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南国のマリア  作者: 霧島勇馬
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第八章 ジュニア、誘拐

  第八章 ジュニア、誘拐

 ルイスとは、きっぱり別れよう。決意は固かったものの、行動に移すには、大きなエネルギーと勇気が必要だった。

 親族とは絶縁状態だ。大学も行かなくなり、友人とも疎遠となった。

 なにより、マリアの姿形が、社会革命クラブの象徴として使われている経緯がある。マリアが群衆に紛れて平凡な生活を送るなんて、無理な話だった。

 でも、他の国だったら、他人目を気にせず、生きていける。

 マリアには、オランダ語の他、英語、フランス語、スペイン語の素養がある。どこの国に行っても、言葉に不自由はしない。ジュニアと二人、なんとか頑張っていけるだろう。

 ただ、ルイスが離婚は受け入れないだろうと予想はついていた。とりあえず、メキシコ辺りに亡命を決行し、婚姻関係の問題は、のちのち考える道が一番に思えた。

 アンティルを見捨てるつもりはない。

 ただ、マリアは今回のルイスが起こす革命に、何の役にも立たない。革命の象徴的存在はテレサに譲り、他国でアンティルを静かに見守っていこう。

 マリアはさっそく、ホアンに決意を告げることにした。できれば……共に来て欲しい。

 場所は、いつもの中庭。日も暮れかかり、一番星が輝いていた。

 マリアが先にドアの向こうへ消えた様子を見ていたのだろう。しばらくして、ホアンは現れた。

 マリアは、一歩、ホアンに近づき、決意を伝えた。

「アンティルを、離れようと思うの」

 ホアンは真顔で、「そうか」と頷いた。他国へ行くという道は、ルイスとの別れを意味する。ホアンにはマリアの思いがよくわかる様子だった。

 ホアンが、すっと右手を差し出した。

「一緒に、この国を出よう。ルイスには、もう、僕も必要ないようだ」

 今まで口にこそ出さなかったが、ホアンも、テレサの登場で蔑ろにされている事実があるのだろう。

 マリアはホアンの手を取った。ホアンは強い力で自分の胸に、マリアを引き込んだ。マリアは幸せな思いで、ホアンの胸に顔を埋めた。

「……ジュニアの、お父さんになってくれる?」

 ホアンは、それは優しく微笑んだ。

「僕なんかでよければ」

 マリアは頬が熱くなった。ジュニアのお父さんなら、マリアの旦那さまだ。

 二人は見つめ合い、自然と唇を重ねた。なんという穏やかな愛だろう。ホアンとなら、マリアは肩肘を張らず、ありのままの姿で生きていけそうな気がした。

 そっと唇を離し、不安な思いで問いかける。

「亡命って、手続きが面倒なのかしら?」

 ホアンは少しだけ、難しい顔をした。

「まず、渡航ビザが下りるかどうか、だな。君はルイスの妻として、ラテンアメリカじゅうに顔が知れ渡っている。それがマイナスとならなければいいが」

 マリアは思わず、ホアンの胸に顔を埋めた。

「私を認めてくれる国が、あるかしら?」

 ホアンはしっかりとマリアの背を抱いてくれた。

「大丈夫。どこの国も、まだまだ安定した政府とはいえない。皆、自国の問題で精一杯なのさ。アンティルの内紛に巻き込まれないために、君を迎え入れない国なんて、少ないはずさ」

「まずは、どこへ?」

「メキシコはラテンアメリカ諸国の亡命者が多いと聞く。僕と君とジュニアの三人が入国できないか、打診してみよう」

 ホアンがいると、なんとも頼もしい。マリアはまだまだ世間知らずで、ジュニアと二人だけで生きていくには、大きな不安があった。

「……結婚していない男女が、一緒に亡命なんて認められるかしら?」

「こちらの事情を話せば、理解してもらえるだろう。君の今の夫は、アンティルの、言わば問題児だ。君を受け入れたら、アンティルとの外交で優位に立てると考える人間が、いると思う」

