第六章 妻として、母として
第六章 妻として、母として
1
一九五〇年三月二十六日、ルイスは恩赦となり、サバ島から、首都ウィレムスタットがあるキュラソー島に帰ってきた。
一年三ヶ月ぶりに、妻マリアと再会した。カメラマンが大勢いる前で、ルイスは両腕を広げ、マリアを胸に抱いた。
「会いたかったぞ、マリア! 刑務所での禁欲生活は、まさに地獄だった」
情熱的なキスを受け、マリアも精一杯に応えた。
――やっぱりルイスが私の、唯一無二の人。もう、ホアンに対する気持ちは封印しなくちゃ。
報道陣が詰めかけ、しきりにルイスに声を掛けていた。
「ルイス、今の政府の方針には、引き続き反対するんですか?」
「あなたを支持してきた民衆は、反政府運動を続けて欲しいと願っているはずですが?」
ルイスはマリアを抱き、人混みを掻き分けながら、質問に答えた。
「今回の恩赦に関しては、政府に感謝している。これからは、政府の方針にむやみに楯突いたりせず、考えて行動しようと思う」
ルイスのことだから、外の世界に出て来たら、一発、演説をぶつのかと思っていた。いつもの〝ルイス劇場〟は展開されず、記者たちも拍子抜けした顔つきだった。
「そんな問題より今は、ずっと妻の肌の味を忘れていたってことなんだ! 俺はマリアを抱く以外、何も考えちゃいないのさ」
なんとか記事のネタが欲しい記者が、大声で呼び掛けた。
「お子さんとも初対面ですね!」
振り返り際に、大きく手を上げる。
「もちろんだ! 妻と子と三人で暮らす生活が一番さ!」
記者や野次馬が、ひそひそ話す声が聞こえる。
「ルイスは、どうしたんだ? 刑務所暮らしで、主義主張を捨てたのか?」
「俺たちは、ルイスが何かやってくれると期待して、恩赦の願いを出したんだぞ!」
「すっかり骨抜きになっちまったな。がっかりしたよ」
マリアも訝しい思いで、ルイスを見上げた。ルイスはさばさばしたような笑顔で、正面を向いて歩いている。
マリアは小声で、そっと囁き掛けた。
「ルイス、革命はどうなるの?」
ルイスが更に声を顰めた。
「これからは暗殺者たちとの戦いだ。活動が政府寄りになったと思わせなければ、お前も俺もジュニアも、すぐにでも殺される」
ホアンも言っていた。恩赦は、政府がルイスを暗殺しやすい状態にするためだ、と。
フリオが近づいてきて、ルイスに耳打ちした。
「車を用意した。追跡を捲いてから、《グアダルーペ》に帰ろう」
「わかった」
まずマリアを後部座席に押し込み、ルイスも続いた。フリオが助手席に座った途端、車はエンジンをふかして、全速力で走り出した。
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「ルイス、お帰りなさい!」
「待ってたぜ、ルイス!」
《グアダルーペ》には入りきらないほど、同志が集まっていた。エヴァがジュニアを抱っこして、ルイスの到着を待っていてくれた。
ルイスはマリアの腕を掴んだまま、エヴァの前まで進み出た。
「美しいな! 俺の子か!」
エヴァがにっこり笑い、ルイスにジュニアを手渡した。ルイスは慣れた手つきで、ジュニアを抱いた。
「この子のためにも、革命は成功させなくちゃいけないな」
いつまで経ってもホアンの話にならないので、マリアは焦れた。
「ねえ、ルイス。あなたの留守中、ずっとホアンが頑張ってくれていたのよ。お礼を言って」
同志の群衆に紛れていたホアンが、困った顔で手を横に振った。
「いいんだよ。とりあえず留守中は、なんとかした。あとはルイス、君が皆を引っ張っていってくれ」
ルイスはホアンがいる場所まで、スタスタと歩いていき、右手を差し出した。
「ホアン、ご苦労だった。今日からまた、以前通りの活動に戻ってくれ」
ホアンはホッとした様子で、笑顔を見せた。
マリアも安堵した。ルイスとホアンの仲は、以前のままだ。ホアンとの不倫疑惑など持ち上がって、一時はどうなるかと思ったが。
ルイスさえ、断固とした態度でいてくれたら、火のないところから立った煙なんて、すぐに消せる。
「みんな、聞いてくれ!」
ルイスの張りのある声を聞き、男たちは無駄話を止めた。
