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南国のマリア  作者: 霧島勇馬
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第七章 聖女、再び

  第七章 聖女、再び

《グアダルーペ》の店内は、騒然となった。

「テレサ、生きていたのか!」

「どうやって、生き延びて、ここまで来たんだ?」

 テレサはもう、黒を身に纏ってはいなかった。黒地に赤の小花柄のワンピースに、黒髪は後ろで夜会巻きのように纏めていた。

 群れる男たちをすり抜け、前に出ると、まるで女優のように手を広げてお辞儀をしてみせた。

「ご無沙汰しております。ルイスに、サンタ・マリア。恥ずかしくも、戻ってまいりました」

 ルイスが目を見開き、食い入るようにテレサを見ていた。マリアは、すぐに理解した。これは、恋する男の目だ、と。

「テレサ、お前は拘留中に自殺したと世間では思われているが。いったいどうやって生き延びたんだ?」

「生き残った結果は、私には不本意でした。牢獄で、スカーフで首を括ったのですが、仮死状態で下ろされ、うらびれた病院に放置されました。たまたま、私の処分を担当した医者が、社会革命クラブの意思に賛同していて、生き返った私を、しばらく匿ってくれたのです」

 ルイスは目を潤ませ、テレサの手を取った。

「テレサ、よく戻って来てくれた! 俺はてっきり、お前を失ったかと落胆していた」

「あなたの恩赦を知り、矢も楯もたまらず、こうして参った次第です」

 テレサは涙を流し、握ったルイスの手を頬に当てた。

 同志たちも、すっかりお祭り気分だった。

「ルイス! テレサが帰ってきたお祝いをしましょう!」

「テレサこそ、聖なる革命のトップに立つ人間だ! 今日この日は後々の歴史で、革命の夜明けだと語られるだろう」

 マリアはエヴァと、顔を見合わせた。エヴァも、マリア同様、喜んではいなかった。スパイ疑惑を掛けるも、裁判の前に自害した。だから、なんだか立場がない気分だった。

 ――大丈夫、大丈夫。テレサに直接、スパイ疑惑の疑問をぶつけたわけじゃないんだから。

 テレサをスパイと誤解していた人間は、マリアとエヴァの二人だけだ。沈黙は金。エヴァが「了解」と目で頷いた。

 挨拶しようにも、ルイスがずっとテレサを独占していた。感動に声を震わせ、今にも抱き締めようとするかのようだ。

 マリアは、はっきりと思い知った。ルイスは、テレサに夢中だ。一度は死して、聖女になったテレサが、イエス・キリストのように、復活した。こんなに神秘的で神々しい話はないだろう。

 マリアなんて、所詮、名前だけで聖女に祭り上げられた。テレサの登場により、すっかりメッキが剥がれた感がある。

 浮かれた同志の一人が、椅子に座ったまま、エヴァとマリアに尊大な声をかけた。

「酒だ、酒だ! 酒を持ってこい!」

 マリアは思わず、ムッとした。いつの間にエヴァとマリアは、同志ではなく、ただの女給に成り下がったのか!

 エヴァも同じ思いだったらしく、胸の前で腕を組み、腰をカウンターに預けた。

「飲みたい人間がいるなら、自分でやりなさいよ。今は会議中であって、営業中ではないのよ」

 するとテレサが、すっと立ち上がった。

「給仕なら、私がやります。私をまた、こうして、温かく迎え入れてくれた同志たちに、お礼をしたいんです」

 エヴァが頭の横で、パッと手を開き、お手上げのポーズを取った。

「まあまあ、さすがはサンタテレサだわね。ご立派だわぁ」

「とんでもありません。我々の手にアンティルを取り戻すまで、皆さんと一致団結してやっていきたいだけですわ」

 テレサは静かに立ち上がり、カウンター奥で酒の準備を始めた。嫌な女、実に嫌な女だ!