 マリアは小さく息を吐いた。やはりまだ、サンタ・マリアの称号と、ルイスの影はついて回るらしい。

 マリアの落胆に気づいたらしいホアンが、そっとマリアの顎に手をやる。

「そう案じることはない。僕がいる。じゃあ、メキシコを第一候補に、亡命の準備を始めよう」

 そうだとも。マリアにはホアンがいる。信じて一生ずっと従いていく男が。海のように深い愛で包んでくれる温かな存在が。

 どこまでも従いていこう。いつかどちらかの命が先に尽きるまで。

 マリアたちの亡命計画は、秘密裏に進められた。亡命する人間は、マリアとホアンとジュニアの三人。

 まず、ホアンのビザが先に下りた。

 マリアとジュニアは、社会革命クラブの主催、ルイス・ウールデンの家族だ。受け入れるとなったら、国としても、ある程度の覚悟が必要なのだろう。

「やはり、離婚を先にしなければ、亡命できないのかしら」

 ホアンも頭を抱えた。

「今、アルゼンチンとコロンビアにも打診しているところだ。メキシコと同じ扱いだったら、正直、きついな」

 マリアはここで、大きな決意を固めた。ルイスと正式に別れよう。

 ゲルドフ大統領時代、離婚法が成立されていた。カトリック教徒は基本的に離婚を認められない。そこをごり押しした法案だったため、民衆からの評判は悪かった。

 でも、今のマリアにとっては、ありがたい法律だった。

 まず、離婚届けを用意し、ルイスと今日会う予定の同志に託した。ただの封書に入れたので、マリアの決意はルイスが封を開けるまで、知られない。

 マリアはその日一日、じりじりと待つ身で、気も漫ろだった。

 エヴァが椅子を持ってきて、背凭れを前に、馬乗りに座った。

「どうしたの? 心ここにあらずね。それも、朝からずっと」

 エヴァになら、打ち明けてもいいだろう。

「ルイスと正式に別れることにしたの。離婚届に、私はサインを済ませ、ルイスに届けさせたのよ」

 さすがにエヴァも驚いた様子だった。

「まさか、テレサに対する当てつけ? ま、一度、ルイスのような男には、冷や水を浴びせるほうがいいわ」

「……それで、晴れて自由の身となったら、この国を離れようと思うの」

 エヴァの顔が険しくなった。

「一人で? それとも、ジュニアも連れていく気?」

「当たり前じゃないの。ジュニアは私の息子よ。私が育てていかなくて、どうするのよ?」

「うーん、ルイスは、自分の息子が国外に逃げるなんて真似、許さないと思うわよ」

「だから、そこまでの話は書いていないの。亡命は、事後承諾になると思うわ。だから、エヴァも誰にも言わないで。お願い」

 必死の思いで頼み込むも、エヴァはマリアを安心させるような笑顔は見せてくれなかった。

「そりゃ、誰にも言わないわよ。でも、ルイスは勘のいい男よ。あんたと離婚したら、ジュニアを取られるって予想ぐらい、立てると思う。そのとき、どう対処するかよね」

 同じ懸念はマリアにもあった。でも、ルイスと夫婦でいる限り、他国での新しい生活は始められない。

 出発地点から、順序を間違えず、ホアンと結婚したかった。ジュニアと三人家族になるにしても、離婚は必須の条件だと、マリアは信じた。

 翌日の朝、マリアが《グアダルーペ》の階段を下り、店内に入ると、昨日、ルイスに手紙を届けたはずの男が立っていた。

「ルイスにちゃんと、手紙は届いた?」

「一応、中に目を通したようですが、突き返してこいとのお達しでした」

 男は開封された封書を、マリアに差し出した。受け取ると、さっそく離婚届を確認した。ルイスの名前は、なかった。

 マリアは思わず、落胆の息を吐いた。

「ルイスは、私と離婚する気はないのね?」

「はい。顔を真っ赤にして怒り、用紙をびりびりに破きかねない様子でした。結局、私に用紙と封筒を放り投げ、部屋を出て行かれました」

 その、部屋というものがどこにあるのか、側にどんな人間がいたのか、マリアには何もわからない。夫の心だけでなく、体も離れた今の状況で、夫婦である意味が、どれほどあるのか?

「……わかったわ、ありがとう。とりあえず、今、離婚するしないを問題にしないようにします」

 男は頭を下げると、無言で《グアダルーペ》を出て行った。マリアは、ほぉっと深い息を吐いた。

 確かに、突然に離婚届を突きつける真似は、あまり上品とは言えなかった。

 できれば、ルイスと直に会って、話をしたい。説得する自信はないが、二人がもうこれ以上、夫婦でいる意味がない事実ぐらいは、わかってもらえるはずだ。

 ホアンとの仲を責められたって構わない。ルイスだって、マリアをないがしろにして、テレサと行動を共にしているではないか。

「やっぱり、駄目だわ。今この状況で会ったら、お互いの非を責め合うだけだもの」

 そこにエヴァが、大きな買い物袋を抱えて、店に帰ってきた。

 罪の街を出た先で、毎朝、市場が開かれている。新鮮で格安な食材を手に入れるべく、エヴァは毎朝、遠出をしていた。

 マリアが二階を使うようになって、エヴァは小さなアパートを借りた。申し訳ない思いはしたのだが、マリアとジュニアを警備する上で、《グアダルーペ》での起居が最適と判断されていた。

 エヴァも、いつもの明るい笑顔を浮かべ、二階をマリアたちに譲ってくれていた。乗っ取られた、と思う時もあるだろうが、少なくともマリアの前では、不満の色を見せなかった。

「参ったわ。昨日の夜は海が荒れていたらしくて、海産物がほとんど並んでないの。でも野菜は揃ったから、メニューを改めて考えましょう」

 マリアは口の端を上げ、頷いた。

「そうね。それがいいわね」

「どうしたの? なんだか、元気がないわね」

 エヴァに悟られないわけがない。マリアは正直に、ルイスが離婚届を突き返してきた件を簡単に話した。

 エヴァも、やれやれと首を横に振った。

「お互いが素直になれば、もう少し状況は変わってくるかもしれないけど。今の状態じゃ、離婚は難しいかもね」

「でも、離婚しないと、海外渡航ビザが下りないの。ルイス・ウールデンの妻の立場は、私が早急に捨てたい代物なのよ」

 エヴァが、ぽりぽりと頭を掻いた。

「渡航ビザなんて、のんびり待つ必要は、ないんじゃないの?」

 マリアは、ぽかんとして、エヴァを見た。

「どういう意味?」

「あまり政治的な問題はわからないんだけど、政情不安の国では、より安定した国の大使館に幼い子供を連れて、家族が駆け込むって話、よく聞くわよ」

「……そうね、確かに、聞くわね」

「その時すぐには、ビザなんて下りないわけでしょ? でも、まず大使館が保護してくれて、しばらく待ったら、その国の政府が入国を正式に認めるわ。無鉄砲かもしれないけれど、やってみる価値は一応あるんじゃないかしら」

 なるほど。大使館に駆け込むなんて手は、考えもしなかった。それだけ、切羽詰まった状態に、マリアは置かれている。

 マリアは思わず、エヴァの手を掴んだ。

「ありがとう、エヴァ! ホアンと話し合って、考えてみるわ」

 エヴァが、ニヤリと笑った。

「やっぱり、ホアンと一緒になるつもりなのね」

 マリアはハッと、口に手を当てた。

「エヴァには、まだ言ってなかったかしら?」

 エヴァはからからと陽気に笑った。

「もちろん、察しはついていたわよ。ホアンがこの戦いから一歩退く現実は、社会革命クラブには痛手だけれどねえ」

「あら、社会革命クラブは、サンタ・テレサの独裁でしょ。ホアンがいなくても、なんとかやっていくでしょう」

 エヴァの表情が固くなった。

「そうなのよね。今や、テレサの独裁。私たちが頑張ってきた努力って、何だったのかしらね」

 エヴァも、ホアンやマリアと同じように、居場所のなさを感じているようだ。

 マリアは恐る恐る、エヴァに尋ねてみた。

「エヴァ、あなたも一緒に行く? 私とホアンは、家族ではないわ。でも、大事な人よ。大事というなら、あなたも同じだわ」

 エヴァは軽く、穏やかに笑った。

「いいのよ、気を遣わなくて。私はどんな目に遭っても、アンティルに残るわ。アンティルを憂え、共に心中しようとする人間は、サンタ・テレサ以外にもいるってことを、世の中に見せつけてやりたいのよ」

