屋のうちの一つに、ジュニアはいるのか? それとも、二階だろうか? 出たとこ勝負でどれか一つを選ぶには、選択肢があり過ぎた。

 もしもルイスの部屋にいるとするなら……。フリオが今、入っていった部屋だ。なんらかのアクションを起こしてくれるかもしれない。

 マリアはじっと、念じる思いで、廊下奥の部屋のドアを見つめた。

 ――アニータ、出てくるなら、出て来て! これじゃあ、動きが取れないわ。

 するとテレサが、ついにマリアに話を向けた。

「ところで、あなたは何の用なの? 初めて見る顔ね」

 下手に声を出したら、マリアだと発覚する恐れもある。マリアはちらりと、ミランダを見た。ミランダがすかさず、助太刀する。

「エリザベスは、今、フリオと付き合っているの。私の古くからの友人でもあるし、社会革命クラブのために、何かしたいと願っている同志の一人よ」

 テレサがじろじろとマリアを見つめる。

「集会には、出た経験はあるの?」

「……はい」

「そう……どういう感想を持った?」

 どうしよう。受け答え以上の声を発するわけにはいかない。

 その時だった。

 奥の扉が、ぎぃと開いた。アニータがジュニアを抱き、部屋から出て来た! きっと同じ部屋にいたフリオが、出て行くように促したのだろう。

 このチャンスを逃すわけにはいかない! マリアはヒールを脱ぎ捨て、廊下を走り出した。

 ――ジュニア、今、助けてあげる!

 ジュニアがマリアの気配に気づき、「あー」と声を上げた。アニータが気づいて顔を上げ、マリアと目が合った。

 マリアは走りながら、スカートを捲り上げ、太股に装着した小型拳銃を取り出した。

 開いた扉の奥に、ルイスの驚いた顔が見えた。マリアを敵が送り込んだ刺客と思ったらしい。慌ててアニータに叫んだ。

「アニータ、逃げろ!」

 そうは断固させない! マリアはアニータに抱きつくと、拳銃を額に押しつけた。

 そのまま雪崩れ込む形で、アニータが開きかけた右隣の部屋に滑り込んだ。

 鍵を掛け、アニータを部屋の中央に強く押した。アニータは恐怖の顔で、しっかりとジュニアを抱き締めた。

「どうか、子供の命だけは助けて。私が身代わりに死にますから」

 どうやらマリアは、どこから見ても冷酷な殺し屋のようだった。マリアは、ふぅっと息を吐き、なるべく脅かさないよう気をつけながら、いつもの声音で告げた。

「私はマリア・ウールデン。ルイスの妻であり、ジュニアの母です。どうして息子を殺す真似ができましょう」

 アニータは驚いた顔で、あんぐり口を開けた。

「あなたが、マリア? いえ、だって……そんなはずは……」

「私はあなたを、個人的には知らない。でも、あなたは私を見知っているでしょう。どうか、よく見て。あなたは女だから、化粧でいくらごまかしても、真の姿が透けて見えるでしょう」