 酒が入った同志の一人が、テレサに意見を求めた。

「なあ、テレサ、ルイスが家族を連れて、亡命するって話が出ているんだけど、君はどう思う?」

 テレサはハイボールのグラスに、そっと口を付けた。

「まあ! 革命のシンボルが、こぞってアンティルを捨てるの? それは、あまりに酷い話だわ」

「でも、既にルイスは暗殺未遂に遭っている。このままアンティルに残ったら、我々はカリスマ的リーダーを失う結果になるんだ」

 マリーは隣のテーブルに着き、テレサたちの話に聞き耳を立てていた。

 ――そうよ、そうよ。このまま残って、むざむざ殺されるわけには、断固いかないわ。

 テレサの優しげな声が、途端に刺々しくなった。

「冗談じゃないわ! ルイスがアンティルからいなくなるなんて! 私たちは誰を崇めて、活動を続けたらいいの?」

 横のルイスが、テレサに悩みをぶつけた。

「俺も、迷っているんだ。同志たちの意見が、真っ二つに割れている。ジュニアを残して欲しいなんて話は、論外だ。腹違いの子、アダムが殺されたばかりだし、気が抜けない。せめてマリアだけでもの声は、マリアが拒絶している。テレサ、君ならどう考える?」

 テレサは、控えめな、しかし断固とした口調で応えた。

「あなたは、このまま残るべきです」

 すると、向かいの席にいた男が、反論した。

「この前、肩を撃たれたばかりなんだぞ。今度は心臓を打ち抜かれるかもしれない。ルイスが凶弾に倒れたら、社会革命クラブは、空中分解する」

 テレサは、納得したかのような顔で、深く頷いた。

「でも、暗殺を恐れていたら、本当に何もできなくなります。ルイスはこれまで、無防備ではありませんでしたか? 集会を開いたり、演説をしたりは、一切、止めるべきです」

 男は「なるほどな」と鼻の下を掻いた。

「それから、ルイスの所在は、ほんの一部の人間だけしか、知らせない必要があります。どこにスパイが隠れているかもわからないですから」

「じゃあ、《グアダルーペ》で暢気に酒を飲んでいるわけにはいかないな」

「そうですよ。ルイスの言葉は常に伝言として、同志に伝える必要があります。ルイスの顔が見えなくても、指示に従うよう、言い聞かせなければいけません。もちろん、サンタ・マリアと起居を共にしてなんて、いられません。危険過ぎます」

 言わせておけば、勝手な話ばかりして! マリアは思わず、立ち上がった。

「私たちは夫婦なのよ! 一緒に暮らして、何が悪いのよ! それに、亡命してはいけない、なんて話も解せないわ。ルイスはこんなにも危機の只中にいるっていうのに!」

 テレサは、真っ直ぐにマリアを見たまま、厳かに告げた。

「……殉教は時に、想像を絶するエネルギーと団結力を生みます」

「なんですって?」

 信じられない言葉だった。同志のやる気を起こさせるために、ルイスが死ねばいいと言うのか!

 マリアは思いきり、テレサの頬を引っぱたいた。

「なんてこと、言うのよ! 私たちの大事なルイスを、そんな形で利用しようというの?」

 二人の間に、ルイスが割って入った。

「マリア、止めろ。テレサの意見も、もっともなんだ」

「じゃあ、あなたは、革命に殉じるつもりなの?」

「俺は、死なない。絶対に、な。これまでも、俺を煙たがっている人間も、暗殺しようとする人間もいた。でも、こうして生きながらえている。テレサの提案通り、身を隠しながら、本格的に革命の準備をする」

