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南国のマリア  作者: 霧島勇馬
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第五章 聖マリアの妊娠

  第五章 聖マリアの妊娠

 目の前は、真っ白な光に包まれていた。マリアはルイスの無事を神に祈るため、膝を突き、両手を合わせた。

 大きな羽を背に持った、ブロンドの巻き毛の青年の出現に、「ああ、これは夢なんだ」と自覚した。

 中世時代から描かれてきた、聖マリアの胎に神の子が宿ったと告げられる、受胎告知。マリアもいつの間にか、ゆったりとした青いドレスに身を包み、白い百合の花を手にしていた。

 今、マリアは、大天使ガブリエルから、運命の一言を告げられる。

 ――「神の子が宿った」と告げられたら、中世絵画と同じように、驚いた振りをしなければならないのかしら。

 ガブリエルの荘厳な声が聞こえてきた。ただし、内容は予想とはちょっと違った。

「マリアよ。お前の体に、罪の子が宿った」

「罪の子? 神の子でも、ルイスの子でもなく?」

 自分でも驚くほど冷静に、ガブリエルに問いかけた。

「ルイスは罪人だ。このアンティルを混乱させようとしている。お前の腹の子は、混乱の火種となるだろう」

 そこで、はっきりと目が覚めた。

 マリアはガブリエルに妊娠を告げられたも、冷静でいられた。

 身に覚えのある女は、わざわざ天使に告知されなくても、だいたい体の変化で察しがつく。

 その昔、本物の聖マリアも、大きなお世話だと思っただろう。マリアはもともと、処女受胎なんか信じていない。

 夢の中では、お腹の子は神の子でも、普通の子でもなく、アンティルを混乱させるであろう罪の子だった。

 マリアは、ぼんやりと天井を見ながら、腹にそっと手を当てた。

「混乱とは、革命を指しているのかしら?」

 少なくとも、この子は、生まれながらに宿命を持っている。母共々、父ルイスの革命運動の宣伝に使われるだろう。

 静かな生活が一番、と憂鬱でありながらも、どこかで覚悟はできていた。

 ――こうなったら、普通でない人生を歩んでみようじゃないの。

 ゆっくりと体を起こし、静かに階下への階段を下りた。キッチンに入り、冷たい水で顔を洗う。歪んだ流し台の底に、マリアの青い顔が映った。

 ルイスは禁固三年の判決を受けて、リーワード諸島の一つ、サバ島に流され、留置された。もう三日が経っていた。

 ルイスには直接、マリアの口から報告したかった。でも船の長旅は流産の不安がある。

「おはよう、マリア。気分はどう?」

 エヴァはもう起きていて、店の片付けを始めていた。

「神の子ではないらしいわ」

「はぁ? どういう意味?」

 マリアは手短に、夢の内容と、体の変化から妊娠は間違いない事実を告げた。

「よかったじゃないのぉお!」

 エヴァが興奮して、マリアの体に抱きついた。

「ええ、計算が合う妊娠で、良かったわ。三年もいないんですからね」

「あはは、本当ね。ルイスが拘置されている期間に、妊娠するわけにはいかないわよねえ」

「とりあえず、もし今日、サバ島に発つ同志がいたら、このニュースを報告して貰いたくて」

 エヴァも納得の顔で、何度も頷いた。

「そうね、今の時期に船旅は危険だものね。ルイスと直接会う計画は、もっと後に立てたほうがいいわ」

 その日の午前中にはホアンも、ボネール島から帰ってきた。

 同志たちは、ホアンの無事を何よりの知らせと、喜んだ。

「ルイスがいない今、社会革命クラブの命運は、ホアンに懸かっているからな!」

「俺たちを導いてくれ、ホアン! ルイスを奪還し、クーデターを成功させよう!」

 ホアンは仲間を不安にさせまいとしているようだった。「ホアン、ホアン、ホアン!」のシュプレヒコールには手を上げて応えていたが、時折ちらっと不安そうな表情を覗かせた。

 マリアには、ホアンの気持ちがよくわかった。ホアンはルイスの代わりには、なり得ない。本人が一番よく自覚しているだろう。

 この世には、表に立って活躍する人間と、裏方が向いている人間がいる。ホアンはルイスの裏に回ってこそ、本領を発揮できる。

 でも、今の社会革命クラブを救える人間は、ホアンを置いていない。

 ――望まない道でも、進まなければならない時があるわ。

 今のマリアが、まさにその心境だった。ルイスのいない状態で、ルイスの子を産むなんて、考えただけでも恐ろしい。生まれた子は、神の子以上の扱いを受け、革命へと動くアンティルの未来に呑み込まれる。

