第八章 ジュニア、誘拐
第八章 ジュニア、誘拐
1
ルイスとは、きっぱり別れよう。決意は固かったものの、行動に移すには、大きなエネルギーと勇気が必要だった。
親族とは絶縁状態だ。大学も行かなくなり、友人とも疎遠となった。
なにより、マリアの姿形が、社会革命クラブの象徴として使われている経緯がある。マリアが群衆に紛れて平凡な生活を送るなんて、無理な話だった。
でも、他の国だったら、他人目を気にせず、生きていける。
マリアには、オランダ語の他、英語、フランス語、スペイン語の素養がある。どこの国に行っても、言葉に不自由はしない。ジュニアと二人、なんとか頑張っていけるだろう。
ただ、ルイスが離婚は受け入れないだろうと予想はついていた。とりあえず、メキシコ辺りに亡命を決行し、婚姻関係の問題は、のちのち考える道が一番に思えた。
アンティルを見捨てるつもりはない。
ただ、マリアは今回のルイスが起こす革命に、何の役にも立たない。革命の象徴的存在はテレサに譲り、他国でアンティルを静かに見守っていこう。
マリアはさっそく、ホアンに決意を告げることにした。できれば……共に来て欲しい。
場所は、いつもの中庭。日も暮れかかり、一番星が輝いていた。
マリアが先にドアの向こうへ消えた様子を見ていたのだろう。しばらくして、ホアンは現れた。
マリアは、一歩、ホアンに近づき、決意を伝えた。
「アンティルを、離れようと思うの」
ホアンは真顔で、「そうか」と頷いた。他国へ行くという道は、ルイスとの別れを意味する。ホアンにはマリアの思いがよくわかる様子だった。
ホアンが、すっと右手を差し出した。
「一緒に、この国を出よう。ルイスには、もう、僕も必要ないようだ」
今まで口にこそ出さなかったが、ホアンも、テレサの登場で蔑ろにされている事実があるのだろう。
マリアはホアンの手を取った。ホアンは強い力で自分の胸に、マリアを引き込んだ。マリアは幸せな思いで、ホアンの胸に顔を埋めた。
「……ジュニアの、お父さんになってくれる?」
ホアンは、それは優しく微笑んだ。
「僕なんかでよければ」
マリアは頬が熱くなった。ジュニアのお父さんなら、マリアの旦那さまだ。
二人は見つめ合い、自然と唇を重ねた。なんという穏やかな愛だろう。ホアンとなら、マリアは肩肘を張らず、ありのままの姿で生きていけそうな気がした。
そっと唇を離し、不安な思いで問いかける。
「亡命って、手続きが面倒なのかしら?」
ホアンは少しだけ、難しい顔をした。
「まず、渡航ビザが下りるかどうか、だな。君はルイスの妻として、ラテンアメリカじゅうに顔が知れ渡っている。それがマイナスとならなければいいが」
マリアは思わず、ホアンの胸に顔を埋めた。
「私を認めてくれる国が、あるかしら?」
ホアンはしっかりとマリアの背を抱いてくれた。
「大丈夫。どこの国も、まだまだ安定した政府とはいえない。皆、自国の問題で精一杯なのさ。アンティルの内紛に巻き込まれないために、君を迎え入れない国なんて、少ないはずさ」
「まずは、どこへ?」
「メキシコはラテンアメリカ諸国の亡命者が多いと聞く。僕と君とジュニアの三人が入国できないか、打診してみよう」
ホアンがいると、なんとも頼もしい。マリアはまだまだ世間知らずで、ジュニアと二人だけで生きていくには、大きな不安があった。
「……結婚していない男女が、一緒に亡命なんて認められるかしら?」
「こちらの事情を話せば、理解してもらえるだろう。君の今の夫は、アンティルの、言わば問題児だ。君を受け入れたら、アンティルとの外交で優位に立てると考える人間が、いると思う」
マリアは小さく息を吐いた。やはりまだ、サンタ・マリアの称号と、ルイスの影はついて回るらしい。
マリアの落胆に気づいたらしいホアンが、そっとマリアの顎に手をやる。
「そう案じることはない。僕がいる。じゃあ、メキシコを第一候補に、亡命の準備を始めよう」
そうだとも。マリアにはホアンがいる。信じて一生ずっと従いていく男が。海のように深い愛で包んでくれる温かな存在が。
どこまでも従いていこう。いつかどちらかの命が先に尽きるまで。
2
マリアたちの亡命計画は、秘密裏に進められた。亡命する人間は、マリアとホアンとジュニアの三人。
まず、ホアンのビザが先に下りた。
マリアとジュニアは、社会革命クラブの主催、ルイス・ウールデンの家族だ。受け入れるとなったら、国としても、ある程度の覚悟が必要なのだろう。
「やはり、離婚を先にしなければ、亡命できないのかしら」
ホアンも頭を抱えた。
「今、アルゼンチンとコロンビアにも打診しているところだ。メキシコと同じ扱いだったら、正直、きついな」
マリアはここで、大きな決意を固めた。ルイスと正式に別れよう。
ゲルドフ大統領時代、離婚法が成立されていた。カトリック教徒は基本的に離婚を認められない。そこをごり押しした法案だったため、民衆からの評判は悪かった。
でも、今のマリアにとっては、ありがたい法律だった。
まず、離婚届けを用意し、ルイスと今日会う予定の同志に託した。ただの封書に入れたので、マリアの決意はルイスが封を開けるまで、知られない。
マリアはその日一日、じりじりと待つ身で、気も漫ろだった。
エヴァが椅子を持ってきて、背凭れを前に、馬乗りに座った。
「どうしたの? 心ここにあらずね。それも、朝からずっと」
エヴァになら、打ち明けてもいいだろう。
「ルイスと正式に別れることにしたの。離婚届に、私はサインを済ませ、ルイスに届けさせたのよ」