 しばらくマリアとアニータは、お互いをじっくりと見合った。マリアにも、アニータがテレサと同類には見えなかった。

 同じように、テレサもマリアを、ようやくはっきりと認識した。

「サンタ・マリア……。いったい何故、こんな顛末になったんですか? 私にジュニアの世話を命じた人間は、あなたの夫のルイスなんですよ」

 そうだった。アニータには、何の罪もない。命じられるまま、ジュニアの世話をしていただけだ。こんなに怖がらせて、本当に悪いことをした。

「巻き込んで、ごめんなさい。私は、ルイスと離婚するつもりなの。それをルイスは認めず、ジュニアをここに攫ってきた次第なの」

 不意に、無線の雑音のような、ジジジと唸るような音が、足下からした。見下ろすと、トランシーバーが置かれていた。

「これは?」

「この部屋は防音が効いていますから、ジュニアの状態など、テレサに指示を仰ぐ時に使うようにと、渡されました」

 つまり、この部屋はジュニアの育児室となる予定だったのか。

 テレサがジュニアを左腕で抱き、右手でトランシーバーのスイッチを入れた。

「ルイス、ルイス、こちらアニータです。ジュニアは無事です。今、私と共にいる女性は、サンタ・マリアなんです」

 ぶつぶつっという音の後に、「なんだって!」とルイスの声が聞こえてきた。

 マリアが頷くと、アニータはトランシーバーを手渡してくれた。左手で受け取り、ルイスに訴える。

「ルイス、私は拳銃を持っているわ。入ってきたら、ジュニア共々、自害します!」

「馬鹿な考えはよせ! 大人しく、ジュニアを連れて、出てくるんだ。袋の鼠だとわからないのか?」

 多くない選択肢のうちのどれを選ぶか。母として、一人の人間として、マリアは極限の状態にいた。

 この部屋にある家具といえば、壁際に寄せられた腰の高さのチェストだけ。それでも、鍵一つで簡単に開けられては困る。ルイスたちの進入する時間を、少しでも遅らせなければ。

 マリアは拳銃を太股に装着すると、両手でチェストを押し、ドアの前に持っていった。

 アニータは逃げ出す素振りは見せず、ジュニアを抱いて部屋の中央に突っ立っていた。

 トランシーバーは、こちらの音が聞かれないよう、ずっと受信スイッチを入れていた。ルイスの叫び声が、さっきから聞こえている。

「マリア、話し合おう。マリア、マリア、聞いているのか!」

 マリアは位置を変えたチェストの上に尻を載せ、大きく息を吐いた。

「まったく、ここまで来て、今更、話し合おうともしないでしょうに」

 アニータが不安そうに、マリアを見ていた。

「サンタ・マリア……あなたたちの絆が切れかかっている事実を、確かに同志たちは知っています。その……ルイスはテレサばかり重用して、今は常に二人で行動しています」

 マリアは額の汗を腕で拭った。

「ええ。そのようだわね」

「私たちも戸惑ったまま、ルイスに従っています。できれば、またサンタ・マリアの下、一致団結して、革命に当たりたい。もう、そんな望みも叶わないぐらい、二人の仲は絶望的なんですか?」

 ――そんな話、私じゃなくて、ルイスにしてよ!

 叫び出したい気持ちをなんとか堪え、マリアは大きく息を吐いた。

「ルイスが今、愛している存在は、私じゃないわ。テレサよ。おまけにテレサは、同志たちの心を一つにし、引っ張っていく強い力がある。私の出番なんて、もうどこにもないのよ」

「でも……! 拳銃を使って、息子の奪い合いなんて、最低だと思います! ジュニアはまだ、何もわからない赤ん坊だけれど、事態が呑み込めていたなら、きっとショックを受けると思います」

 マリアは口の端を上げ、無理に笑顔を作ると、両腕を差し出した。

「ジュニアを、こちらに渡してちょうだい」

「嫌です! ジュニアは革命の玩具じゃないんです! 拳銃で脅して、ルイスから奪い返そうなんて、なんて酷い母親なの?」

 マリアは辛抱強く、落ち着いた声を意識した。アニータを敵に回したくはない。仲間にはならないまでも、せめて穏便に、ジュニアを手渡して欲しかった。

「じゃあ、突然、攫われた状態を、このまま放置しておけというの? ジュニアはまだ、私の乳を飲んでいる赤ん坊なのよ。私は、ジュニアの母よ。気まぐれで女を変え、あちこちで庶子を作っているルイスより、自分が悪いなんて思わないわ」

 ――わかって! わかってよ! ジュニアの代わりになる存在なんて、私にはないの!