 エヴァの気持ちは、よくわかった。きっと、エヴァのように考える女は、少なくないだろう。

 テレサは革命運動の先頭に立っているが、女たちの支持を得ているかといえば、大いに疑問だった。

 軍政に堕ちた故国に殉じて、喪に服し、黒衣に身を包む。このあざとさに、女たちはとっくに気づいている。

 まるで、自らの身を毛布にくるんで、シーザーの前に現れたクレオパトラのような、したたかな作為を感じていた。

 とにかく、エヴァの提案を考えてみる余地は、大いにありそうだ。マリアは感謝の気持ちで、エヴァの左手を取った。

「エヴァ、ありがとう。あなたこそ、真の憂国の女戦士だわ」

 エヴァは無言で、にっこり笑うと、マリアの肩を叩いて、食材の収納を始めた。

 市場からの大荷物を片付けた後、マリアとエヴァは料理の仕込みに入った。なにしろ、今朝は海産物を、まったく調達できなかった。野菜と少量の肉で、腹を空かせた男たちを満足させなければならない。

 台所と店内を仕切る扉は、開けておいた。これなら、ジュニアが目覚めて、泣き出しても、すぐ聞こえる。

 マリアはハムのマリネ用にレモンを搾るうち、そろそろジュニアにも果汁を飲ませようと考えた。

 壁の時計を見ると、午前十時を回っていた。お腹を空かせている頃だろう。

「エヴァ、オレンジを一個、使わせてくれないかしら。絞って、ジュニアに飲ませようと思うの」

「それは、いいわね。この世の中には、舌が蕩ける味がいくつもあるんだって、どんどん知っていかないとね」

 マリアは野菜籠の中からオレンジを取り出し、流し台で丁寧に洗った。半分に切り、絞り器でジュースにする。

 甘酸っぱい匂いと、跳ねた新鮮なオレンジの飛沫に、思わず目を細めた。殺菌しておいたミルク瓶に果汁を入れ、キャップを締めて、よく振った。

「これで、よしっと」

 マリアは軽くステップを踏みながら、いったん店内に出て、階段を上ろうとした。ふと違和感を覚えた。

「店の中に誰もいないって……珍しいわね」

 マリアとジュニアの警備に屈強な親衛隊員が三人、任務に就いていた。一人は必ず外で見張りをし、あとの二人は店内にいることが多かった。そのうちの一人は店内のテーブルに着き、もう一人は階段横に立っている。

 でも時に、外の見張りが二人になる時もあったし、用を足しに席を外す時もある。

 だからマリアは、無人の店内をさほど気にしなかった。ミルク瓶を振りながら、階段を上がる。寝室のドアは、ジュニアの声が階下でも聞こえるよう、常に開けてあった。

 部屋に入り、愕然とした。

 ベビーベッドは、蛻の殻だった。ベッドに手を当ててみると、まだほんのり温かい。

 周囲を見回し、赤ちゃん服やおむつも数枚ずつ、消えている。

 マリアは一瞬、頭が真っ白になった。

 ――え? 何? 何が起きたの?

 ジュニアは、どこに消えたのか? ベビーベッドは高い柵があり、ジュニアが落ちるなんて考えられない。まだ三ヶ月の赤ん坊だ。寝返りだって打てないはずだ。

 やがて確信に満ちた思いと共に、恐怖がマリアを襲った。

 ――ジュニアは攫われたんだわ! 眠っている間に、誰かに抱きかかえられ、姿を消した!

 いったい誰が、こんな真似をしたのか?

 一番に考えられる人間は、反ルイス派の者だ。革命の申し子、ジュニアを攫い、ルイスとの交渉の手立てにするのかもしれない。

 マリアは慌てて、階段を駆け下りた。

「エヴァ、エヴァ! 大変なの! ジュニアがいない!」

 台所に駆け込むと、キャベツと人参を両手に抱えていたエヴァが、ぽかんと口を開けた。

「いないって、どういうこと? 警備の人間には知らせた?」

 そうだ! 彼らの鉄壁の守りを突いて、誘拐犯は犯行を行った。いや、誰かが気づき、ジュニアを取り戻しているかもしれない。

 マリアは近くにいるはずの親衛隊員たちに聞こえるよう、大声を出した。

「ジュニアがいない! ジュニアがいないのよ!」

 相変わらず、店内は空っぽ。マリアは店のドアを勢いよく開け、外に飛び出した。

 顔から血の気が抜ける思いがした。

 外で見張っているはずの親衛隊員の姿が見当たらない。つまり、マリアはこの午前中、誰にも守られず、放置されていたことになる。

 エヴァがマリアを追って、外に出て来た。誰もいない事実に、呆然としている様子だった。

 何が起きているのか? わけがわからない!

「みんな、どこへ行ったの? ジュニア! ジュニアぁー!」

 マリアはすっかり取り乱し、その場で蹲った。エヴァが背中から抱え、「とりあえず、中に入りましょう」とマリアを立たせた。マリアはよろよろと、店内に戻った。

 エヴァが椅子を勧め、背中をさすってくれた。

「親衛隊員が、一人もいないわね」

「朝起きて、階下に下りたときは、ちゃんと三人いたはずよ!」

「その時、何か変化はなかった? 誰か他に、側にいたものは?」

 ――ジュニア、ジュニア! どこに行ったの!