さすがにエヴァも驚いた様子だった。
「まさか、テレサに対する当てつけ? ま、一度、ルイスのような男には、冷や水を浴びせるほうがいいわ」
「……それで、晴れて自由の身となったら、この国を離れようと思うの」
エヴァの顔が険しくなった。
「一人で? それとも、ジュニアも連れていく気?」
「当たり前じゃないの。ジュニアは私の息子よ。私が育てていかなくて、どうするのよ?」
「うーん、ルイスは、自分の息子が国外に逃げるなんて真似、許さないと思うわよ」
「だから、そこまでの話は書いていないの。亡命は、事後承諾になると思うわ。だから、エヴァも誰にも言わないで。お願い」
必死の思いで頼み込むも、エヴァはマリアを安心させるような笑顔は見せてくれなかった。
「そりゃ、誰にも言わないわよ。でも、ルイスは勘のいい男よ。あんたと離婚したら、ジュニアを取られるって予想ぐらい、立てると思う。そのとき、どう対処するかよね」
同じ懸念はマリアにもあった。でも、ルイスと夫婦でいる限り、他国での新しい生活は始められない。
出発地点から、順序を間違えず、ホアンと結婚したかった。ジュニアと三人家族になるにしても、離婚は必須の条件だと、マリアは信じた。
3
翌日の朝、マリアが《グアダルーペ》の階段を下り、店内に入ると、昨日、ルイスに手紙を届けたはずの男が立っていた。
「ルイスにちゃんと、手紙は届いた?」
「一応、中に目を通したようですが、突き返してこいとのお達しでした」
男は開封された封書を、マリアに差し出した。受け取ると、さっそく離婚届を確認した。ルイスの名前は、なかった。
マリアは思わず、落胆の息を吐いた。
「ルイスは、私と離婚する気はないのね?」
「はい。顔を真っ赤にして怒り、用紙をびりびりに破きかねない様子でした。結局、私に用紙と封筒を放り投げ、部屋を出て行かれました」
その、部屋というものがどこにあるのか、側にどんな人間がいたのか、マリアには何もわからない。夫の心だけでなく、体も離れた今の状況で、夫婦である意味が、どれほどあるのか?
「……わかったわ、ありがとう。とりあえず、今、離婚するしないを問題にしないようにします」
男は頭を下げると、無言で《グアダルーペ》を出て行った。マリアは、ほぉっと深い息を吐いた。
確かに、突然に離婚届を突きつける真似は、あまり上品とは言えなかった。
できれば、ルイスと直に会って、話をしたい。説得する自信はないが、二人がもうこれ以上、夫婦でいる意味がない事実ぐらいは、わかってもらえるはずだ。
ホアンとの仲を責められたって構わない。ルイスだって、マリアをないがしろにして、テレサと行動を共にしているではないか。
「やっぱり、駄目だわ。今この状況で会ったら、お互いの非を責め合うだけだもの」
そこにエヴァが、大きな買い物袋を抱えて、店に帰ってきた。
罪の街を出た先で、毎朝、市場が開かれている。新鮮で格安な食材を手に入れるべく、エヴァは毎朝、遠出をしていた。
マリアが二階を使うようになって、エヴァは小さなアパートを借りた。申し訳ない思いはしたのだが、マリアとジュニアを警備する上で、《グアダルーペ》での起居が最適と判断されていた。
エヴァも、いつもの明るい笑顔を浮かべ、二階をマリアたちに譲ってくれていた。乗っ取られた、と思う時もあるだろうが、少なくともマリアの前では、不満の色を見せなかった。
「参ったわ。昨日の夜は海が荒れていたらしくて、海産物がほとんど並んでないの。でも野菜は揃ったから、メニューを改めて考えましょう」
マリアは口の端を上げ、頷いた。
「そうね。それがいいわね」
「どうしたの? なんだか、元気がないわね」
エヴァに悟られないわけがない。マリアは正直に、ルイスが離婚届を突き返してきた件を簡単に話した。
エヴァも、やれやれと首を横に振った。
「お互いが素直になれば、もう少し状況は変わってくるかもしれないけど。今の状態じゃ、離婚は難しいかもね」
「でも、離婚しないと、海外渡航ビザが下りないの。ルイス・ウールデンの妻の立場は、私が早急に捨てたい代物なのよ」
エヴァが、ぽりぽりと頭を掻いた。
「渡航ビザなんて、のんびり待つ必要は、ないんじゃないの?」
マリアは、ぽかんとして、エヴァを見た。
「どういう意味?」
「あまり政治的な問題はわからないんだけど、政情不安の国では、より安定した国の大使館に幼い子供を連れて、家族が駆け込むって話、よく聞くわよ」
「……そうね、確かに、聞くわね」
「その時すぐには、ビザなんて下りないわけでしょ? でも、まず大使館が保護してくれて、しばらく待ったら、その国の政府が入国を正式に認めるわ。無鉄砲かもしれないけれど、やってみる価値は一応あるんじゃないかしら」
なるほど。大使館に駆け込むなんて手は、考えもしなかった。それだけ、切羽詰まった状態に、マリアは置かれている。
マリアは思わず、エヴァの手を掴んだ。
「ありがとう、エヴァ! ホアンと話し合って、考えてみるわ」
エヴァが、ニヤリと笑った。
「やっぱり、ホアンと一緒になるつもりなのね」
マリアはハッと、口に手を当てた。
「エヴァには、まだ言ってなかったかしら?」
エヴァはからからと陽気に笑った。
「もちろん、察しはついていたわよ。ホアンがこの戦いから一歩退く現実は、社会革命クラブには痛手だけれどねえ」
「あら、社会革命クラブは、サンタ・テレサの独裁でしょ。ホアンがいなくても、なんとかやっていくでしょう」
エヴァの表情が固くなった。