 ルイスは皆に聞こえるよう、大きな声で叫んだ。

「一年後、俺たちの政権が誕生するだろう! 俺が約束する。一年以内に革命を起こすと!」

 会合はお開きになり、後片付けをしていたマリアとエヴァが、店内に残った。エヴァはテーブル周りの掃除を終えると、グラスを二つと、ウォッカの瓶を出してきた。

「この際だから、飲みましょう。給仕に忙しくて、ぜんぜん飲めなかったもの」

 マリアは大して飲みたい気分でもなかったが、「そうね」とエヴァの向かいに座った。

 エヴァがグラスに入った酒を、一気に飲み干した。

「サンタ・テレサの第二幕の始まりだわね」

 マリアは意味がわからず、問いかけた。

「どういう意味?」

「あの女、最初は黒衣で現れたわ。お洒落も全然しないでね。もっとも、禁欲的なあの姿に、男たちのほとんどが参ったようだけれど。一度は死んで、生き返って帰ってきたら、花柄のワンピースに紅い口紅なんだもの。これでもかっていうくらい、女になって戻ってきたわ」

 確かに、これまではテレサは、聖女と謳われてきたが、美貌を褒め讃えられはしなかった。

 しかし、今夜のテレサは美しかった。黒い瞳を縁取るたわわな睫には、マスカラがたっぷりと塗られていた。浅黒い素肌を、ワントーン明るいファンデーションで覆い隠し、紅い口紅が艶やかだった。

 でも、第二幕の始まりとは――。エヴァは、フンと鼻を鳴らした。

「私は端から、テレサなんて信用していないもの」

「まさか、まだスパイだと疑っているの?」

「スパイとまでは言わないわ。けれど、あんたからルイスを奪う気は満々なのじゃないかしらね」

 マリアは思わず、失笑した。

「まさか! テレサは本気で国を憂えているわ。それが確かだから、皆、惹かれるのよ」

 エヴァは呆れ顔で、眉尻を下げた。

「あーあ、サンタ・マリアまで、テレサに骨抜きにされたなんて。ほんと、恐ろしい女だわ。せっかくルイスが亡命する気になったのに、テレサの出現で計画は、お釈迦になったのよ。マリア、それでもいいの?」

 確かに困った事態になった。

 ルイスやマリアたち大人が暗殺の危機に遭う点は、仕方がない。大人だし、自分たちの判断で、アンティルに残るからだ。でも、ジュニアは違う。親の主義主張のために、命を狙われる。

 そもそも、ルイスが革命の申し子だと、ジュニアを宣伝に使ったやり方が不味かった。マリアはルイスの命以上に、ジュニアが無事な道を歩める亡命に懸けていた。それなのに、テレサが現れ、台無しにされた。

 ルイスはさっそくテレサを連れ、雲隠れしてしまった。いったいこれから先、どうなるのだろう?