「記者たちには、もう政府に反旗を翻したりしない、などと俺らしくない台詞を吐いたが、本心ではない。今の俺に必要な問題は、いかに生き残るか、だ。革命の灯火を消さないまま、死なずに生き延びる。当面は、これが俺の目標になる。反論のある者は、遠慮なく言ってくれ」
皆、それぞれに顔を見合わせ、首を横に振った。キースが誇らしげに、ルイスの肩を叩いた。
「皆、心は一つだ。あなたに従いていく、それだけだ」
「そうか。わかってくれるか」
ルイスは満足げに頷いた。ジュニアをエヴァに返す。
「今宵はこれで、解散にしてくれ! 俺は一刻も早く、マリアと睦み合いたいんだ」
どっと笑いが起こった。マリアは顔から火が出る思いだった。
――嫌だわ、ルイスったら。わざわざ宣言する必要ないのに。
また階下で息を殺して、二人の愛の営みの声を聞く人間が現れるだろう。ルイスが煽っている気もする。
それでもマリアの心はときめいていた。ルイスばかりがマリアの肌を恋しがっていたわけではない。マリアの側にも、欲望はあった。裸の写真など送られてきたルイスに比べ、マリアはそれこそ、ルイスしか知らないのだから。
ルイスがマリアの肩を抱き寄せ、二階に上がろうとした、まさにそのとき、《グアダルーペ》の入口が騒然となった。女の声と、元気よくなく赤ん坊の声がする。
「お願い、通して! この子もルイスの子なのよ。なぜ、会わせちゃいけないの?」
ルイスが手を付けた女、ミランダだった。ミランダはマリアより三ヶ月早く、同じく男児を出産していた。
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マリアがミランダと顔を合わせたのは、今回が初めてだった。
初めて見る、ルイスの情婦は、浅黒い肌に黒い髪をした、現地人の血を濃く受け継ぐ女だった。腕の中にしっかりと抱かれていた子供の、太い眉と意志の強そうな目は、まさにルイスから授かった容貌だった。
ルイスは片眉を吊り上げ、迷惑そうにミランダを睨んだ。
「何しに来た? お前、自分の立場をわかっているのか?」
「あなたが釈放になったと聞いて、是非、息子に、アダムに会って欲しくて」
「そんなもの、ほとぼりが冷めたら会いに行くつもりだったさ。今日からの俺の行動は、アンティルの頂点に立つ人間として、試される日々なんだ。嫡子のジュニアの前に、庶子の子供がのこのこ出て来て、いいと思っているのか!」
ルイスは、周囲の人間にも噛みついた。
「ミランダの世話は、内々できちんとするように命じておいただろう! この大事な日に乱入する真似を、なぜさせた!」
「あなたの子なのよ! 抱っこぐらい、してくれてもいいじゃない!」
「お前の今の言い方で、すっかりその気がなくなったよ。とっとと帰れ!」
あまりの言い草に、マリアは黙っていられなかった。
「ルイス、アダムを抱っこしてあげて。ずっと父親がいなくて、寂しい日々だったのだと思うわ」
ルイスはぎろりと目を剥き、マリアを見た。
「俺のイメージ戦略が台無しになるじゃないか! 俺が傅くサンタ・マリア以外の女が産んだ子を抱くなんて、運が落ちるだろうが。お前だって、俺がジュニアより、この子供を大事にしたら、気分が悪いだろう」
さすがに否定はできなかった。ルイスの釈放を喜ぶ人間の前に、ミランダは現れるべきではなかった。それは重々わかるのだが……。
自分の身に置き換えた場合、放っておけなかった。
マリアは一歩前に進み出て、両腕を差し出した。
「アダムを抱っこさせてくれる?」
ミランダは驚いて口を開けたが、すぐに状況を理解した。
ルイスの正妻サンタ・マリアが、庶子のアダムを胸に抱く。アダムもサンタ・マリアの庇護の下に置かれる。これで、ルイスたち家族の一人として数えられるだろう。
「ど、どうぞ。利かん坊ですが……」
アダムはすんなりと、マリアの腕に抱かれた。ただ、「だー、だー!」と文句を言いながら、マリアの胸を叩く。あまり歓迎されてはいないようだ。
ホアンに諭されてから、他の女に無理に寛容になる必要はないと考えていた。
でも、ここは、マリアが大きな気持ちでいなければならない。生まれてきた子に、何の罪もないのだから。
辛抱強くあやすと、アダムもちらりと笑顔が見えた。これからどんどん笑うようになるだろう。
マリアはアダムをあやしながら、群衆の中にいるホアンと目を合わせた。
――これで、いいのよね?