「そうなのよね。今や、テレサの独裁。私たちが頑張ってきた努力って、何だったのかしらね」
エヴァも、ホアンやマリアと同じように、居場所のなさを感じているようだ。
マリアは恐る恐る、エヴァに尋ねてみた。
「エヴァ、あなたも一緒に行く? 私とホアンは、家族ではないわ。でも、大事な人よ。大事というなら、あなたも同じだわ」
エヴァは軽く、穏やかに笑った。
「いいのよ、気を遣わなくて。私はどんな目に遭っても、アンティルに残るわ。アンティルを憂え、共に心中しようとする人間は、サンタ・テレサ以外にもいるってことを、世の中に見せつけてやりたいのよ」
エヴァの気持ちは、よくわかった。きっと、エヴァのように考える女は、少なくないだろう。
テレサは革命運動の先頭に立っているが、女たちの支持を得ているかといえば、大いに疑問だった。
軍政に堕ちた故国に殉じて、喪に服し、黒衣に身を包む。このあざとさに、女たちはとっくに気づいている。
まるで、自らの身を毛布にくるんで、シーザーの前に現れたクレオパトラのような、したたかな作為を感じていた。
とにかく、エヴァの提案を考えてみる余地は、大いにありそうだ。マリアは感謝の気持ちで、エヴァの左手を取った。
「エヴァ、ありがとう。あなたこそ、真の憂国の女戦士だわ」
エヴァは無言で、にっこり笑うと、マリアの肩を叩いて、食材の収納を始めた。
4
市場からの大荷物を片付けた後、マリアとエヴァは料理の仕込みに入った。なにしろ、今朝は海産物を、まったく調達できなかった。野菜と少量の肉で、腹を空かせた男たちを満足させなければならない。
台所と店内を仕切る扉は、開けておいた。これなら、ジュニアが目覚めて、泣き出しても、すぐ聞こえる。
マリアはハムのマリネ用にレモンを搾るうち、そろそろジュニアにも果汁を飲ませようと考えた。
壁の時計を見ると、午前十時を回っていた。お腹を空かせている頃だろう。
「エヴァ、オレンジを一個、使わせてくれないかしら。絞って、ジュニアに飲ませようと思うの」
「それは、いいわね。この世の中には、舌が蕩ける味がいくつもあるんだって、どんどん知っていかないとね」
マリアは野菜籠の中からオレンジを取り出し、流し台で丁寧に洗った。半分に切り、絞り器でジュースにする。
甘酸っぱい匂いと、跳ねた新鮮なオレンジの飛沫に、思わず目を細めた。殺菌しておいたミルク瓶に果汁を入れ、キャップを締めて、よく振った。
「これで、よしっと」
マリアは軽くステップを踏みながら、いったん店内に出て、階段を上ろうとした。ふと違和感を覚えた。
「店の中に誰もいないって……珍しいわね」
マリアとジュニアの警備に屈強な親衛隊員が三人、任務に就いていた。一人は必ず外で見張りをし、あとの二人は店内にいることが多かった。そのうちの一人は店内のテーブルに着き、もう一人は階段横に立っている。
でも時に、外の見張りが二人になる時もあったし、用を足しに席を外す時もある。
だからマリアは、無人の店内をさほど気にしなかった。ミルク瓶を振りながら、階段を上がる。寝室のドアは、ジュニアの声が階下でも聞こえるよう、常に開けてあった。
部屋に入り、愕然とした。
ベビーベッドは、蛻の殻だった。ベッドに手を当ててみると、まだほんのり温かい。
周囲を見回し、赤ちゃん服やおむつも数枚ずつ、消えている。
マリアは一瞬、頭が真っ白になった。
――え? 何? 何が起きたの?
ジュニアは、どこに消えたのか? ベビーベッドは高い柵があり、ジュニアが落ちるなんて考えられない。まだ三ヶ月の赤ん坊だ。寝返りだって打てないはずだ。
やがて確信に満ちた思いと共に、恐怖がマリアを襲った。
――ジュニアは攫われたんだわ! 眠っている間に、誰かに抱きかかえられ、姿を消した!
いったい誰が、こんな真似をしたのか?
一番に考えられる人間は、反ルイス派の者だ。革命の申し子、ジュニアを攫い、ルイスとの交渉の手立てにするのかもしれない。
マリアは慌てて、階段を駆け下りた。
「エヴァ、エヴァ! 大変なの! ジュニアがいない!」
台所に駆け込むと、キャベツと人参を両手に抱えていたエヴァが、ぽかんと口を開けた。
「いないって、どういうこと? 警備の人間には知らせた?」
そうだ! 彼らの鉄壁の守りを突いて、誘拐犯は犯行を行った。いや、誰かが気づき、ジュニアを取り戻しているかもしれない。
マリアは近くにいるはずの親衛隊員たちに聞こえるよう、大声を出した。
「ジュニアがいない! ジュニアがいないのよ!」
相変わらず、店内は空っぽ。マリアは店のドアを勢いよく開け、外に飛び出した。
顔から血の気が抜ける思いがした。
外で見張っているはずの親衛隊員の姿が見当たらない。つまり、マリアはこの午前中、誰にも守られず、放置されていたことになる。
エヴァがマリアを追って、外に出て来た。誰もいない事実に、呆然としている様子だった。
何が起きているのか? わけがわからない!
「みんな、どこへ行ったの? ジュニア! ジュニアぁー!」
マリアはすっかり取り乱し、その場で蹲った。エヴァが背中から抱え、「とりあえず、中に入りましょう」とマリアを立たせた。マリアはよろよろと、店内に戻った。
エヴァが椅子を勧め、背中をさすってくれた。
「親衛隊員が、一人もいないわね」
「朝起きて、階下に下りたときは、ちゃんと三人いたはずよ!」
「その時、何か変化はなかった? 誰か他に、側にいたものは?」
――ジュニア、ジュニア! どこに行ったの!