「……私は、ジュニアを守りたい。ルイスの子だというだけで、暗殺の対象になるアンティルに、いちゃいけないのよ」

 ただ、訴えるべき相手が、どこにいるかさえ、わからなくなった。マリアは明日からの不安に怯え、両腕で自分の体を抱いた。

 充分な睡眠も摂れないまま、朝になった。マリアはジュニアが熟睡している様子を確かめると、階下に下りた。エヴァの他、ホアンとフリオがいた。

 マリアが階段を下りると、ホアンが一歩、近づいた。

「エヴァから聞いたよ。大変な事態になったな」

 ホアンは夕べの会合に出ていなかった。朝になり、エヴァから全てを伝えられ、酷く困惑している様子だった。フリオも悔しそうに呟いた。

「あの場にホアンがいてくれたら、まだルイスの気も変わったかもしれないんだ」

「そうかな。僕にそんな発言力は、ないと思うけど」

「お前の提言はあまり聞かないけれど、マリアとの仲を引き裂くには、亡命が一番だろう」

 ホアンは天井を向き、額に手を当てた。

「まだ、そんな噂が流れているのか。それどころじゃないってのに」

 エヴァが腰に手を当て、重心の位置を変えた。

「今からでも遅くないわ。ホアンが直接、ルイスと会う真似はできないの?」

 フリオがお手上げの表情で、掌を上にした。

「じゃあ、どこにいるか、教えてくれよ。テレサと共に、雲隠れしちまったじゃないか」

「妻であるマリアにも居所を知らせないなんて、テレサも徹底してるわね」

 確かに、亡命せずにアンティルに残る道は、死の危険との戦いだ。以前にも、マリアがルイスの居所を把握できない事態も起きていた。

 そこで、ハッとした。以前、ルイスと連絡が取れなくなった時も、テレサ絡みだったはずだ。

 マリアとエヴァがテレサをスパイだと疑い、ルイスにラジオ局襲撃を止めてもらおうと思った時だ。

 結局、最後まで連絡が取れず、ルイスは捕まり、投獄された。もっとも、この時はテレサは死亡したとされ、嫌疑は晴れたのだが。

「テレサは私から、本気でルイスを奪いたいのかもしれないわ」

 エヴァが顔を近づけてきた。

「それで、どうする?」

 ここで決意しなければいけないのかもしれない。ルイスの心は、既にテレサにある。マリアは遂に、二番目の女に成り下がった。

 二番目になったら、ルイスの下を去ると決めていた。だが、今はジュニアも生まれた。決意した当初とは状況が違う。でも……。

「……ルイスと別れる覚悟を、しなければならないわ」

 フリオが驚きに声を上げた。

「別れるだって? ジュニアはどうするのさ!」

「もちろん、私と一緒よ。勝手に好きな女と、ふらりといなくなるんだもの。ジュニアの父親として、失格だわ」

 今は、マリアのこの決心も、ルイスには届かない。でも、同志たちの噂になれば、ルイスの耳にも届くだろう。

 マリアの決意を知り、ルイスがどう反応するか。今は待ちの姿勢でいるしかない。

 一縷の望みもあった。ジュニアをだしに使ったら、テレサを捨て、マリアとジュニアの下に戻ってきてくれるかもしれない、と。マリアは祈る気持ちで、目を閉じた。

 ――ルイス、お願いよ。私たちの下に戻ってきて! あなたと生きる覚悟を、捨てさせないでちょうだい!  

 不安な思いは極限に達し、今にもおかしくなりそうだった。

 マリアは遂に、封印していた扉を開ける決意をした。《グアダルーペ》の中庭。星空が輝く、ホアンと二人だけのプラネタリウム。

 もちろん、予感はあった。一縷の望み、と言ったほうがいいかもしれない。扉を開けたら、ホアンが土管の上に座って、マリアを待っていてくれないか、と。

 まだ日も高く、《グアダルーペ》の店内には、エヴァ以外の誰もいなかった。エヴァが同志に密告する心配だけは、とりあえず、ない。

 マリアは祈る思いで、中庭に続く扉を押し開けた。

 果たして、ホアンはマリアを待っていた。土管には座らず、中庭の奥で、扉に向かって立っていた。

 マリアを見ると、いつもの優しい笑顔で、にっこりと笑った。マリアはもう、我慢ができなかった。なんと非難されてもいい。噂を恐れるホアンに突き放されてもいい。

 マリアはホアンの胸に、飛び込んだ。ホアンはマリアを突き放したりはしなかった。マリアの背中を抱き、そっと撫でてくれた。

 しばらく無言で、二人は抱き合っていた。激しい欲望を懸命に抑え、ただ、温もりを感じるだけで、我慢した。

 ホアンとキスしたからって、いや、それ以上の関係になったからって、ルイスに批判する権利はない。でも、ホアンの優しい心が傷つくような言葉は、必ず掛けてくるだろう。

 既にホアンは、充分に罪悪感を覚えているだろう。

「ホアン……ごめんなさい。あなたの気持ちに頼ったりして」

「いいんだよ。何もできず、歯痒いくらいだ」

 マリアはホアンの胸で、涙を拭った。

 いくらマリアが願ったからといって、ルイスと別れられるわけがない。ルイスの性格からして、マリアを一番に感じられなくなったからといって、手放す気など、起きないだろう。