ホアンは笑顔で頷いた。「これで、いいんだよ」――と。
4
久しぶりに夫と愛の営みを堪能し、目覚めた時間は午前九時を回っていた。横にルイスの姿はなかった。
もう、革命のための行動を開始したのだろうか? せわしない男だ。
マリアは身なりを軽く整えると、ベビーベッドに寝かされたジュニアに、乳をやった。
ジュニアのベッドの周りは、誕生を祝うプレゼントで溢れていた。誕生を望まれ、期待通りに美しく生まれてくれた息子。
庶子として生まれたアダムは、どんな生活をしているのだろう?
ふと我に返ると、ジュニアが焦点の合わない目を、こちらに向けていた。まるで、「これから、どうなるの?」とでも尋ねるかのように。
マリアは小さく笑って、ジュニアの頬にキスをした。
「そうね。どうなるのかしら。でも、私たちはルイスを信じて、歩いていくしかないわよね」
ジュニアを寝かしつけ、階下へ下りると、ホアンとエヴァがテーブルに着いて、何やら話し合っていた。
ホアンを見ると、なかなか平常心ではいられない。いろいろと余計な問題まで考えてしまう。
同志の中にはマリアとホアンの仲を誤解している人間がいる。マリアも、まだホアンを忘れられたとは言えなかった。
でも、いつものように堂々と、自然に振る舞わないと。
エヴァが先に気づき、声を掛けてきた。
「随分、遅いお目覚めね。昨夜は楽しんだみたいね」
ここは、さらっと受け流さないといけない。
「そうね、久しぶりだったから。それより、ルイスはどこへ行ったの?」
ホアンが意外そうに顔を上げた。
「何も聞いていないのかい? 僕らも知らないんだ」
エヴァが椅子の背に凭れ、脚を組み替えた。
「私は知ってるけどねえ。マリアは知らないほうがいいわよ」
「何よ、そんな言い方されたら、気になるわよ」
「ルイスを崇拝する女たちのところに、挨拶回りに行ったのよ」
崇拝する女たちって……。要するに、監獄時代にルイスに熱いファンレターを送った女たちに会っておこうというわけか。
「……裸の写真を送った女もいたしね。ルイスも忙しいこと!」
ホアンが困った顔で、エヴァを責めた。
「何もマリアに全部、真実を告げなくてもいいだろうが」
「適当にごまかせって意味? 私だったら、何でも知りたいと思うわよ。気を遣われて、自分だけ何も知らなかったなんて、後々になって怒りが湧いてくるわ」
ここはエヴァの言う通りだと感じた。
「そうね、エヴァの言う通りだわ。ルイスの性格も、もてるって事実も充分にわかっているんだから」
それでも心穏やかとはいかなかったので、流し台でコップに水を入れ、一気に飲み干した。
「ホアンは何してるの?」
ホアンはいつもの、屈託のない笑みを浮かべた。
「ルイスが釈放されたニュースを、なるべく多くの人に知ってもらいたくて、号外の素案を作っているところさ。『ワラハイド』紙が写真付きで載せてくれるというから、さっそく釈放直後のルイスとマリアのツーショットを焼いたんだ」