「それは……わからなくは……ないですけど」

「私よりテレサがいいのなら、それでもいい。夫婦の仲なんて、永遠ではないのかもしれない。でも、子供を奪われる真似だけは、どうしても許せない。私はルイスの息子として恥ずかしくないよう、育てていくつもりです。ルイスの愛は取り戻せなくても、尊敬する心は変わらないわ」

 アニータの表情から、怒りが消えた。テレサに対する考え方は、男と女では大きく違うだろう。どんなに綺麗事を並べても、テレサがマリアからルイスを奪った事実に変わりはない。

 アニータが、言い難そうに口を開いた。

「実は、サンタ・テレサ主導の今の体制に、不満を抱える人間も多いんです。私も、その一人です」

 マリアは掌で、前髪を掻き上げた。

「私に、どうしろと?」

「もう一度、社会革命クラブの先頭に立ってください。あなたの声なら、聞く者も多いはずです。このままテレサを戴いていたのでは、革命は成功しないような悪い予感がするんです」

 マリアは思わず、失笑した。

「私には何の力もないわ。ちょっと見た目が神々しいからと、ルイスに見初められ、社会革命クラブのお飾りになっただけの人間よ」

「あなたの強い瞳に惹かれて入った人間もいます。私も、その一人です」

 その時、窓際で何かが動いた。

「伏せて!」

 マリアはアニータの肩を強く押さえ、自分も蹲った。

 ベランダのガラス越しに、男が発砲した。一瞬、身が竦んだ。しかしすぐ、体を立て直した。

 男はマリアに向けて発砲したのではなく、ただ単に、鍵を開けたいから、ガラスを撃ったものと思われた。

 それでも、アニータの怒りを買うには充分だった。アニータはジュニアを抱いたまま、窓際の男に叫んだ。

「あなた、何を考えているの? サンタ・マリアに弾が当たったら、どうするつもりだったのよ!」

 男は、割れたガラスに手を突っ込んで、鍵を抉じ開けようとした。マリアは立ち上がった。拳銃を取り出し、まっすぐ男に突きつける。

「サンタ・マリアの名の下に命じる。今すぐ立ち去りなさい! ここで私に撃たれても、殉教者には絶対なれないわよ!」

 男の表情に恐怖が浮かんだ。まっすぐ両手を上げ、ガラス窓の外に直立した。

「サンタ・マリア、お許しください! 俺たちは、テレサという悪魔に魂を売り渡していたんです。どうすべきか、今、わかりました」

 鍵を素早い動作で開け、窓を開くと、部屋に乗り込んできた。マリアは緊張した。この男を射殺しなければならないのか?

 すると男は静かに銃を置き、再び両手を上げた。

「サンタ・マリア、ドアから離れてください。テレサはドア越しに発砲する気です」

「えっ?」

 次の瞬間、ドアを破る、けたたましい機関銃の音がした。男がマリアに覆い被さり、床に伏せた。扉なんて、あっても意味がないぐらい、弾が穴を穿っていた。

 廊下の声が微かに聞こえてきた。テレサが甲高い声で「とっととドアを壊すんだよ!」と喚いている。

 ミランダは、フリオは、無事なのだろうか?

「伏せろ!」

 男がマリアの体に抱きつき、押し倒した。次の瞬間、今度は拳銃の発砲音がした。ドアの穴に銃口をねじ込み、発砲したようだ。

 横に膝立ちの姿勢でいたアニータの体が、ゆっくりと倒れた。

 トランシーバーから、ルイスの慌てた声が聞こえてきた。

「マリア、大人しく投降しろ! こんな木製のドアを壊すなんて、簡単な話なんだぞ!」

 ルイスの台詞より、アニータが心配だった。

「アニータ? 大丈夫?」

 アニータはしっかりとジュニアを抱いたまま、蹲る格好で倒れていた。背中に二発の銃弾を受けていた。

「アニータ! アニータ!」

 アニータは、うっすらと目を開いた。

「サンタ……マリア、ジュニアは、無事です……」

 それがアニータの最後の声だった。ジュニアはアニータの腕に守られ、不思議そうな顔で、こちらを見ていた。マリアの視線に気づくと、火が点いたように泣き出した。

 男がアニータの胸から、ジュニアを助け出し、マリアに抱かせた。マリアはジュニアの背を撫でながら、怒りを込めて、ドアを見つめた。

 ――ルイス……私たち、他人を死なせてまで、争わなきゃならないの?