 テレサが一番。でも、二番目のマリアも、ルイスのものだ。何より、建前上は、ルイスが崇める存在はサンタ・マリア一人だ。革命の申し子、ジュニアもいる。

「私、どうしたらいいのか、わからない……」

「そうだね。僕も、混乱している。ルイスからさっき、封書が届いたんだ」

 マリアは意外な思いで、顔を上げた。

「何が入っていたの?」

 ホアンが言いにくそうに、口を開いた。

「本来なら、君とジュニアの聖母子の写真と、宣伝文句が記された文書が入っているはずだった。でも……写真は、テレサのものだった」

「なんですって!」

「ルイからの走り書きで、サンタ・テレサの名を、あちこちの新聞に売り込め、と指示があった。新聞社が一社も取り上げなかったら、ガリ版刷りで、開かれている集会で配れ、とね」

 マリアの心に、ふつふつと怒りが湧き上がった。まさか、そこまで蔑ろにされるとは、思わなかった。もう二番手の存在でさえ、ない。ルイスは完全にマリアを無視している!

 マリアはホアンの胸にしがみつき、顔を上に向けた。

「……ホアン、キスして」

「駄目だ」

「なぜよ! ルイスはもう私なんて、どうでもいいのよ! だったら私も、気持ちのままに動くわ」

 ホアンはマリアの体を突き放した。

「君とルイスは、それでもいいだろう。でも、サンタ・マリアに望みを懸けている民衆の気持ちは、どうなる? マリア、君の人生はもう、君だけのものではないんだ。君は、革命を望む底辺の人間たちの、最後の希望の光なんだよ!」

 マリアは拳を握り、何度も振り下ろした。

「わかったわ! あなたは私のこと、そんなに好きじゃなかったのね! 私一人が勝手に、好かれていると思い込んでいたんだわ! なんて馬鹿な女なのかしら!」

 するとホアンが大声で叫んだ。

「好きに決まっているだろうが! 気が狂いそうなくらい好きだ!」

 はぁっと思いを吐き出すように、熱い息を吐いた。

 マリアは、ぽかんと口を開け、ホアンを見つめた。

「ほんと? 本当に私が、そんなにも好きなの?」

「初めて会ったときから、ずっと好きだった。ルイスに先を越されなければ、僕がアタック懸けてたよ。でも、ルイスのように押しが強くないから、振られる公算は高かったけどね」

 確かに出会った当初、ホアンたちはマリアとは別の世界の住人だった。軽蔑こそしなかったが、眼中になかったのは、確かだろう。

 ホアンがマリアの手をそっと取り、頬に当てた。

「君が、アンティルのサンタ・マリアではなくなった時、改めて愛の告白をするつもりだった。もちろん、ルイスとも戦うつもりだった。だって、君がサンタ・マリアじゃなくなるとは、つまり、ルイスに蔑ろにされる意味だからね」

「私など、ルイスはもう興味はないのではないかしら」

 ホアンは無念そうに、呟いた。

「君は、革命のシンボル、ルイス・ウールデン・ジュニアの生みの母だ。ルイスが手放したり、しないだろう」

「そんな……私の気持ちは、どうなるの? あなたの気持ちもどうなるの? 愛し合っていながら、結ばれる道も選べず、ただ同志として一緒にいろと言うの?」

 ホアンは、そっとマリアの手を離した。

「男として、不甲斐なさを感じるよ。今は、僕の気持ちを優先させる真似は、できない。長いこと、アンティルの未来のため戦ってきた。ここで、君との愛だけに夢中になっているわけにはいかないんだ」