軍が政権を握るようになってから、新聞記事の検閲も厳しくなった。しかし今回の恩赦は政府が決めた問題だから、記事にしても支障はないのだろう。
エヴァが立ち上がり、冷蔵庫から自分の分だけ、ビールを取り出して、栓を抜いた。
「そうそう、ルイスからの伝言。数日中にマリアがジュニアを抱いた写真を、写真館で撮ってもらえ、ですって。あなたたち親子は、まさに聖母子像にぴったりだから、そんな写真があれば、いろいろと宣伝工作に使えるわ」
つまり、数日は戻って来ないつもりか。いったい何人の女に会う必要があるのだろう。
考えると、なんだか疲れてしまい、マリアは小さく息を吐いた。
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罪の街にある写真館で、館主がカメラを覗き込みながら、感嘆の声を上げた。
「素晴らしい! まるで絵画の中から飛び出したみたいです。素晴らしい写真が撮れますよ」
ジュニアは先程から、眠そうに目を擦っている。まだ生まれたばかりだから、眠るのが仕事だ。写真で目を開けていなくても、問題なく絵になるだろう。
マリアもブロンドで、ジュニアもブロンド。二人だけでは、誰の家族なのか、さっぱりわからないだろう。だから聖母子像ではなく、ルイスを入れた家族写真にしようと、マリアは主張した。
ようやくルイスと連絡が取れて、この日、写真館でずっと待っているのだが。
「ルイスは何をやっているのかしら? もう約束から一時間も遅れているわ」
「うーん、私としては、ルイスを入れるより、お二人の写真を撮ったほうが、芸術的な思いをできるのですがねえ」
お国柄として、誰もが時間にルーズだ。でも、ルイスは違う。一瞬一瞬の判断が、生死を分ける、因果なご身分だ。
何かアクシデントが、あったのかもしれない。
マリアが不安そうな顔をしていたのだろう。用心棒をしている親衛隊員は三人いたが、即座に一人が近づいてきた。
「ここは、ルイスを待たずに出たほうがいいでしょう。万が一、ルイスの予定が暗殺者に知られていたら、マリアとジュニアも、命が危ない。ここは別々に戻りましょう」
親衛隊員が差し出した両腕に、ジュニアを預ける。今は親衛隊員を信頼するしかない。
マリアは灰色のヴェールを顔に巻き、もう一人の親衛隊員と共に、外に出た。
「急ぎましょう。《グアダルーペ》に着けば、事態を把握できるはずです」
「わかったわ」
マリアが一足早く、外に出た。時間差を置いて、二人の親衛隊員に守られ、ジュニアがやって来る。
いつまでこんな、厳戒態勢が続くのか! マリアはもう、うんざりだった。
ところが、《グアダルーペ》に到着すると、そんな我が儘を言っている場合ではないとわかった。
大勢が集まった中央で、ミランダが身も世もなく泣き叫んでいた。
「アダムが、アダムが殺されたのよ! なぜ私たちには警護を付けてくれなかったの!」
アダムが? マリアは信じられない思いだった。まだ三ヶ月にしかならない赤ん坊を、殺そうとする人間がいるなんて!