 頭が混乱し、マリアは叫んだ。

「知らないわよ! ルイスの使いの人間が来たけど、すぐに帰ったわ!」

 ジュニアを攫われるなんて、とんでもないマリアの失態だ。ルイスは激高するだろう。革命の申し子を、どんな形で利用されるか、わかったものではない。

 身代金を要求されるなら、まだ救いがある。もし、ルイスを排斥したがっている団体の手に堕ちたなら、見せしめに殺されるかもしれない。

 エヴァが真向かいに椅子を持ってきて、座った。

「ルイスの使いって? 何の用だったの?」

「離婚届を、突き返しに来たのよ。ルイスはサインしてくれなかったわ」

 するとエヴァは、なるほどとばかりに頷いた。

「その使いは、もう一つの使命を帯びていたわけね」

 マリアは意味もわからず、顔を上げた。

「どういう意味?」

 エヴァは額に右手を当て、大きく息を吐いた。

「親衛隊員に命じて、ジュニアを連れ去ったんだと思う」

「なんですって!」

 マリアは思わず立ち上がった。ジュニア誘拐の犯人は、父親のルイス? まさか、そんな真似をするなんて……。

「前にも言ったけど、ルイスは、あんたがジュニアを連れて、どこか他所の国へ亡命しようとしていると、予測を立てたのよ。ルイスは、どうしてもジュニアを手放したくない。ま、父親だし、当然よね。それで、あんたから引き離したのよ」

「冗談じゃないわ! 誘拐して、テレサにでも育てさせる気? ジュニアは私の下にいなきゃいけないの! 何の力もない赤ん坊なのよ! 革命の犠牲になんて、絶対にできない!」

 頭を抱え、前のめりになって、絶叫した。悔し涙が溢れて止まらない。

 いったい、どうすればいいのだろう? ジュニアを連れ、亡命しようという決意を知っている人間は、ホアンとエヴァだけだ。

 エヴァも立ち上がり、マリアの肩に両手を置いた。

「マリア、とりあえず、落ち着きなさい。ジュニアの命が危険に晒されているわけじゃないんだから。とにかく、今後の問題をホアンも入れて、話し合いましょう。社会革命クラブの中には、こちらの味方になってくれる人間だって、いるはずよ」

 マリアは何度も深呼吸し、なんとか叫びたい思いを堪えた。ルイスと敵対するなんて、思ってもみなかった。ぎゅっと目を閉じ、神に念じる。

 ――どうか、お願いです! ジュニアを返して! あの子がいないと、私は生きていけない……。

 ほどなくしてやって来たホアンの胸に、マリアは飛び込んだ。

「なぜ、もっと早く来てくれなかったの? ジュニアが……ジュニアが……」

 興奮で上手く説明ができないマリアに代わり、エヴァがジュニアの誘拐を報告した。ホアンも呆然とした。

「ルイスが、まさか、そんな真似をするなんて……卑怯な振る舞いだけは絶対しない男だったのに!」

 エヴァが納得顔で、頷いた。

「側にいるテレサに影響されているのだと思うわ。テレサはルイスを誑かし、自分の思うままに操っているのよ」

「親衛隊員を置いていないとなると、マリアは完全に切り捨てられたわけだな」

 以前から、守ってもらう点には、疑問を感じていた。でも、ジュニアと生みの母を守るための名目なら、理解もできた。

 守る側の人間が、簡単に寝返るなんて、思ってもみなかった。

 マリアは、ホアンの胸に縋った。

「ホアン、お願い! ジュニアを奪還して。ジュニアをアンティルに置いて、他国に亡命なんて、できないわ」

 ホアンが困った様子で、眉根を寄せた。

「ルイスが今、どこにいるのかがわかれば、なんとかなるんだが……。僕はすっかり信用されていないみたいで、伝令を通してしか、ルイスの声が聞けなくなったんだ」

 今度はエヴァが声を荒げた。

「それを言うなら、私だって同じよ。武装訓練に行ったって、ルイスの姿はないわ。テレサが大いばりで、同志を仕切っているだけよ。私が武装隊から抜けた理由は、毎回、サンタ・テレサを拝まなければならない、この異常事態から逃げたかったからだわ」

「でも、ジュニア誘拐は、ルイスの判断だと思える。テレサにしてみたら、ジュニアが自分の側にいることで有利になる問題は、何一つないからな」

「なるほどね。ルイスはテレサほど、狡猾ではないわ。そこからなんとか打開策を見い出せるかもね」

 それでもホアンは頭を抱え、椅子に座り込んだ。

「僕もエヴァも、マリアの味方だと知られている。今更、ルイスに近づけるわけもない。ルイスの所在を知る芸当ができる、協力者が必要だ。でも、僕らが親しい人間には、テレサは絶対にルイスの居所を教えたりしないだろう」

 ルイスがどこにいるか、わからない。だから、ジュニアもどこに連れ去られたか、わからない。そんなことって……。どう対処したらいいのだろう?

「私たちは、いつの間にか、孤立していたって意味ね」

 絶望にも近い言葉を吐くと、エヴァが悔しそうに首を横に振った。

「ルイスも、馬鹿よ。これまでずっと苦労を共にしてきた人間たちを、すっかり排除したのよ。テレサ信望者が必ずしも、ルイスのために死を恐れない活躍をするとは限らないのに」

 ホアンも同調するように、頷いた。

「その通りだ。聖なる女性を崇めるやり方は、悪いわけじゃない。しかし、以前はマリアがその座にいたのに、いつの間にか、テレサが取って代わった。理由はテレサのほうが、憂国の女戦士として、人々の支持を得られると期待したからだろう。でも――」

 エヴァがホアンの言葉を先に述べた。

「同志たちは、当初に思っていたより、テレサ寄りになっていないわ。女たちは、特にそう。女の同志に関しては、私に任せて。まだ、ルイスの側に仕えている女で、私が知っている人物が、いるかもしれないわ」

 ホアンが励ますように、マリアの肩を抱いた。

「とにかく、今は落ち着こう。興奮していると、冷静な判断も下せない。ジュニアの身が危ないわけではないんだ」

 マリアは悔しさと情けなさに、何度も髪を掻き上げた。

「落ち着け、落ち着けって、エヴァもホアンも言うけれど、私には無理だわ! 今頃お腹を空かせているでしょうに。ルイスは男だから、おむつを替えるタイミングだって、わかってやしないのよ!」

 ルイスがジュニアを大事にする思いは、よくわかる。ルイスの気持ちを心配しているわけではない。側にいるテレサが、ジュニアに敵意を抱いていないかが、心配だった。

 ――もう私を愛していないのなら、さっさと離婚して、テレサと子供を作ればいい話なのに!