 マリアは複雑な気持ちだった。今、ホアンと結ばれるわけにはいかない。でも、ホアンもマリアを好いてくれている心情は、よくわかった。

 ルイスはマリアとジュニアの聖母子像の代わりに、聖テレサの宣伝をしようとしている。この際だから、サンタ・マリアの座に、テレサが座ってくれてもいい。

 マリアの目から、大粒の涙が零れた。掌で拭っても、また落ちてくる。

 事態が変化する見通しは、あるのだろうか? ルイスに首輪を付けられ、大人しくすぐ横を歩いてきたけれど……。

 いつの間にか、新しいアンティルのための殉教者になっていた。でも、一つ一つの行動の全てが、自分で決めたことだった。

 マリアは悔しさに顔を顰め、涙が流れるまま、立ち尽くした。

 ――革命が成功するまで、辛抱するしかないなんて。

 一年後、ルイスの政権が樹立される。今は、その目標が現実になる日を信じるしかなかった。

 翌日の新聞『ワラハイド』は、危険な報道を決断した。ルイスたち社会革命クラブの宣伝ともとれる記事を掲載したからだ。

サンタテレサの降臨! ラジオ局襲撃の首謀者は、黒衣の聖女だった」

『ワラハイド』はテレサの簡単な略歴と、ラジオ局襲撃までの経緯を伝えた。〝首謀者〟の部分を〝功労者〟としてもおかしくないくらい、アンティルの未亡人テレサを褒め称えていた。

「復活したサンタ・テレサの行方は現在、ルイスと同様、不明である。しかし、二人の活動情報は、我が社が察知し次第、大きく扱っていく覚悟である」

 その他、あちこちで開かれていた反政府集会に、ホアンが刷ったガリ版印刷によるサンタ・テレサの広告が広く、ばら撒かれた。

 ルイスはサンタ・マリアに傅く真似を止めたのか? 社会革命クラブの信望者たちは、大いに戸惑っている様子だった。

 我々はどっちを崇めたらいいのか? ルイスの妻、サンタ・マリアか? それとも、アンティルの未来を憂えた未亡人、サンタ・テレサか?

「どうやらルイスは、サンタ・テレサと行動を共にしているらしいぞ」

「やはり、実際に共に戦う戦士が、ルイスには必要だったのではないか?」

「確かに、サンタ・マリアは社会革命クラブの一員として、特になんの活動もやっていないしな」

 女性の中には、「子供を産むだけでも大変な仕事なのよ!」と声も上がった。しかし、軍の暴力に立ち向かい、デモや集会を行う男たちは、あまりマリアの功績を認めようとしなかった。