頭が混乱し、マリアは叫んだ。
「知らないわよ! ルイスの使いの人間が来たけど、すぐに帰ったわ!」
ジュニアを攫われるなんて、とんでもないマリアの失態だ。ルイスは激高するだろう。革命の申し子を、どんな形で利用されるか、わかったものではない。
身代金を要求されるなら、まだ救いがある。もし、ルイスを排斥したがっている団体の手に堕ちたなら、見せしめに殺されるかもしれない。
エヴァが真向かいに椅子を持ってきて、座った。
「ルイスの使いって? 何の用だったの?」
「離婚届を、突き返しに来たのよ。ルイスはサインしてくれなかったわ」
するとエヴァは、なるほどとばかりに頷いた。
「その使いは、もう一つの使命を帯びていたわけね」
マリアは意味もわからず、顔を上げた。
「どういう意味?」
エヴァは額に右手を当て、大きく息を吐いた。
「親衛隊員に命じて、ジュニアを連れ去ったんだと思う」
「なんですって!」
マリアは思わず立ち上がった。ジュニア誘拐の犯人は、父親のルイス? まさか、そんな真似をするなんて……。
「前にも言ったけど、ルイスは、あんたがジュニアを連れて、どこか他所の国へ亡命しようとしていると、予測を立てたのよ。ルイスは、どうしてもジュニアを手放したくない。ま、父親だし、当然よね。それで、あんたから引き離したのよ」
「冗談じゃないわ! 誘拐して、テレサにでも育てさせる気? ジュニアは私の下にいなきゃいけないの! 何の力もない赤ん坊なのよ! 革命の犠牲になんて、絶対にできない!」
頭を抱え、前のめりになって、絶叫した。悔し涙が溢れて止まらない。
いったい、どうすればいいのだろう? ジュニアを連れ、亡命しようという決意を知っている人間は、ホアンとエヴァだけだ。
エヴァも立ち上がり、マリアの肩に両手を置いた。
「マリア、とりあえず、落ち着きなさい。ジュニアの命が危険に晒されているわけじゃないんだから。とにかく、今後の問題をホアンも入れて、話し合いましょう。社会革命クラブの中には、こちらの味方になってくれる人間だって、いるはずよ」
マリアは何度も深呼吸し、なんとか叫びたい思いを堪えた。ルイスと敵対するなんて、思ってもみなかった。ぎゅっと目を閉じ、神に念じる。
――どうか、お願いです! ジュニアを返して! あの子がいないと、私は生きていけない……。
5
ほどなくしてやって来たホアンの胸に、マリアは飛び込んだ。
「なぜ、もっと早く来てくれなかったの? ジュニアが……ジュニアが……」
興奮で上手く説明ができないマリアに代わり、エヴァがジュニアの誘拐を報告した。ホアンも呆然とした。
「ルイスが、まさか、そんな真似をするなんて……卑怯な振る舞いだけは絶対しない男だったのに!」
エヴァが納得顔で、頷いた。
「側にいるテレサに影響されているのだと思うわ。テレサはルイスを誑かし、自分の思うままに操っているのよ」
「親衛隊員を置いていないとなると、マリアは完全に切り捨てられたわけだな」
以前から、守ってもらう点には、疑問を感じていた。でも、ジュニアと生みの母を守るための名目なら、理解もできた。
守る側の人間が、簡単に寝返るなんて、思ってもみなかった。
マリアは、ホアンの胸に縋った。
「ホアン、お願い! ジュニアを奪還して。ジュニアをアンティルに置いて、他国に亡命なんて、できないわ」
ホアンが困った様子で、眉根を寄せた。
「ルイスが今、どこにいるのかがわかれば、なんとかなるんだが……。僕はすっかり信用されていないみたいで、伝令を通してしか、ルイスの声が聞けなくなったんだ」
今度はエヴァが声を荒げた。
「それを言うなら、私だって同じよ。武装訓練に行ったって、ルイスの姿はないわ。テレサが大いばりで、同志を仕切っているだけよ。私が武装隊から抜けた理由は、毎回、サンタ・テレサを拝まなければならない、この異常事態から逃げたかったからだわ」
「でも、ジュニア誘拐は、ルイスの判断だと思える。テレサにしてみたら、ジュニアが自分の側にいることで有利になる問題は、何一つないからな」
「なるほどね。ルイスはテレサほど、狡猾ではないわ。そこからなんとか打開策を見い出せるかもね」
それでもホアンは頭を抱え、椅子に座り込んだ。
「僕もエヴァも、マリアの味方だと知られている。今更、ルイスに近づけるわけもない。ルイスの所在を知る芸当ができる、協力者が必要だ。でも、僕らが親しい人間には、テレサは絶対にルイスの居所を教えたりしないだろう」
ルイスがどこにいるか、わからない。だから、ジュニアもどこに連れ去られたか、わからない。そんなことって……。どう対処したらいいのだろう?
「私たちは、いつの間にか、孤立していたって意味ね」
絶望にも近い言葉を吐くと、エヴァが悔しそうに首を横に振った。
「ルイスも、馬鹿よ。これまでずっと苦労を共にしてきた人間たちを、すっかり排除したのよ。テレサ信望者が必ずしも、ルイスのために死を恐れない活躍をするとは限らないのに」
ホアンも同調するように、頷いた。
「その通りだ。聖なる女性を崇めるやり方は、悪いわけじゃない。しかし、以前はマリアがその座にいたのに、いつの間にか、テレサが取って代わった。理由はテレサのほうが、憂国の女戦士として、人々の支持を得られると期待したからだろう。でも――」
エヴァがホアンの言葉を先に述べた。
「同志たちは、当初に思っていたより、テレサ寄りになっていないわ。女たちは、特にそう。女の同志に関しては、私に任せて。まだ、ルイスの側に仕えている女で、私が知っている人物が、いるかもしれないわ」
ホアンが励ますように、マリアの肩を抱いた。
「とにかく、今は落ち着こう。興奮していると、冷静な判断も下せない。ジュニアの身が危ないわけではないんだ」
マリアは悔しさと情けなさに、何度も髪を掻き上げた。
「落ち着け、落ち着けって、エヴァもホアンも言うけれど、私には無理だわ! 今頃お腹を空かせているでしょうに。ルイスは男だから、おむつを替えるタイミングだって、わかってやしないのよ!」
ルイスがジュニアを大事にする思いは、よくわかる。ルイスの気持ちを心配しているわけではない。側にいるテレサが、ジュニアに敵意を抱いていないかが、心配だった。
――もう私を愛していないのなら、さっさと離婚して、テレサと子供を作ればいい話なのに!