 たぶん、いや、確実にルイスはマリアより、テレサを愛している。テレサだって、ルイスを愛しているから、わざわざもう一度、仲間に加わったのだろう。

 そうなると、テレサにとって、ジュニアは邪魔な存在かもしれない。ジュニアの身がとりあえず安心とする考えに、マリアは同調できなかった。

 エヴァが席を立ち、キッチンから、コップ一杯の水を持ってきた。

「さあ、飲んで。少しは興奮も静まるでしょう」

 マリアは言われるまま、水を一気に飲み干した。やがて、頭がぼんやりしてきた。体を真っ直ぐに立てている姿勢が、とてもしんどくなった。

「……エヴァ、何か、水の中に入れたでしょう……」

 エヴァが申し訳なさそうに、マリアの背を摩った。

「安定剤を入れたわ。今のあんたに必要なのは、意味なく怒ったり嘆いたりすることじゃない。一度、体を横にして、休むのよ。時間が過ぎれば、新たな名案も浮かぶかもしれない」

「……私は、意味なく興奮したり……しているのではないわ……」

 やがて瞼の重さに抵抗できなくなった。マリアは悔しい思いながらも、静かに目を閉じた。ホアンがマリアを担ぎ、二階のベッドに寝かせてくれた。

 微かな意識の中、ホアンが優しく頬にキスする感触がわかった。

「マリア、ぐっすりお休み。僕たちが絶対に、ジュニアを連れ戻すから」

 ――きっと……きっとよ。

 ホアンのキスと言葉は、マリアの気持ちをほんの少しだけ、軽くしてくれた。

 それでも、悲しみが和らぐことは、決してなかった。

 夢の中、真っ白な世界にいたマリアは、この腕に抱き締める存在を探し、あてどなく、さまよい歩いていた。

 目覚めると、太陽が西の空に傾いていた。とんでもない朝を迎えたこの日、無為に過ごしたようで、マリアは気が重くなった。

 ジュニアを奪還する。でも、どうやって?

 たとえば誰か、協力者ができたとする。ジュニアは見知らぬ人間に抱かれて、驚いて泣くだろう。泣き声はすぐ、親衛隊員たちの耳に入るはずだ。

 とてもじゃないが、他人に任せていられない。

 ――私が、この手で行わなければ、奪還なんて金輪際できない。他人に頼る真似はもう止めよう。

 マリアはベッドから立ち上がり、まっすぐ箪笥の前まで行き、一番上の抽斗を開けた。中には切れ味の良い、大きな鋏が入っている。

 鋏を取り出し、今度は横のドレッサーに座る。金色の髪を、顎の下の位置で、右からばっさり切り取った。

 ジョリっと音がして、マリアの美しい真っ直ぐなブロンドが、床に落ちた。そのまま、左も切り、残った後ろの髪も切った。

 髪を短く切った経験は、子供の頃以来だった。似合っているかどうかなんて、全然わからない。自分の顔に違和感を覚える。これでいい。

 マリアは部屋を出て、階段を下りた。足音を聞いて、顔を上げたエヴァが、愕然とした声を発する。

「あんた……マリア! 髪、どうしちゃったのよ!」

「エヴァ、お願いがあるの。毛染め粉で、私の髪を黒く染めてちょうだい」

 エヴァが、なるほどと、頷いた。

「そう……自分でジュニアを奪還するつもりなのね」

「私が抱いていけば、ジュニアは不安に泣き出したりしないと思うの。それには、まず、私の容貌を大きく変える必要があると感じたのよ」

 エヴァが褐色の髪を真っ黒にするため、毛染め粉を使っている事実を、マリアは知っていた。エヴァもマリアの決意に、異議はない様子だった。

「わかったわ、すぐに染めてあげる。でも、マリア、一人でなんでもやろうとしちゃ、駄目よ。今、ホアンが、フリオの下に行って、こちらの味方になってもらえないか、様子を探りに出かけてるの」

 フリオはキースと並んで、ホアンの下で、三番手に位置する人間だ。キースはルイスを無条件に信望していて、ホアンともあまり仲が良くない。でも、フリオは、性格も比較的温厚で、ホアンとの仲も悪くなかった。