 左手で床に落ちているトランシーバーの、送信ボタンを押した。

「ルイス! ジュニアに銃を向けたわね! あなたに、父親を名乗る資格はない!」

 男が立ち上がり、扉に向かい、大きく手を広げた。

「サンタ・マリア、ベランダから外へ! アニータの殉教を無駄にしてはならない!」

 ルイスが止めたのか、拳銃を使っての発砲は止んだ。しかし、扉が壊されるのも時間の問題だ。

「でも、私を逃がしたと知られたら、あなたがどういう立場になるか――」

 男は背中越しに大声で叫んだ。

「迷っている時間は、ないんです! テレサの暴挙をこれ以上、見過ごしたら、革命が成功しても、俺たちは地獄行きです!」

 マリアはジュニアを抱き、立ち上がった。

「また、会いましょう、同志」

 男は振り返り、笑顔を返した。

「この世でも、あの世でも、あなたを見つけたら、ご挨拶に伺います。いつの間にか俺たちは、人間が本来あるべき道から逸れていたんです」

 マリアは頷くと、割れたガラスを踏まないよう気をつけながら、ベランダに向かった。

 扉がバリバリと音を立て始めた。銃弾をぶち込むより先に、ドアを壊すべきだと、ルイスたちもようやく気づいたのだろう。

 アニータを殺した拳銃の発砲が、ルイスの指示だとは思いたくなかった。闇雲にこちらに発砲すれば、ジュニアが危ない事実ぐらい、ルイスは重々わかっているはずだ。

 きっとテレサの暴挙に違いない。社会革命クラブの女王さまも、ここでようやく本性を現した。ジュニアの命より、誘拐した赤ん坊が奪還される不名誉を恥じた結果だ。

 大きな窓を抜け、コンクリートのベランダに出る。アパートの外には、いつもと変わりない静かな日常があった。

 落下防止の鉄の柵を乗り越えるのが難儀だった。ジュニアをしっかりと右腕に抱え、バランスを取りながら、乗り越え、そっと地面に下りた。

 不意に、カンカンと鉄の階段を下りる音がした。

 振り仰ぐと、二階から螺旋階段を使って、男が一人、下りてきていた。手にはライフルを抱えている。

 窓から入り、中の人間を全て殺す……そのぐらいの気合いがなくては、ライフルを握れまい。

 社会革命クラブの大多数の人間にとって、もうマリアは何の力も発揮できない。冠を戴く聖なる存在など、サンタ・テレサ一人で充分なのだろう。

「止まれ! 止まらないと、本当に撃つぞ!」

 ただの威嚇とは思えなかった。マリアは身が竦みそうになる気持ちを、なんとか鼓舞し、背を向けて走り出した。

 マリアもアニータと同じ運命を辿る――覚悟した瞬間、ダダダダッとマシンガンの銃声が響いた。

 マリアはジュニアを抱いたまま、地面に身を伏せた。

 背後で、男が、ドサリと倒れる音がした。

 ――え? 何が起きたの?

 目の前で、エヴァがマシンガンを構え、仁王立ちしていた。

 停留所にバスが停まった。中の乗客が、何ごとかと外を見ている。

 エヴァはマシンガンを肩に担ぐと、大きく手招きした。

「マリア、こっちよ。ずっと外で見張っていたの。さあ、早く来て」

 マリアはよろよろと立ち上がった。ジュニアはさっきから、大人たちは何をやっているのか? と不思議そうな顔をしている。泣かないでくれている状況は、大いに助かっていた。