たぶん、いや、確実にルイスはマリアより、テレサを愛している。テレサだって、ルイスを愛しているから、わざわざもう一度、仲間に加わったのだろう。
そうなると、テレサにとって、ジュニアは邪魔な存在かもしれない。ジュニアの身がとりあえず安心とする考えに、マリアは同調できなかった。
エヴァが席を立ち、キッチンから、コップ一杯の水を持ってきた。
「さあ、飲んで。少しは興奮も静まるでしょう」
マリアは言われるまま、水を一気に飲み干した。やがて、頭がぼんやりしてきた。体を真っ直ぐに立てている姿勢が、とてもしんどくなった。
「……エヴァ、何か、水の中に入れたでしょう……」
エヴァが申し訳なさそうに、マリアの背を摩った。
「安定剤を入れたわ。今のあんたに必要なのは、意味なく怒ったり嘆いたりすることじゃない。一度、体を横にして、休むのよ。時間が過ぎれば、新たな名案も浮かぶかもしれない」
「……私は、意味なく興奮したり……しているのではないわ……」
やがて瞼の重さに抵抗できなくなった。マリアは悔しい思いながらも、静かに目を閉じた。ホアンがマリアを担ぎ、二階のベッドに寝かせてくれた。
微かな意識の中、ホアンが優しく頬にキスする感触がわかった。
「マリア、ぐっすりお休み。僕たちが絶対に、ジュニアを連れ戻すから」
――きっと……きっとよ。
ホアンのキスと言葉は、マリアの気持ちをほんの少しだけ、軽くしてくれた。
それでも、悲しみが和らぐことは、決してなかった。
夢の中、真っ白な世界にいたマリアは、この腕に抱き締める存在を探し、あてどなく、さまよい歩いていた。
6
目覚めると、太陽が西の空に傾いていた。とんでもない朝を迎えたこの日、無為に過ごしたようで、マリアは気が重くなった。
ジュニアを奪還する。でも、どうやって?
たとえば誰か、協力者ができたとする。ジュニアは見知らぬ人間に抱かれて、驚いて泣くだろう。泣き声はすぐ、親衛隊員たちの耳に入るはずだ。
とてもじゃないが、他人に任せていられない。
――私が、この手で行わなければ、奪還なんて金輪際できない。他人に頼る真似はもう止めよう。
マリアはベッドから立ち上がり、まっすぐ箪笥の前まで行き、一番上の抽斗を開けた。中には切れ味の良い、大きな鋏が入っている。
鋏を取り出し、今度は横のドレッサーに座る。金色の髪を、顎の下の位置で、右からばっさり切り取った。
ジョリっと音がして、マリアの美しい真っ直ぐなブロンドが、床に落ちた。そのまま、左も切り、残った後ろの髪も切った。
髪を短く切った経験は、子供の頃以来だった。似合っているかどうかなんて、全然わからない。自分の顔に違和感を覚える。これでいい。
マリアは部屋を出て、階段を下りた。足音を聞いて、顔を上げたエヴァが、愕然とした声を発する。
「あんた……マリア! 髪、どうしちゃったのよ!」
「エヴァ、お願いがあるの。毛染め粉で、私の髪を黒く染めてちょうだい」
エヴァが、なるほどと、頷いた。
「そう……自分でジュニアを奪還するつもりなのね」
「私が抱いていけば、ジュニアは不安に泣き出したりしないと思うの。それには、まず、私の容貌を大きく変える必要があると感じたのよ」
エヴァが褐色の髪を真っ黒にするため、毛染め粉を使っている事実を、マリアは知っていた。エヴァもマリアの決意に、異議はない様子だった。
「わかったわ、すぐに染めてあげる。でも、マリア、一人でなんでもやろうとしちゃ、駄目よ。今、ホアンが、フリオの下に行って、こちらの味方になってもらえないか、様子を探りに出かけてるの」
フリオはキースと並んで、ホアンの下で、三番手に位置する人間だ。キースはルイスを無条件に信望していて、ホアンともあまり仲が良くない。でも、フリオは、性格も比較的温厚で、ホアンとの仲も悪くなかった。
「フリオがこちらに付いてくれたら、心丈夫だわね」
「とりあえず、二階へ行きましょう。毛染めするにしても、そんなギザギザの髪じゃ駄目よ。私が綺麗に切り揃えてあげるわ」
7
「黒髪も似合うわね。肌が透き通るように白いから、その対比で、とっても妖艶に見えるわ」
生まれてこのかた、妖艶だと言われた経験はなかった。
エヴァが切り直してくれたおかげで、マリアの頭は漆黒のボブカットとなった。なんだか昔のハリウッド・スターにでもなったようで、気分が良かった。
確か、男を魅了して、ぼろ雑巾のように捨てる、悪の華のような存在があったはずだ。毒婦女優と言ったっけ。
「これで、テレサに対抗できそう?」
「悪女っぽいって意味なら、ルックスだけでも、もう、あんたの勝ちよ。ついでにメイクも、少し変えましょうか。これで、すぐにあんただとは、誰もわからなくなるわよ」
エヴァが黒髪に似合うよう、太めのアイラインを引いてくれた。睫にもたっぷりとマスカラを塗り、青い瞳を黒く縁取る。口紅は、深紅。男を惑わす妖婦マリアが誕生した。
マリアは満足の思いで、右を向き、左を向いた。意識して瞼を落とし、運命の女を気取ってみる。
階下で、扉が開く鐘の音がした。ホアンが戻ってきたらしい。
「おおい、エヴァ! 二階にいるのなら、下りてきてくれよぉ」
エヴァが階下に大声で応えた。
「今、行くわ!」
マリアとニヤリと見つめ合い、揃って階段を下りた。
ジョゼは、一人ではなかった。フリオがホアンの横に、決意の顔で立っていた。しかし、見知らぬ黒髪の女を見て、眉を顰めた。