 逃げたくても、他に進む道はない。

 マリアは、ホアンを励まそうと、群れの中に近づいた。エヴァが慌てて、人を掻き分ける。

「マリアを通してあげて! マリアは大事な体なの! ルイスの子を妊娠したのよ!」

「おおおおお!」と地鳴りのような歓声が轟いた。

「ついに、革命の子が生まれるか!」

「俺たちを導く光が、マリアに宿ったんだ!」

 同志たちは道を作り、拍手でマリアを歓迎した。マリアは照れ臭い思いのまま、まっすぐホアンに向かって歩いていった。

 ホアンが、小さい声で、マリアを労う。

「マリア、おめでとう。本当に良かったな」

 マリアは堂々と見えるよう、意識して笑った。

「何事もない人生に、今も憧れはあるけれど、仕方がないわ。ホアン、私の手を取って。サンタ・マリアの導きで、革命に向かって突き進むんだと、アピールしましょう」

 ホアンは眉尻を下げ、小さく呟いた。

「強いんだな。僕は歴史の波に呑み込まれそうで、恐怖すら感じている」

 マリアはしっかりと、ホアンの手を握った。

「大丈夫。私がいるわ」

 なるべく威厳あるように、しっかりと告げたつもりだった。ホアンにも通じたらしい。瞳がきらきらと輝き出し、大きく頷いた。

「やってみるよ、マリア。サンタ・マリアの庇護の下、ルイスの代わりに社会革命クラブを、革命に向かって導いてみせる」

 ホアンとマリアは、大きく抱き合った。周囲から、歓声が上がる。

「ホアン、ホアン、ホアン!」

「サンタ・マリア、サンタ・マリア!」

 ホアンの胸は仄かにコロンの匂いがした。心臓の鼓動が、マリアにまで聞こえる。マリアはホアンを、ぎゅっと抱き締めた。

 ――大丈夫。私にはホアンが、ホアンには私がいる……。

 そうだ、それに、エヴァもいる。欠けているところを補い合い、ルイスの留守をしっかり守らなければ。

《グアダルーペ》の店内で、ルイスと面会を果たしてきたキースの報告会があった。キースが、ルイスに命じられた項目を書いたメモを読み上げる。

「その一。マリアは、しばらく《グアダルーペ》の給仕に出てはならない。体を第一に考え、静かに過ごすように」

 マリアが思わず声を上げた。

「給仕の仕事ぐらい、できるわ。臨月になるのは、まだまだ先なのよ」

 キースは「ちっちっち」と意味不明の言葉を吐き、首を横に振ると、マリアを無視して続けた。

「その二。これは暗号でのやり取りだった。武器の保管は、慎重に行うこと。できれば、女名義のアパートに隠すといい。重量があるので、床が抜けない程度にすること」

 フリオが満足げに頷いた。

「ルイスの指示通りにやってる。女たちも、重要な役目だと理解し、積極的に手を挙げている」

「その三、革命の時は、すぐ間近まで来ている。成功か失敗かを分ける最大要因は、一般大衆、国民がどれだけ共感し、立ち上がってくれるかだ。引き続き、情報戦略のほうも頑張るように――以上だ」

 自然と拍手が湧き起こった。

「ルイス健在、だな。きっと塀の中で、新しい同志となる男が増えるぞ」

「しばらくルイスの演説が聞けなくて、残念だ」

 マリアには、今一つ、納得のいかない点があった。ルイスの代役でリーダーを務めるホアンに、なんの労いの言葉もない。

 カリスマ性のあるルイスの演説にしたって、ホアンがスピーチ原稿を書いているというのに。

 不安に思い、そっとホアンを覗き見た。ホアンはゆったりと笑みを浮かべ、キースの報告を聞いていた。

 ホアンが、ぱんぱんと手を叩いた。

「みんな、聞いてくれ! ルイスは拘束されてしまったが、刑務所にいる限り、殺し屋に命を狙われる心配はない。それに、こうして僕たちにも指示を与えられる。ルイスが出所して、すぐに革命が起こせるように、準備万端にしようじゃないか!」