「フリオがこちらに付いてくれたら、心丈夫だわね」

「とりあえず、二階へ行きましょう。毛染めするにしても、そんなギザギザの髪じゃ駄目よ。私が綺麗に切り揃えてあげるわ」

「黒髪も似合うわね。肌が透き通るように白いから、その対比で、とっても妖艶に見えるわ」

 生まれてこのかた、妖艶だと言われた経験はなかった。

 エヴァが切り直してくれたおかげで、マリアの頭は漆黒のボブカットとなった。なんだか昔のハリウッド・スターにでもなったようで、気分が良かった。

 確か、男を魅了して、ぼろ雑巾のように捨てる、悪の華のような存在があったはずだ。毒婦ヴァンプ女優と言ったっけ。

「これで、テレサに対抗できそう?」

「悪女っぽいって意味なら、ルックスだけでも、もう、あんたの勝ちよ。ついでにメイクも、少し変えましょうか。これで、すぐにあんただとは、誰もわからなくなるわよ」

 エヴァが黒髪に似合うよう、太めのアイラインを引いてくれた。睫にもたっぷりとマスカラを塗り、青い瞳を黒く縁取る。口紅は、深紅。男を惑わす妖婦マリアが誕生した。

 マリアは満足の思いで、右を向き、左を向いた。意識して瞼を落とし、運命のファム・ファタールを気取ってみる。

 階下で、扉が開く鐘の音がした。ホアンが戻ってきたらしい。

「おおい、エヴァ! 二階にいるのなら、下りてきてくれよぉ」

 エヴァが階下に大声で応えた。

「今、行くわ!」

 マリアとニヤリと見つめ合い、揃って階段を下りた。

 ジョゼは、一人ではなかった。フリオがホアンの横に、決意の顔で立っていた。しかし、見知らぬ黒髪の女を見て、眉を顰めた。

「ホアン、エヴァ、この女性は?」

 ホアンが当惑して、エヴァを見た。

「エヴァ、この女性は?」

 マリアは愉快な気分で、顎を上げ、尊大な表情を作ってみせた。

「私が誰だか、本当にわからないの? お馬鹿さんね」

 ホアンとフリオが、声を聞いて、仰天した。

「マ、マリア?」

 マリアは、にっこり微笑み、両腕を広げた。

「そうよ、マリアよ。ちょっとイメージ・チェンジしてみたの。フリオ、ここに来てくれたってことは、私たちの仲間になってくれる意味に取っていいのかしら?」

 狼狽していたフリオだが、すぐに真顔に戻った。

「もちろんだ。今のルイスは、我々の知っているルイスではない。すっかりテレサに骨抜きにされて、いいように操られている。ジュニア奪還に関しては、大いに協力したいと思う」

 ホアンがフリオの肩に手を置き、静かに告げた。

「フリオはサンタ・テレサ体制になってからも、何度かルイスに会っている。期待は持てると思うんだ。それと……もう一人、協力したいと買って出た人間がいる」

 マリアは嬉しい思いに、目を開いた。

「ありがたい話だわ。誰? 私たちと親しかった人?」

 ホアンはにっこり微笑み、扉まで近づくと、外にいる人間に声を掛けた。

「入っておいで。大丈夫だから」

 扉がカラランと鳴りながら、開いた。現れた人間の顔を見て、マリアは息を呑んだ。

「ミランダ! 社会革命クラブを抜けたのだとばかり思っていたわ!」

 ルイスに一度は愛され、子を産んだ女。しかし、ミランダの息子は、生きながらえることができなかった。

 ミランダは決意の顔で、マリアを見た。

「サンタ・マリア、お手伝いさせてください。子を失う苦しみは、私が一番よくわかります。ルイスの不意を突くなら、女の私が役に立つと思うんです」

 フリオは別の意味で、感心していた。

「ここまで容貌の変わったマリアを前に、まったく動じないとは、凄いな」

 ミランダが小さく笑った。

「確かに、いったい誰がいるのかと驚きましたけど、すぐにわかりました。母である強く優しい瞳は、そのままです。アダムが生きていた頃から、サンタ・マリアには慈愛を注いでいただき、感謝しています」

 ジュニアが攫われたと知った瞬間は、絶望的な思いをしていた。やはり、少し時間を置くと、事態は良い方向に傾くようだ。

 ホアン、エヴァ、マリア、フリオ、ミランダ。思っていた以上に、頼もしい仲間と組む結果となった。

 エヴァが景気づけるように、パンッと手を叩いた。

「さあ、みんな、好きな席に座って。今夜は店を開かないことにして、仕込み作業は止めるわ。精鋭のこの五人で、ジュニア奪還計画を練りましょう」

 エヴァを囲んで、四人が席に着いた。自然と、話を進めていく役目はエヴァとなった。

「ジュニアは、やはり、ルイスの身近にいるのだと思うわ。つまり、まずルイスの居所を掴むことから始めないと」

 フリオが穏やかに口を開いた。

「ルイスは定期的に、居場所を変えている。僕が最後に会った日から七日が経過しているから、もう、あの場所には、いないだろうな」

「参ったわね。ルイスの尻を追っかける真似から始めないといけないわけね?」

「でも、そんなに自由は効かないはずだ。テレサは常に一緒だし、今度は赤ん坊のジュニアがいるからね。今度の移動場所からは、動かないはずだ」

 エヴァがマリアとミランダを交互に見た。

「まず、必須要件として、赤ん坊を育てる環境があるわよね? 大声で泣くだろうから、防音設備もしっかりしている場所。あと他に、気にするべき点は、ないかしら?」

 ミランダが控えめに、手を挙げた。

「赤ちゃんの生活では、清潔が何より大事です。サンタ・マリアが側にいないから、ミルクも綺麗な水が出る水道があり、煮沸ができる火を使える場所に限られると思います」

 首都から離れた地域では、水道も通っていない場所が、まだまだ多い。どうやらジュニアは、マリアたちとそれほど離れた場所にいるわけではなさそうだ。

「つまり、ジュニア奪還のために、バスや汽車に延々揺られた挙げ句、船に乗るって必要は、ないわけね」

 エヴァも、うんうんと頷いた。

「アンティルは大きく四つの島に分かれているわ。このキュラソー島以外の場所に連れていかれていたなら、奪還の目処は立たなかった。その点では、ジュニアが赤ん坊で助かったわね」

「キュラソー島にいる限り、水道設備、防音設備、共に満足する所で、ルイスが移動する場所は、三つしかありません。そうなると、マグリトラーンにある三階建ての雑居ビル、マグリトラーン・スモール・アパートメンツに違いありません」