「ホアン、エヴァ、この女性は?」
ホアンが当惑して、エヴァを見た。
「エヴァ、この女性は?」
マリアは愉快な気分で、顎を上げ、尊大な表情を作ってみせた。
「私が誰だか、本当にわからないの? お馬鹿さんね」
ホアンとフリオが、声を聞いて、仰天した。
「マ、マリア?」
マリアは、にっこり微笑み、両腕を広げた。
「そうよ、マリアよ。ちょっとイメージ・チェンジしてみたの。フリオ、ここに来てくれたってことは、私たちの仲間になってくれる意味に取っていいのかしら?」
狼狽していたフリオだが、すぐに真顔に戻った。
「もちろんだ。今のルイスは、我々の知っているルイスではない。すっかりテレサに骨抜きにされて、いいように操られている。ジュニア奪還に関しては、大いに協力したいと思う」
ホアンがフリオの肩に手を置き、静かに告げた。
「フリオはサンタ・テレサ体制になってからも、何度かルイスに会っている。期待は持てると思うんだ。それと……もう一人、協力したいと買って出た人間がいる」
マリアは嬉しい思いに、目を開いた。
「ありがたい話だわ。誰? 私たちと親しかった人?」
ホアンはにっこり微笑み、扉まで近づくと、外にいる人間に声を掛けた。
「入っておいで。大丈夫だから」
扉がカラランと鳴りながら、開いた。現れた人間の顔を見て、マリアは息を呑んだ。
「ミランダ! 社会革命クラブを抜けたのだとばかり思っていたわ!」
ルイスに一度は愛され、子を産んだ女。しかし、ミランダの息子は、生きながらえることができなかった。
ミランダは決意の顔で、マリアを見た。
「サンタ・マリア、お手伝いさせてください。子を失う苦しみは、私が一番よくわかります。ルイスの不意を突くなら、女の私が役に立つと思うんです」
フリオは別の意味で、感心していた。
「ここまで容貌の変わったマリアを前に、まったく動じないとは、凄いな」
ミランダが小さく笑った。
「確かに、いったい誰がいるのかと驚きましたけど、すぐにわかりました。母である強く優しい瞳は、そのままです。アダムが生きていた頃から、サンタ・マリアには慈愛を注いでいただき、感謝しています」
ジュニアが攫われたと知った瞬間は、絶望的な思いをしていた。やはり、少し時間を置くと、事態は良い方向に傾くようだ。
ホアン、エヴァ、マリア、フリオ、ミランダ。思っていた以上に、頼もしい仲間と組む結果となった。
エヴァが景気づけるように、パンッと手を叩いた。
「さあ、みんな、好きな席に座って。今夜は店を開かないことにして、仕込み作業は止めるわ。精鋭のこの五人で、ジュニア奪還計画を練りましょう」
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エヴァを囲んで、四人が席に着いた。自然と、話を進めていく役目はエヴァとなった。
「ジュニアは、やはり、ルイスの身近にいるのだと思うわ。つまり、まずルイスの居所を掴むことから始めないと」
フリオが穏やかに口を開いた。
「ルイスは定期的に、居場所を変えている。僕が最後に会った日から七日が経過しているから、もう、あの場所には、いないだろうな」
「参ったわね。ルイスの尻を追っかける真似から始めないといけないわけね?」
「でも、そんなに自由は効かないはずだ。テレサは常に一緒だし、今度は赤ん坊のジュニアがいるからね。今度の移動場所からは、動かないはずだ」
エヴァがマリアとミランダを交互に見た。
「まず、必須要件として、赤ん坊を育てる環境があるわよね? 大声で泣くだろうから、防音設備もしっかりしている場所。あと他に、気にするべき点は、ないかしら?」
ミランダが控えめに、手を挙げた。
「赤ちゃんの生活では、清潔が何より大事です。サンタ・マリアが側にいないから、ミルクも綺麗な水が出る水道があり、煮沸ができる火を使える場所に限られると思います」
首都から離れた地域では、水道も通っていない場所が、まだまだ多い。どうやらジュニアは、マリアたちとそれほど離れた場所にいるわけではなさそうだ。
「つまり、ジュニア奪還のために、バスや汽車に延々揺られた挙げ句、船に乗るって必要は、ないわけね」
エヴァも、うんうんと頷いた。
「アンティルは大きく四つの島に分かれているわ。このキュラソー島以外の場所に連れていかれていたなら、奪還の目処は立たなかった。その点では、ジュニアが赤ん坊で助かったわね」
「キュラソー島にいる限り、水道設備、防音設備、共に満足する所で、ルイスが移動する場所は、三つしかありません。そうなると、マグリトラーンにある三階建ての雑居ビル、マグリトラーン・スモール・アパートメンツに違いありません」
マリアは、すかさず質問した。
「それはアパートなの? 他に、社会革命クラブ以外の一般人も住んでいるの?」
「いいえ。過去にアパートだったらしいですが、今は廃墟に近いです。でも、ガスも火も使える場所で、広いですし、同志たちの溜まり場のようになっています」
エヴァが姿勢を伸ばし、呟いた。
「場所に見当がつく点は、ありがたいわね」
マリアも救われた思いになった。行ったことはない場所だが、ミランダが入った経験のあるビルなら、心強い。