「おおー!」

「ホアン。是非とも武装訓練の中心に出てくれ。今までのゲリラ的な抗議デモは、他の人間をやらせるから」

 ホアンのことだ。銃を持ってのサバイバル訓練には向いてないだろう。それでもホアンは、「ああ、そうするよ」と頼もしく請け合っていた。

 マリアの不安も、次第に消えていった。ホアンは自分の立場を把握し、どう行動すべきか、ちゃんとわかっている。

 マリアは自分の頬を両手で挟み、気合いを入れた。

 ――私も頑張らなくちゃ! ホアンに負けていられないわ。

 身重の今の体を、思い切り利用しよう。サンタ・マリアはルイスの愛を得て、革命の子を産む。ルイスがいない間、父親の偉大さと、自分の身の上について、しっかり教えておかなければ。

 三ヶ月が過ぎた。妊娠五ヶ月を過ぎ、マリアのお腹も少しずつ、目立ってきていた。

 マリアはホアンとエヴァに助けられながら、充実した毎日を過ごしていた。

 同志たちは、マリアが産む子の性別を予想して、賭をしていた。ブロンドで色の薄いマリアと、褐色の肌で黒い髪をしたルイスのどちらに似た容貌になるかも、関心を集めていた。

 マリアも、ルイスが不在で不安に思う日々かと予想していたが、ごく順調に時が過ぎていく。問題児が側にいないから、かえって安心していられるのかもしれない。

 マリアは慣れない手つきで、赤ん坊のためのベビードレスを編んでいた。淡いブルーのドレスは、男の子に似合うだろう。

 何しろ父親のルイスが、男の子だと決めて懸かっていた。

「名前はルイス・ウールデン・ジュニアに決まりだ。お前のブロンドでも、俺の黒髪でも構わないが、絶対に男の子を産むんだぞ」

 そんなことを言われたって……マリアがこれから先どうこう努力すれば、女が男になるわけでもなし。手紙を読んで、心底どうしようかと悩んでいるところを、エヴァが背中を叩いた。

「男、男と言ったって、いざ、女の子が生まれてみたら、めろめろになるわよ。赤ん坊の頃から、貞操帯を着けさせかねないわねえ」

 この言葉で、マリアはすっかり気が楽になった。男でも女でも、きっと、精一杯に愛してくれるだろう。

 その日、ルイスと面会した同志が、マリアに宛てた手紙を携えて、戻ってくる予定だった。マリアは朝から、そわそわしていた。午前中から何度も、《グアダルーペ》の店の外に出て、同志フランツを待つ有様だった。

「ねえ、まだかしら? もう船は、とっくに着いたわよね?」

 エヴァがマリアの編み物を少しほどき、丁寧に直しながら、柱時計を見る。

「二時半かぁ。もう来る頃だわ。今にも、その角を曲がって――」

「来た、来たわ! フランツ! お帰りなさい、ご苦労さま!」

 フランツはサンタ・マリアの大歓迎を受け、雀斑顔を赤らめ、帰ってきた。マリアが望むルイスからの手紙を、真っ先に渡す。

 ホアン、エヴァ、フリオの三人が、別の席にフランツを呼び、話を聞く展開となった。

 マリアはわくわくする思いで、手紙を開いた。もう軍の検閲は受けているから、クーデターについてなど、一切、書けない。その分、マリアと子供の話に終始しているのは確実だった。

「――愛しい女、愛しい女よ! この監獄が呪わしい。お前の肌に手を触れられないじれったさで、どうにかなりそうだ!」

 読み始めた途端、違和感を覚えた。いつもマリアに囁いている台詞ではない。

 何より、今の一番の関心事は、マリアのお腹の子供のはずだ。

「お前の裸が映った写真、毎日、見つめている。こんなものを送ってくるなんて、南米の情熱の塊のような女だ!」

 マリアは、手紙をくしゃりと握り潰した。わなわなと、体の内側から震えが来た。顔がかーっと熱くなった。

「なんなの、これ! これはルイスの字よね? 間違いないわよね?」

 エヴァがマリアの異変に気づき、近づいてきた。

「どうしたの? ルイスの手紙、そんなくしゃくしゃにしちゃって」

「読んでみてよ!」

 マリアはエヴァに丸めた手紙を突き出した。

 ――これのどこが、私宛てだっていうのよ!

 エヴァが手紙を読み始め、口をあんぐりと開けた。

「あらら。これは看守の意地悪だわね。今頃この女の下に、マリア宛の手紙が届いているはずよ」

 ホアンも「どれどれ」と近づいてくる。こんな恥辱、初めてだ!