 マリアが横に立つと、エヴァがジュニアの頭を撫でた。

「さすが、受け継いでる血が只者ではないわね。全然、動じないところは、ルイスの子らしいわ」

「エヴァ、アニータが……撃たれて死んだの」

 エヴァは真顔で、頷いた。

「アニータの死を無駄にはできないわね。さあ、こっちよ」

 道を駆け、横に曲がるとすぐ、オートバイが停車していた。エヴァが跨がり、エンジンを吹かす。

「さあ、乗って! 大使館まで飛ばすわよ」

「でも、ミランダとフリオが、まだ中にいるのよ」

「ええ、そうね。あなたを逃がす時間を、一秒でも多く手に入れようと、必死のはずだわ」

 マリアは、それ以上は何も言えず、大人しくエヴァの後ろに跨がった。ジュニアをしっかりと胸に抱き、エヴァの体にしがみつく。

「いいこと、あんたたちが振り飛ばされないよう、気を遣って運転する余裕はないの。このまま一直線でメキシコ大使館まで行くから、力の限り、しがみついているのよ!」

 マリアが応えようとした時、ジュニアが、「だぁ!」と声を上げた。エヴァはその言葉を返答と取ったようで、足で地面を蹴り、走り出した。

 二車線の道路を走る車を、次々に追い抜いていく。車の運転手たちは、マリアのスカートが風に靡く様を見て、喜び、声を上げた。

「いいぞぉ、もっと飛ばせ!」

 マリアはジュニアを落とさないよう、必死にエヴァの体を掴んでいた。スカートが捲れて下着が見えても、この際、気にしなかった。

 エヴァは更にスピードを上げ、対向車線ぎりぎりで、うるさい車を振り切った。

 大きく右に曲がると、比較的大きな建物が並ぶ首都の中心地に入った。渋滞するほどではないが、車の数も増えてきた。

 やがてエヴァが、歩道にバイクを着け、停まった。ホアンが物陰から、走り出てきた。

「ホアン! ホアン!」

 ホアンはマリアからジュニアを手渡されると、しっかり胸に抱いた。マリアはまだ体じゅうが震えていたが、ホアンが差し出した手を取り、バイクから降りた。

 マリアはエヴァの頬にキスをした。エヴァが肩を押す。

「さあ、早く!」

 今は、感謝の言葉も、申し訳なく思う謝罪の言葉も後回しだ。メキシコ大使館は三階建ての大きな建物だった。黒い鉄門がしっかりと閉じている。

「乗り越えるぞ」

「はい!」

 マリアはスカートを捲り上げて、門に足を掛けた。

 そのままよじ登り、内側に足を掛ける。腕を伸ばし、ジュニアを受け取る。そのまま、ドスンと地面に落ちた。ホアンが続いて、門をよじ登った。

 ホアンの足が、メキシコ大使館敷地内に着いた。これでもう、ここは〝外国〟だ。

 マリアたちの進入を黙って見ていた見張り小屋の男に、ホアンが呼び掛けた。

「僕は、ホアン・リアス。この女性は、マリア・ウールデン。子供は、ルイス・ウールデン・ジュニア。亡命を希望する」

 男が目の前の電話の受話器を取り、中にいる人間に連絡を取った。

「亡命希望者三名、大使館内に入れてもいいですか?」

 すぐに大使館の扉が開き、黒眼鏡の男が現れた。ホアンがマリアの背を抱きながら、男に近づいた。ホアンは再度、亡命希望の意思を伝えた。

「エスタモス・デセオ・デ・エクシリオ」

 男は、にっこり微笑み、マリアたちに手を差し出した。

「お入りなさい。言葉の問題は、なさそうですね」

 マリアたちは、廊下を入ってすぐ左の部屋に案内された。

「パスポートは持っていますか?」

 ホアンが三人分のパスポートをポケットから出し、マリアを驚かせた。

「いつの間に、ジュニアのパスポートまで取っていたの?」

 ホアンは、さらりと答えた。

「亡命すると決めた日に、申請を出した。ルイスが父親なら無理かとも思ったんだが、認められたよ。政府の反政府阻止運動も、盤石ではないようだ」

 マリアは神妙な思いで、頷いた。政府が認めたパスポートなら、きっとメキシコで受け入れてもらえるだろう。

 ただ、マリアはパスポートの写真とまったく違う容貌のはずだ。短く切った黒髪は仕方ないにしても、顔で本人と認識されるよう、ハンカチでごしごし、メイクを拭き取った。

 やがて部屋の扉が開き、秘書と思われる男の後ろから、褐色の肌の大柄な男が入ってきた。

 マリアとホアンが立ち上がると、男は座るよう、身振りで示した。

「アンティル大使のディエゴ・ゴメスです。セニョール・リアス、あなたが代表者と考えてよいのですね?」

「はい、よろしくお願いします。マリアは、こんな身形をしていますが、ここまで逃げてくるために、変装するしかなかったのです。どうぞ、ご理解ください」

 ゴメス大使が、向かいのソファに、どっかと腰を下ろした。マリアの容貌に関しては、特に何も触れなかった。一国の大使ともなれば、写真と本人が同じかどうかぐらい、簡単にわかるのかもしれない。