テーブルの上に、アダムがぐったりと体を横たえていた。出血はなかった。落とされたか何かしたのだろう。
――なんて卑劣な暴挙をするのかしら! 絶対に許せないわ。
マリアはジュニアが遅れて戻って来るまで、生きた心地がしなかった。
6
マリアはそっと、ミランダに近づいた。
「ミランダ、辛いだろうけれど、状況を説明してくれない?」
ミランダは顔を上げ、キッとマリアを睨んだ。
「私のところには、ルイスはおろか、一人の護衛も来てくれない。それでも、生きていかなきゃならないのよ! 赤ん坊を抱いて、外に買い物に出かけなきゃ、食べるものが何もなくなっちゃうの!」
アダムを抱いて、外に出たところを、暴漢に襲われた。せっかく授かった命を奪われ、身を切り裂かれる思いだろう。
店内にはホアンとフリオがいた。ホアンがミランダの肩に、そっと手を乗せた。
「辛い事件を思い出させて、済まない。ついでに、ルイスの居所に心当たりはないだろうか? ずっと誰も、連絡を取れずにいるんだ」
「知るもんですか! 釈放されてから、一度も訪れてもくれないんだから!」
そのとき、《グアダルーペ》の入口が、がたんと大きな音を立てて開いた。なんと、ルイスが扉に寄りかかっている。左肩から血を流し、右手でしっかり押さえていた。
「しくじった。追っ手は捲いたが、発砲された」
ルイスの側には護衛の男が常に二人以上、いるはずだが。
「囮になったコートニーは、撃たれた。ブラッドは足を怪我したんで、恋人のアパートに匿ってもらっている」
やはり、さっそく、ルイス殺害計画が動き出したか。
マリアは思わず、ルイスに駆け寄り、抱きついた。ルイスもマリアを安心させるように、頬にキスをしてくれた。
「とにかく、手当をしないと。そこに座って。エヴァ、救急箱をお願い」
「はいよ」
ルイスが、やれやれと椅子に腰掛けた。
「弾は自力で抜いたんだ。少し縫わないといけないかもしれないな」
「そうね、応急処置だけして、産婆をしてくれたイレーネに診てもらいましょう」
マリアが血を軽く拭いているところに、フリオがそっとルイスに囁いた。
「アダムが、殺された」
「なんだって? どうして、また?」
ミランダの耳にルイスの声が入ったらしい。絶叫に近い声で、泣き喚く。
「ルイスの子供だからに決まっているでしょうが! ジュニアは二人も三人も警護があるのに、私のところには一人も寄越してくれなかった。だから、アダムは死んだのよ!」
ルイスにも言い分があるらしい。
「一人も護衛を付けていなかったなんて、今、初めて聞いたぞ。そこら辺の問題は、キースに一任しているんだ。キースはどこだ?」
ミランダがルイスの前まで早足で辿り着き、中腰になって胸倉を掴んだ。
「息子が死んだのに、それだけ? それだけしか、感想はないってこと? 父親のくせに! 父親のくせにぃいい!」
怪我人のルイスの胸を、どんどんと叩くので、同志たちがミランダを引き離した。
ミランダは、がっくりと膝を突き、四つん這いの格好で、床を叩いた。
「なんて可哀想な子なの! 同じ男の遺伝子を受け継いでいたのに、ジュニアだけ、ちょっとばかり神々しいからって、特別扱いにして!」
ルイスが困った顔をしていたので、マリアがそっとアドバイスした。
「今度こそ、抱っこしてあげてください。生きているうちに叶わなかった、親子の触れ合いを、せめて感じさせてやって」
「……わかった」
応急処置をした左肩に支障がないよう、右腕をぎこちなく曲げ、アダムを胸に抱いた。
「……アダム、悪かった。いい父親じゃなかったな」
マリアはミランダの側にしゃがみ込み、そっと肩に手を置いた。
「ミランダ。ルイスのところへ。今日はあなたに、ルイスを譲ります。最後の親子の時間を作ってちょうだい」
ミランダは呆然とマリアを見上げていた。
「……死んで、親子の団欒も、あったものじゃないわよ」
それでも、よろよろと起き上がり、ルイスの横の椅子に着いた。ルイスが椅子を引き寄せ、ミランダを右腕でそっと抱く。