「それと、ジュニアの世話を申しつけられている女が必ずいるはずです。ジュニアは三ヶ月でしょう? 一番、大変な時期です。社会革命クラブを牛耳っているテレサが、暢気にジュニアに関わっては、いられないと思うんです」
エヴァが、ぽりぽりと頭を掻いた。
「また新たな、愛人候補生かしらね」
ホアンが女たちの会話に割って入った。
「ルイスは、あと半年以内に革命を起こす腹だ。さすがにテレサ以外の女にも手を出しているとは思えないな。純粋に、赤ん坊の世話を任せられる女性だと思う。当然、ジュニアが存在する意味は大きいから、口が堅く、ある程度まで人生経験を積んだ女性が選ばれただろう。年齢の意味ではなく、社会革命クラブに貢献してきた、経験深い女だ」
フリオがエヴァに、声を掛けた。
「社会革命クラブの女たちの情報は、すっかり頭に入っているだろう? 誰か、心当たりはないか?」
エヴァは口元に手を当て、少し考えた。
「ルイスたち男が信頼を寄せていて、革命の申し子の世話を引き受けるような女ね……」
その時、ミランダが口を開いた。
「アニータ・ハウアーは、どうでしょう?」
エヴァが、ぽんと手を叩いた。
「アニータね! 大いにあり得るわ」
エヴァは事情を知らない他の人間に、説明を始めた。
「ミランダは長いことルイスの側にいたから、周辺の人間を良く知っているのよ。アニータは、議会で言えば、書記のような存在ね。ほとんどのスピーチはホアンが考えてきたけれど、ルイスもホアンの原稿に口を出したくなる時があるの。そんな時、原稿をタイプし直す作業を、一手に引き受けていたわ」
フリオが、ヒューと口笛を吹いた。
「凄い女だな。この国には、まだまだ字の読み書きができない人間が多いのに。ある程度の教育を受けた女だな」
「マリアほどじゃないけれど、家は裕福なほうだったはずよ。政治についても、よくわかる女だった。アンティルの未来を、純粋に考えているはずよ」
マリアが身を乗り出した。
「私たちの仲間には、なってくれそう?」
狂信的なルイス信者なら、無理な話だろう。また、ルイスに女として愛されたいと願望を持っていたら、仲間には絶対なってくれないだろう。
問題は、ジュニアをマリアが奪還に行った時、何が一番、この国と国民の平和のためになるか、冷静に考えられる女かどうか、だった。
マリアの神秘性を利用するだけ利用して、離れていきそうになったら、子供を攫う。こんな卑劣な真似をする人間が、国の長として相応しいか、考える頭脳を持っていて欲しい。
ミランダがマリアの問いに答えた。
「しっかりした考えの持ち主です。ルイスの言葉だけ、無条件に信じるような頭の人ではないはずです。ジュニアを今、託されているのなら、誠心誠意、世話を務めるでしょう」
マリアは不安な思いで尋ねた。
「私が求めたら、素直にジュニアを返してくれるかしら?」
エヴァが躊躇いがちに応じた。
「どうだろう……そうあって欲しいと思うけれど。ミランダ、どう思う?」
ミランダも考え込んだ。
「そうですね。子供を産んだ経験のない女性ですから、母親の身を切られる思いを、わかってくれるかどうか……。でも、他の女たちよりは、マシだと思います。説得するだけの価値はある人です」
今度は、フリオが割って入った。
「大事な問題だ。希望的観測は捨てたほうがいいぞ。要は、素直に返してくれるか、武器で脅す必要があるか、なんだ」
ホアンが、フリオに同調した。
「そうだな。ミランダとマリア二人で潜入した場合、少なくとも一人は、いざとなったら武器で脅す覚悟も必要だ。マリア、ミランダ、銃を扱った経験はあるか?」
マリアもミランダも、首を横に振った。すかさずエヴァが、口を出した。
「私が教えてあげるわ。拳銃も、私のを持っていけばいい。軽いし、足首に装着すれば、目立たないの」
マリアは、なんとも不安だった。
「下手に拳銃など持っていて、身体検査で発見されたら、ジュニアの側に近づく真似は、できないわ」
エヴァが、ぽんと頭を叩いた。
「そっか。確かに、その危険性はあるわね」
するとフリオが声を上げた。
「銃に関しては、僕が持っていこう。ジュニアのすぐ側まで、僕も行けるかどうかはわからないが、身体検査を二人が潜り抜けたら、その時に銃を渡す」
どうやら、隠れ家にフリオ、マリア、ミランダの三人で入り込む展開になりそうだ。どこまで三人の体制で進入できるかが鍵だ。
9
「問題は、どういう名目で入り込むか、よね」
さすがに、この作戦には、皆が頭を捻った。ホアンが難しい顔をする。
「乳母に雇われたと言って近づいても、側にテレサがいるんじゃ、すぐ嘘とばれるな」
エヴァも同じ思いだったようだ。
「もう、乳母役は、アニータに決められているでしょう。志願して来たっていう口実は、どう?」
ミランダが控えめに発言した。
「テレサとルイスがジュニアを誘拐した情報を、どこで知ったのか、と、問い詰められるだけだと思います」
エヴァは大きく息を吐き、背凭れに体を預けた。
「やれやれ、これまでは、ルイスの側に女はごまんと押し寄せたのに、今ではテレサが、一人一人、厳重に審査しているわけね。自分一人が寵愛を受けて、さぞ楽しいでしょうね!」
マリアは、ふと思い立って、口を開いた。
「ルイスやテレサに会うためでなく、直接アニータを訪ねて来たと告げてみたら、どうかしら? 私たちはアニータがジュニアのお世話係をしているなんて、知らず、アニータの所在を追ってきたら、ここに辿り着いた、みたいに」