 ただの象徴を崇めるより、銃を持ち、共に戦う女戦士のほうが、だんぜん歓迎された。

 世の中に流れる声は、マリアの下にも届く。ジュニアが三ヶ月になり、どんどん育児が大変になってきている時だったので、ショックは大きかった。

 ――私は、ただ産んで、育てるだけ。ジュニアは製品の一つとして考えられているんだわ。

 ある程度、マリアが育て、新たな象徴として完成品になったら、ルイスに奪われるのではないか? それが、今の一番の恐怖だった。

 エヴァなどは、すっかり、やる気を失っていた。それも納得だ。

 そもそも、社会革命クラブで最初に女戦士となった人間は、エヴァだった。男たちに混じって、泥にまみれ、汗を掻き、体力が続く限り頑張ってきた。

 それを、ラジオ局襲撃に加わったからと、女戦士の肩書きを、テレサがエヴァから奪った。

 エヴァは《グアダルーペ》の店内で、椅子に座り、脚をテーブルに投げ出した。

「やってられないわよ! ろくに銃の扱い方も知らないだろうに、女戦士だなんて持ち上げられてさ!」

 マリアはなんとかジュニアに眠ってもらおうと、先程から抱っこして、ゆっくりと揺らしていた。

「そういえば、最近は全然、武装訓練に参加していないわね。皆、クーデターに向けて、厳しい訓練を続けているのでしょう?」

 エヴァは頭の後ろに両手を当て、ふぅっと息を吐いた。

「ルイスのためだったら、何でもやる覚悟だったのよ。従いていくだけの価値ある男だと思ってた。でも、今の状況では、共に戦う気はしないわね」

 エヴァの気持ちは、よくわかった。マリアから他の女に心変わりするにしても、エヴァを蔑ろにし過ぎだろう。

 そんな時だった。罪の街から比較的近い場所で、ゲリラ集会が開かれる情報を得た。エヴァがマリアを誘った。

「ねえ、マリア、一緒に行ってみない? 今の社会革命クラブの意識がどれほどのものか、同志に紛れれば、わかるわよ」

 なるほど、名案かもしれない。ジュニアは産婆のイリーナに預かってもらえれば、マリアも自由が利く。

「そうね。一度、皆の空気を肌で感じる必要は、あるかもしれないわ」

 こうしてマリアとエヴァは、軽く変装をして、集会に参加することにした。

 集会は、社会革命クラブに密かに出資しているマグダレン・カンパニーが所有する美術館の地下で行われる。

 ジュニアと別れる機会は初めてだったので、マリアは最初から少し憂鬱な気分だった。

 エヴァが長い黒髪をすっぽりと帽子に隠し、マリアは、いつものように、ヴェールを頭から顔を隠すように巻いた。

 美術館の地下とあって冷やりしているかと思ったが、集まった男たちの熱気で、むんむんしていた。

 女性の参加者は、マリアの位置からは見当たらなかった。

 やがて、壇上にスポットライトが当たり、いつも司会をしているヘンドリックがマイクを握って現れた。パチパチと拍手が湧き起こる。

「同志諸君、今宵、我らがサンタ・テレサが来臨された! さあ、拍手で迎えよう!」

 今度は、先程とは比較にならない大きな拍手と唸り声が湧き起こった。テレサが登場した。その身なりにマリアは仰天した。

 黒い肩までの髪を下ろし、緩やかなウェーブを掛けていた。なんと、耳に紅い薔薇の花まで挿していた。ゆったりした丈の長いワンピースは高級なタフタ地で、金色に輝いていた。

 まさに、似非聖女さまの登場だ。

 マリアたち、上流階級の人間は、決してこんな、あざとい悪趣味な装いはしない。成り上がり者が、精一杯、自分を高貴に見せようと着飾った結果だった。

 マリアは正直、ホッとした。壇上のテレサに、聖なる神々しさは欠片も見えない。

 エヴァが小声で呟いた。

「あらあら、随分とおめかしして来たじゃないのさ」

 マリアは得意な思いで、エヴァに応えた。

「あんなの、おめかしじゃないわ。高級に見せようと、趣味の悪い取り合わせになっているだけだわ」

 エヴァが意外そうに、眉尻を下げた。

「あんたが人の悪口を言うの、初めて聞いたわ」

 ここは気取ってなんかいられない。

「だって、腹が立つんですもの。ほんと、嫌な女だわ!」

 そのとき、周囲から「サンタ・テレサ、サンタ・テレサ!」の呼び声が上がり、どんどん大きくなった。

「サンタ・テレサ! サンタ・テレサ! サンタ・テレサ!」

 テレサは満足そうな笑顔で、手を上げながら、シュプレヒコールに応えていた。

「人民よ! アンティルを憂う者たちよ! 革命の準備は整ってきた! あと六ヶ月、待って欲しい。ルイスは立ち上がる! 我々のために! 革命のために!」

 まるで神のご神託のように、威厳ある声で演説を始めた。

 群衆は静まり返り、テレサの言葉に聞き入っていた。胸に手を当てる者がいれば、うっすらと涙を浮かべる者までいる。

 なんというカリスマ性だろうか。本来、ルイスの側にはテレサのような女性がいるべきだった。マリアは、ようやく気づいた。

 ルイスにとって二番目になっただけではない。同志たちにとっても、マリアは既に二番手に押しやられている。

 ――負けた……完全に私の負けだわ。私には、もはや、何の価値もない。


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