アダムの死は、大いに同情に値する。ルイスを、半分こ、三分の一個、四分の一個と切り分けていくしかない。何人もの女でルイスを分け合う状態を我慢するのが、正妻の義務なのかもしれない。
7
ルイスの暗殺未遂は、同志たちに大きな動揺を与えた。
もし今、ルイスが殺害されたら、社会革命クラブは空中分解するだろう。ルイス以外の人間が引っ張っていけるものではないと、ルイス投獄時に皆が思い知らされた。
「ホアンがもう少し、頼りになればなあ」
「マリアと仲良くするしか、能がないし」
同志たちは不安から、ナンバー・ツーのホアンの陰口まで囁き始めた。
ルイスが釈放されてから、マリアはホアンと二人きりの時間を取らないよう、気をつけていた。
ルイスも噂は聞いているだろうが、マリアを問い詰めたりしていない。デマとわかっているからなのか、女房の不倫疑惑なんて気にするほど余裕がないのか。
マリアはルイスの暗殺未遂もショックだったが、アダムの死がそれ以上に衝撃だった。
厳重な警備の中にいるとはいえ、母一人子一人の状況になる場合は、少なくない。隙を突いて、ジュニアを抹殺されたら……。マリアは自分も生き延びる自信が全然なかった。
――母とは強い存在だと思ってきたけれど……子供の命一つで、地獄にも突き落とされる弱い立場なんだわ。
ある午後の昼下がり、ジュニアを寝かしつけて、階下に下りると、ホアンが一人、テーブルに着いて、頭を抱えていた。
元気そうでいるのなら無視もできるのだが、無防備な姿を見てしまい、黙ってもいられなかった。マリアはできるだけ、自然に聞こえるよう声のトーンを上げた。
「ホアン、どうしたの? 元気ないわね」
ホアンがゆっくりと顔を上げた。
「やあ。ジュニアは寝たのか?」
マリアはホアンの正面ではなく、斜め前に腰を下ろした。
「ええ。本当によく眠る子だわ。こんな状況下で、大人はろくな睡眠を摂れないのにね」
「大物の証なのさ。ルイスの血を受け継いでいるからな」
マリアは口の端を上げ、「そうね」と頷いた。
妙な沈黙が生まれた。何を話したらいいのか、わからない。
ルイスが投獄されていた頃、二人の間に話題は尽きなかった。星空を眺めながら、過去の思い出、現在の悩み、未来への希望、なんだって話してきた。
互いが互いに惹かれていると知った瞬間、二人の間に高い壁ができた。その上、不倫疑惑などが起き、顔を合わせる機会を故意に減らした。
――もう、あの頃には、戻れないのね……。
それでも、ホアンが元気のない理由を尋ねるぐらいなら、できる。
「元気がないようで、心配だわ」
「自分の不甲斐なさが許せないのさ。なぜ、アダムに警備を付けるよう、キースに強く言っておかなかったのか、ってね」
そうか……。ホアンはキースがアダムたちを軽んじている事態を把握していたわけか。
「キースは大っぴらに、私たちの仲を疑う言葉を吐いているものね。キースに対して消極的な態度を採った経緯も、理解できるわ」
ホアンが苦しそうに、首を横に振った。
「いいや、赤ん坊の命が懸かっていたんだ。なんと陰口を叩かれようと、厳しく忠告するべきだった。僕の弱さが……アダムを殺した」
マリアは何度か躊躇した結果、テーブルの上に乗ったホアンの手に、そっと触れた。ホアンがビクリと、手を引っ込めた。
「マリア……また、誤解される」
「怖がってちゃ、駄目よ。私も、もう怖がる真似は止めるわ。これからは、あなたとも普通に話すし、頼み事もするわ。怯えていたら、余計に勘ぐられるもの」
ホアンが小さく息を吐くと、僅かに笑った。
「そうだな。僕も、そうするよ。後ろ暗い行動は、何もしていないんだから」
8
肩を撃たれた程度で、ルイスの熱情は止まらなかった。同志との絆を深めるべく、《グアダルーペ》を中心に、政府の目の届かない場所で会合を開き、檄を飛ばしていた。
そんな時、ショッキングな出来事が起こった。反政府運動を繰り返し、軍事クーデター直後にアルゼンチンに亡命していた政治家オットー・ジョンスンが帰国した空港のロビーで、暗殺された。犯人は逃走し、未だ捕まっていない。
「我々はルイスを失うわけには断固いかない!」