ミランダも、マリアに賛成した。
「それがいいかもしれません。たまたま、私の連れは子供をあやす真似が上手く、私が育児をしていた時も、お世話になった、なんて話をしてみたら、アニータもジュニアをサンタ・マリアに抱かせてくれるかもしれません」
フリオも、うんうんと頷いた。
「なんたって、実の母なんだから、抱っこされたら、一番よく落ち着くだろう。でも、ルイスがその様子を見て、黒髪の女性がマリアだと気づく懸念は、ないかな?」
マリアは真っ直ぐ、ホアンに顔を向けた。
「ねえ、ホアン、初めて見た時、私が誰だか、わかった?」
「いいや、ぜんぜん。だって、醸し出す雰囲気が全然、違うんだから。いつもは美しいミルク色に見える肌も、深紅の口紅と黒髪のせいで、酷く青白く映るよ」
フリオも、間抜けに口を開けながら、変装したマリアを見ていた。
「これまでのマリアが、聖母マリアだとするなら、さしずめ今のマリアは、マグダラのマリアだな。売春婦だったが、イエスの力で改心し、最後まで共に過ごした女性だ」
エヴァが、なぜか不機嫌になった。
「売春婦、っていうくだりは、福音書を書いた奴らの捏造だと、私は勝手に思ってるんだけどね。マグダラのマリアはイエスの復活を見届けた、重要な聖人よ。きっと頭も良く、思い切りのいい女性だったんだと思う。確かに今のマリアは、そういった雰囲気があるわね」
マリアは、にっこり笑った。
「よかった。私を見て、もう誰も聖母マリアだとは思わないわけね。なんだか、重たい鎧を脱ぎ去った時のように、いい気分だわ」
「サンタ・マリアと私が、ルイスやテレサの目の前を通らず、直接アニータに会えたなら、ジュニア奪還の希望は大きくなるでしょう。でも、私には、別の心配もあります」
マリアは、ぽかんとして、ミランダを見た。
「どういう意味?」
「ルイスが、サンタ・マリアだと知らず、別の魅力的な女だと思い込み、誘惑してくる危険性があります」
マリアを含め、他の四人は失笑した。エヴァがゲホゲホと咽せながら、コップの水を飲んだ。
「それは、見物だわねえ! ルイスが一段と、間抜けに見えるわよ」
「もし、そうなったら、ミランダ、あとで僕たちに、こっそり教えてくれよ」
釣られて笑っていたミランダが、ホアンの頼みになんとか「はい」と答えた。
マリアは複雑な気分になった。今のルイスが、同志たちからどういう目で見られているか、まざまざと思い知らされた。
糟糠の妻、サンタ・マリアを捨て、愛人に聖なる冠を被せ、悦に入っている裸の王さまだ。
こんなはずじゃなかった。ルイスが革命に命を懸けている事実は、今も変わらないのに。ちょっと別の女に鼻の下を伸ばしただけで、革命家ルイス・ウールデンの評判は、すっかり悪くなった。
ルイスも堕ちたものだと、マリアは勝手に考えていた。ところが、周りの大多数の人間も、同じ考えだったとは! このまま、ルイス、テレサ体制で、革命は成功するのだろうか?
亡命を強く決意した今も、アンティルの今後は心配だ。でも、このままマリアが居続けても、アンティルの未来は変わらない。
ジュニアのためにも、ホアンとの新しい生活に一歩を踏み出すためにも、亡命は必要な道だった。
ジュニアを奪還したら、その足でホアンと共に、メキシコ大使館に駆け込む予定だ。亡命が認められれば、ルイスと話をする機会は、ほぼ永遠に失われるだろう。
ルイスの革命が成功し、政情が安定するまで、アンティルに足を踏み入れる真似は絶対できない。
こんな状況で、マリアはルイスのすぐ間近まで潜り込む。ルイスと一言も言葉を交わさないまま、ジュニアだけを連れ出していいものなのか?
一度は心から愛した男だ。マリアの人生を、大きく変えてくれた人でもある。
ルイスと出会わなかったら、マリアはずっと、金持ちのお人形さんとして、家族やアメリカ社会に利用されるままだったろう。
別に、お礼を言いたいわけではない。かといって、捨てられ、子を奪われかけたからと、罵詈雑言を浴びせたいわけでもない。
今、捨てられた妻の立場で告げたい思いがあるとするなら――。
――「どうか出会った頃の、雄々しきあなたのままでいてください……」――だった。
ジュニアがある程度まで事情をわかる年齢になったら、ルイスが父親だと教えてやりたい。誰よりも強く、逞しく、同志たちに慕われていた、と。
ホアンも許してくれるだろう。
フリオが音を立てて、椅子を引き、立ち上がった。
「じゃあ、さっそく、マグリトラーン・スモール・アパートメンツを偵察してくるよ。今、ルイスやテレサに顔を見られて良い人間は、僕だけだものな」
「じゃあ、私たち女性陣は、マリアの変装の仕上げをするわ」
エヴァの声に、マリアは我に返った。
「仕上げって……これで充分ではないかしら」
エヴァが、ちっちっちと舌を鳴らし、人差し指を立てた。
「首から下が、まだ聖母マリアなのよ。大人し過ぎ。もう少し妖艶な女になるために、私の服を貸すわ。今どきの女なんだから、もっと脚を見せないと駄目よ」
ミランダが真顔で、マリアを見つめた。
「サンタ・マリア、命に替えても、お守りします。母と子が永遠に引き離されるなんて苦しみは、私たち親子で、たくさんです」
マリアは感謝の思いで、ミランダの手を取った。
「ありがとう、ミランダ。頼りにしてるわ」