「ご家族では、ないのですね? つまり、セニョーラ・ウールデンの夫君は、一緒ではない?」

「……ウールデン氏は、アンティルを離れるつもりはありません。また、ウールデン夫人と夫婦関係も破綻しています。亡命が認められたら、次に離婚手続きを進めたいと思っています」

「ルイス・ウールデン氏ですよね? 社会革命クラブの?」

 嘘をついても無駄だ。大使館側はマリアの素性ぐらい、すぐに把握できただろう。マリアの代わりに、ホアンが答えた。

「そうです」

「あなたがたも、社会革命クラブの一員ですか?」

「過去には所属していましたが、今は違います」

 ゴメス大使は脚を組み替え、資料をぺらぺらと捲った。

「最後に確認します。あなたがたはルイス・ウールデン氏と過去に関係があった。でも、今は違う。メキシコに亡命が認められれば、すぐにでもウールデン氏と離婚手続きをする。その先は……まあ、いいでしょう。我々が心配な点は、アンティル政権のごたごたを、メキシコまで持ち込まないかどうか、です」

 マリアは意を決し、口を開いた。

「私たちの望みは、三人で静かに平和に暮らすことだけです。ここアンティルでは、願い叶わず、亡命を希望しました。もう、社会革命クラブからは離れています。クラブの精神をメキシコに持ち込んだりしないと、約束します。どうか、私たちを受け入れてください」

 マリアはジュニアを抱き締めたまま、ぺこりと頭を下げた。ホアンも倣って、頭を垂れた。大使は、ふぅっと大きく息を吐いた。

「そういうことでしたら、いいでしょう。メキシコにようこそ。とりあえず、渡航ビザを渡しますので、数日中にメキシコ国内に入ってください。あちらで、亡命の手続きその他ができるよう、手配しましょう」

 マリアとホアンは、揃って、深々と頭を下げた。

「ありがとうございます!」

 大使は立ち上がり、部屋を出て行った。秘書が残り、マリアたちに入国ビザを手渡した。

「お疲れでしょう。部屋を用意していますので、少し休んでください」

 疲れたなんて程度の問題ではなかった。二人用のダブルベッドが置かれた部屋に案内された。マリアは崩れるようにベッドに転がった。

 ジュニアがマリアの腕を逃れ、ベッドの上でジタバタ始めた。

「ホアン、お願い……ちょっとの時間、ジュニアを、見ていてくれる……?」

 あまりにもいろいろな問題があり過ぎた。アニータは死んだ……。ミランダとフリオは、今もルイスと対峙しているだろうか? それともなんとか、事態を乗り切っただろうか?

「ああ、いいよ。少しお休み」

 アニータは死んだ……。革命運動なんてやっていたら、今後、日常茶飯事のように死者が出るのだろうか? マリアたちは門外漢のように、他所の国で、事態の推移を見守っていくのか?

 アンティルを愛している。この気持ちは本物だ。決して逃げるのではない。

 いや……綺麗事を言っても、逃げる真似にしか映らないだろう。多くの同志が、強い決意を持って、革命のために命を投げ出そうとしているのに。マリアはもう、地に落ちた聖女だった。

 うすれゆく意識の向こうで、アニータが背を向け、歩いていた。追いかけようとすると、足下にジュニアがまとわりついた。

「アニータ、待って! 私、何とお詫びをしたらいいか。あなたの人生を、私たちのせいで終わらせてしまった」

 アニータが振り返る。

「サンタ・マリア、いつかまた、会いましょう。人の一生なんて、あっという間です。私たちはすぐに、再会できます」

 いつか再び会う時、アニータに恥ずかしくないよう、生きていかなければ。ジュニアを守ったことを後悔させないよう、立派な人間に育てなければ。

 大きな窓から差し込む温かい西日を肌で感じながら、マリアは深い眠りに落ちていった。


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