「このままアンティルに留まれば、ルイスの命はないだろう」
ルイスさえ生き延びれば、アンティルに未来はある。今は他国に亡命して、命の危険を回避するべきだ。同志たちの声は、日増しに大きくなっていった。
ルイスも発砲され怪我をした経験から、亡命への道に傾きつつあった。
ある晩、ジュニアに乳をあげていると、ベッドに寝転んでいたルイスが、声を掛けてきた。
「亡命の話が出ている」
マリアも近いうちにどうするか、話し合うべきだと考えていた。努めて冷静を装い、口を開く。
「そうらしいわね。どこの国に行くの?」
ルイスが大きく、寝返りを打った。大の字に寝転び、手を頭の後ろに当てる。
「やっぱり、メキシコかな。既に多くの亡命者を抱えていると聞く。互いの国の情報交換も、できるだろう。中には、俺たちのクーデターに力を貸すと言ってくれる有力者と出会えるかもしれない」
「それは、いいわね」
ルイスが、ぽつりと呟いた。
「今までとは全く違う生活になる。それでも、一緒に来てくれるか?」
マリアは何とも幸せな思いで、ルイスに応えた。来てくれるか、だなんて。
「当たり前だわ。ジュニアと二人、慣れない土地で頑張る覚悟よ」
ルイスは起き上がり、ベッドから下りると、そっとマリアに近づいた。マリアの背から、ジュニアと一緒に、ぎゅっと抱き締める。
「俺のサンタ・マリア……俺は誓う。絶対に革命を成功させる。アンティルの人民を、軍政から解放するんだ。どんなに飢えても、痛みに苦しみ藻掻いても、絶対に、成功させる」
革命の成功は、夫婦二人の夢でもある。
――私たちの間には、何よりも強い絆がある。どんな女も、所詮は遊び。ルイスは最後には必ず、私の下に戻ってくる。
「飢える時も、苦しみ藻掻く時も、いつも一緒よ」
ルイスはマリアの首筋にキスを繰り返していた。
「そうだ……いつも一緒だ。なんといっても、お前は特別だ。唯一無二の存在なんだ」
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こうなると、誰を連れていくか、だ。
「マリアとジュニアは、連れていくぞ。亡命するなら、その国で革命の準備を整えたい。だから、主要メンバーは全員、連れていきたい。ホアン、フリオ、キースは絶対だ」
同志の一人が反発した。
「それじゃあ、社会革命クラブは骨抜きになっちまう。せめて、マリアとジュニアだけでも残してくれないか? 何しろ、革命のシンボルだ」
マリアは血の気が抜ける思いだった。ルイスがどれだけ強固に意思を固めても、同志の反対に遭えば、すんなり事は運ばない。
ルイスと共にいなければ、マリアなんて、神々しさを利用された、操り人形になりさがる。
ルイスが怒りに語気を強めた。
「ジュニアは俺の分身なんだぞ! 政府はそれこそ、ジュニア殺害を企むだろう。アダムの例からして、赤子を殺すなんて、簡単な話だ。ジュニアは絶対に連れていく!」
「だったら、せめて、マリアだけでも――」
冗談じゃない! まだ乳飲み子の息子と別れて暮らすなんて、考えられない。
「嫌です! ジュニアと離れて暮らすなんて! 戻って来るのが何年先かもわからないんでしょ? 成長していく我が子の変化を見られないだなんて、そんな酷な話はないわ!」
じっと黙って聞いていたエヴァが、静かに口を開いた。
「ルイスが亡命するなら、家族一緒でしょう。現在の状況を考えると、ルイスの唯一の失点は、有能な後継者を育てなかったところだわね」
「俺をいくつだと思ってるんだ? そんなもの、年寄りになってから考える話だろ」
エヴァは、やれやれと掌を上にした。
「これで、アンティルも終わりね。ルイスも聖母子も、他国に逃げるんだったら」
「俺は、逃げたくなんかないさ! わかった、俺はこのまま残る。マリアも、ジュニアもだ」
ぱちぱちぱち、と、か細い拍手の音がした。マリアは違和感を覚え、音の方向に顔を向けた。信じられない光景を目の当たりにした。
ラジオ局の乗っ取りをルイスらと共に謀り、逮捕拘留中に自殺したはずの、テレサが立っていた。