 マリアは、すかさず質問した。

「それはアパートなの? 他に、社会革命クラブ以外の一般人も住んでいるの?」

「いいえ。過去にアパートだったらしいですが、今は廃墟に近いです。でも、ガスも火も使える場所で、広いですし、同志たちの溜まり場のようになっています」

 エヴァが姿勢を伸ばし、呟いた。

「場所に見当がつく点は、ありがたいわね」

 マリアも救われた思いになった。行ったことはない場所だが、ミランダが入った経験のあるビルなら、心強い。

「それと、ジュニアの世話を申しつけられている女が必ずいるはずです。ジュニアは三ヶ月でしょう? 一番、大変な時期です。社会革命クラブを牛耳っているテレサが、暢気にジュニアに関わっては、いられないと思うんです」

 エヴァが、ぽりぽりと頭を掻いた。

「また新たな、愛人候補生かしらね」

 ホアンが女たちの会話に割って入った。

「ルイスは、あと半年以内に革命を起こす腹だ。さすがにテレサ以外の女にも手を出しているとは思えないな。純粋に、赤ん坊の世話を任せられる女性だと思う。当然、ジュニアが存在する意味は大きいから、口が堅く、ある程度まで人生経験を積んだ女性が選ばれただろう。年齢の意味ではなく、社会革命クラブに貢献してきた、経験深い女だ」

 フリオがエヴァに、声を掛けた。

「社会革命クラブの女たちの情報は、すっかり頭に入っているだろう? 誰か、心当たりはないか?」

 エヴァは口元に手を当て、少し考えた。

「ルイスたち男が信頼を寄せていて、革命の申し子の世話を引き受けるような女ね……」

 その時、ミランダが口を開いた。

「アニータ・ハウアーは、どうでしょう?」

 エヴァが、ぽんと手を叩いた。

「アニータね! 大いにあり得るわ」

 エヴァは事情を知らない他の人間に、説明を始めた。

「ミランダは長いことルイスの側にいたから、周辺の人間を良く知っているのよ。アニータは、議会で言えば、書記のような存在ね。ほとんどのスピーチはホアンが考えてきたけれど、ルイスもホアンの原稿に口を出したくなる時があるの。そんな時、原稿をタイプし直す作業を、一手に引き受けていたわ」

 フリオが、ヒューと口笛を吹いた。

「凄い女だな。この国には、まだまだ字の読み書きができない人間が多いのに。ある程度の教育を受けた女だな」

「マリアほどじゃないけれど、家は裕福なほうだったはずよ。政治についても、よくわかる女だった。アンティルの未来を、純粋に考えているはずよ」

 マリアが身を乗り出した。

「私たちの仲間には、なってくれそう?」

 狂信的なルイス信者なら、無理な話だろう。また、ルイスに女として愛されたいと願望を持っていたら、仲間には絶対なってくれないだろう。

 問題は、ジュニアをマリアが奪還に行った時、何が一番、この国と国民の平和のためになるか、冷静に考えられる女かどうか、だった。

 マリアの神秘性を利用するだけ利用して、離れていきそうになったら、子供を攫う。こんな卑劣な真似をする人間が、国の長として相応しいか、考える頭脳を持っていて欲しい。

 ミランダがマリアの問いに答えた。

「しっかりした考えの持ち主です。ルイスの言葉だけ、無条件に信じるような頭の人ではないはずです。ジュニアを今、託されているのなら、誠心誠意、世話を務めるでしょう」

 マリアは不安な思いで尋ねた。

「私が求めたら、素直にジュニアを返してくれるかしら?」

 エヴァが躊躇いがちに応じた。

「どうだろう……そうあって欲しいと思うけれど。ミランダ、どう思う?」

 ミランダも考え込んだ。

「そうですね。子供を産んだ経験のない女性ですから、母親の身を切られる思いを、わかってくれるかどうか……。でも、他の女たちよりは、マシだと思います。説得するだけの価値はある人です」

 今度は、フリオが割って入った。

「大事な問題だ。希望的観測は捨てたほうがいいぞ。要は、素直に返してくれるか、武器で脅す必要があるか、なんだ」

 ホアンが、フリオに同調した。

「そうだな。ミランダとマリア二人で潜入した場合、少なくとも一人は、いざとなったら武器で脅す覚悟も必要だ。マリア、ミランダ、銃を扱った経験はあるか?」

 マリアもミランダも、首を横に振った。すかさずエヴァが、口を出した。

「私が教えてあげるわ。拳銃も、私のを持っていけばいい。軽いし、足首に装着すれば、目立たないの」

 マリアは、なんとも不安だった。

「下手に拳銃など持っていて、身体検査で発見されたら、ジュニアの側に近づく真似は、できないわ」

 エヴァが、ぽんと頭を叩いた。

「そっか。確かに、その危険性はあるわね」

 するとフリオが声を上げた。

「銃に関しては、僕が持っていこう。ジュニアのすぐ側まで、僕も行けるかどうかはわからないが、身体検査を二人が潜り抜けたら、その時に銃を渡す」

 どうやら、隠れ家にフリオ、マリア、ミランダの三人で入り込む展開になりそうだ。どこまで三人の体制で進入できるかが鍵だ。

「問題は、どういう名目で入り込むか、よね」

 さすがに、この作戦には、皆が頭を捻った。ホアンが難しい顔をする。

「乳母に雇われたと言って近づいても、側にテレサがいるんじゃ、すぐ嘘とばれるな」

 エヴァも同じ思いだったようだ。

「もう、乳母役は、アニータに決められているでしょう。志願して来たっていう口実は、どう?」

 ミランダが控えめに発言した。

「テレサとルイスがジュニアを誘拐した情報を、どこで知ったのか、と、問い詰められるだけだと思います」

 エヴァは大きく息を吐き、背凭れに体を預けた。

「やれやれ、これまでは、ルイスの側に女はごまんと押し寄せたのに、今ではテレサが、一人一人、厳重に審査しているわけね。自分一人が寵愛を受けて、さぞ楽しいでしょうね!」

 マリアは、ふと思い立って、口を開いた。

「ルイスやテレサに会うためでなく、直接アニータを訪ねて来たと告げてみたら、どうかしら? 私たちはアニータがジュニアのお世話係をしているなんて、知らず、アニータの所在を追ってきたら、ここに辿り着いた、みたいに」

 ミランダも、マリアに賛成した。

「それがいいかもしれません。たまたま、私の連れは子供をあやす真似が上手く、私が育児をしていた時も、お世話になった、なんて話をしてみたら、アニータもジュニアをサンタ・マリアに抱かせてくれるかもしれません」

 フリオも、うんうんと頷いた。

「なんたって、実の母なんだから、抱っこされたら、一番よく落ち着くだろう。でも、ルイスがその様子を見て、黒髪の女性がマリアだと気づく懸念は、ないかな?」

 マリアは真っ直ぐ、ホアンに顔を向けた。

「ねえ、ホアン、初めて見た時、私が誰だか、わかった?」

「いいや、ぜんぜん。だって、醸し出す雰囲気が全然、違うんだから。いつもは美しいミルク色に見える肌も、深紅の口紅と黒髪のせいで、酷く青白く映るよ」

 フリオも、間抜けに口を開けながら、変装したマリアを見ていた。

「これまでのマリアが、聖母マリアだとするなら、さしずめ今のマリアは、マグダラのマリアだな。売春婦だったが、イエスの力で改心し、最後まで共に過ごした女性だ」

 エヴァが、なぜか不機嫌になった。

「売春婦、っていうくだりは、福音書を書いた奴らの捏造だと、私は勝手に思ってるんだけどね。マグダラのマリアはイエスの復活を見届けた、重要な聖人よ。きっと頭も良く、思い切りのいい女性だったんだと思う。確かに今のマリアは、そういった雰囲気があるわね」

 マリアは、にっこり笑った。

「よかった。私を見て、もう誰も聖母マリアだとは思わないわけね。なんだか、重たい鎧を脱ぎ去った時のように、いい気分だわ」

「サンタ・マリアと私が、ルイスやテレサの目の前を通らず、直接アニータに会えたなら、ジュニア奪還の希望は大きくなるでしょう。でも、私には、別の心配もあります」

 マリアは、ぽかんとして、ミランダを見た。

「どういう意味?」

「ルイスが、サンタ・マリアだと知らず、別の魅力的な女だと思い込み、誘惑してくる危険性があります」

 マリアを含め、他の四人は失笑した。エヴァがゲホゲホと咽せながら、コップの水を飲んだ。

「それは、見物だわねえ! ルイスが一段と、間抜けに見えるわよ」

「もし、そうなったら、ミランダ、あとで僕たちに、こっそり教えてくれよ」

 釣られて笑っていたミランダが、ホアンの頼みになんとか「はい」と答えた。

 マリアは複雑な気分になった。今のルイスが、同志たちからどういう目で見られているか、まざまざと思い知らされた。

 糟糠の妻、サンタ・マリアを捨て、愛人に聖なる冠を被せ、悦に入っている裸の王さまだ。

 こんなはずじゃなかった。ルイスが革命に命を懸けている事実は、今も変わらないのに。ちょっと別の女に鼻の下を伸ばしただけで、革命家ルイス・ウールデンの評判は、すっかり悪くなった。

 ルイスも堕ちたものだと、マリアは勝手に考えていた。ところが、周りの大多数の人間も、同じ考えだったとは! このまま、ルイス、テレサ体制で、革命は成功するのだろうか?

 亡命を強く決意した今も、アンティルの今後は心配だ。でも、このままマリアが居続けても、アンティルの未来は変わらない。

 ジュニアのためにも、ホアンとの新しい生活に一歩を踏み出すためにも、亡命は必要な道だった。

 ジュニアを奪還したら、その足でホアンと共に、メキシコ大使館に駆け込む予定だ。亡命が認められれば、ルイスと話をする機会は、ほぼ永遠に失われるだろう。

 ルイスの革命が成功し、政情が安定するまで、アンティルに足を踏み入れる真似は絶対できない。

 こんな状況で、マリアはルイスのすぐ間近まで潜り込む。ルイスと一言も言葉を交わさないまま、ジュニアだけを連れ出していいものなのか?

 一度は心から愛した男だ。マリアの人生を、大きく変えてくれた人でもある。

 ルイスと出会わなかったら、マリアはずっと、金持ちのお人形さんとして、家族やアメリカ社会に利用されるままだったろう。

 別に、お礼を言いたいわけではない。かといって、捨てられ、子を奪われかけたからと、罵詈雑言を浴びせたいわけでもない。

 今、捨てられた妻の立場で告げたい思いがあるとするなら――。

 ――「どうか出会った頃の、雄々しきあなたのままでいてください……」――だった。

 ジュニアがある程度まで事情をわかる年齢になったら、ルイスが父親だと教えてやりたい。誰よりも強く、逞しく、同志たちに慕われていた、と。

 ホアンも許してくれるだろう。

 フリオが音を立てて、椅子を引き、立ち上がった。

「じゃあ、さっそく、マグリトラーン・スモール・アパートメンツを偵察してくるよ。今、ルイスやテレサに顔を見られて良い人間は、僕だけだものな」

「じゃあ、私たち女性陣は、マリアの変装の仕上げをするわ」

 エヴァの声に、マリアは我に返った。

「仕上げって……これで充分ではないかしら」

 エヴァが、ちっちっちと舌を鳴らし、人差し指を立てた。

「首から下が、まだ聖母マリアなのよ。大人し過ぎ。もう少し妖艶な女になるために、私の服を貸すわ。今どきの女なんだから、もっと脚を見せないと駄目よ」

 ミランダが真顔で、マリアを見つめた。

「サンタ・マリア、命に替えても、お守りします。母と子が永遠に引き離されるなんて苦しみは、私たち親子で、たくさんです」

 マリアは感謝の思いで、ミランダの手を取った。

「ありがとう、ミランダ。頼りにしてるわ」


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