「ホアンは読まなくていいわ! とにかく、ルイスは投獄されたって、もてる事実には変わりないのよね」

「いや、ルイスは、ずっとマリアの問題を考えているんだと思うよ。でも、裸の写真なんかが送られてきたら、返事の一つも書きたくなるだろう。決して、浮気じゃないんだ。マリア、わかるね?」

 ホアンの説得に、なんとか無理矢理、自分を納得させた。でも、ルイスをこの淫乱女と半分こにしているようで、しばらく気分が悪かった。

 大きなお腹になって、不便になった点は、何事も一人で行動ができなくなったことだった。

 マリアがルイス・ウールデンの妻だという事実は、知れ渡っている。ルイスは投獄されてなお、時折、隙を窺って潜り込む新聞記者を相手に気炎を吐いている。

 政府は、ルイスの刑期をたった三年にした判断を、後悔し始めているようだ。

 ルイスの心から革命の灯火が消えるためだったら、無茶な計画も考えるのではないか?

 たとえば、妻の流産……。

 また、社会革命クラブは、ルイスの逮捕ですっかり、反政府運動の先頭を走る存在として知られる状況になっていた。これには、年上の人間たちが集う反政府運動団体は、面白くない。

 聞けば、聖マリアとか名乗る妻が身重で、生まれたら革命に利用する気だろう。ここは先手を打っておくか……。

 どれもこれも想像の域を出ないのだが、可能性は充分に考えられた。

 マリアの警備は、いっそう強化された。

 マリアが元気な時はいい。心に余裕があれば、一人でなくて寂しくない、などと前向きな考え方もできる。

 でも、一人になりたい時だってある。誰にも、涙を見られたくない時は、マリアにだってある。

 そんな時は、《グアダルーペ》の裏口から出られる中庭に行く習慣にしていた。

 中庭といっても、空き地のようなものだった。三方が高い塀に囲まれ、出入りは店の裏口からしかできない。完全な個室だった。

 でも、空を見上げると、いつも満天の星空が迎えてくれた。隅に灰色の土管が放置されている。その上に座ると、即席のプラネタリウムの完成だ。

 いつの間にか、中庭がマリアの逃げ場所となっていた。サンタ・マリアらしく威厳ある態度でいられない時、どうしようもない悲しさに我を忘れそうになる時、ルイスに対して怒りでどうにかなりそうな時、星はいつも、慰めてくれる。

 その夜も、マリアは一人、中庭に出た。

 怒っていたわけでも、悲しかったわけでも、面目が潰れたわけでもない。お腹の子が、マリアの腹を、初めて蹴った。それを報告したくても、周りには社会革命クラブの人間と用心棒しかおらず、誰とも喜びを共有できなかった。

 本来なら、真っ先に父親のルイスに知らせ、お腹に触れてもらいたいところだった。妻として、母としてのささやかな喜びさえも、今のマリアには手が届かない。

「パパも、困ったものよね、ジュニア。いつだって、ママの思い通りにはならないわ」

 ふと、人の気配がして、マリアはハッと息を止めた。真っ暗闇に目が慣れてくると、土管の上に先客がいるのが見えた。

「マリア?」

 ホアンの声だった。マリアはホッと胸を撫で下ろし、お腹を摩った。

「びっくりしたわ。ここに他の人がいるのを見た機会がなかったから」

 ホアンの柔らかな声が聞こえてくる。

「僕もだよ。どうやら二人とも、ここを特等席にしてたみたいだな」

「ご相席しても、いい?」

 ホアンの体が中腰になり、横のスペースを叩いた。

「もちろんだよ、さあ、おいで」

 マリアはなぜか、涙が出るほど嬉しくなった。きっと妊娠中のホルモンの働きで、大した意味なく怖がったり感動したりする感情の一つだと思うが。

 大人しく、ホアンの横まで歩いていき、ちょこんと腰を掛けた。

 顔を上げた途端、星が流れた。

「あ、流れ星」

「そうだね。お願いしたかい?」

「まさか。私は欲の塊だから、あんなすぐ消えちゃうんじゃ、お願いなんて、できないわよ」

 ホアンが実に優しい声で告げた。

「欲張りなんじゃないさ。ルイスを帰して欲しいと願うのは、とてつもなくエネルギーのいる感情だからなんだよ」

 いつも思うのだが、ホアンは考え方が常に前向きだ。人を貶したり、蔑んだり、絶対にしない。馬鹿がつくほど、誰に対しても優しい。

 とても、反政府活動の急先鋒、社会革命クラブのリーダーには見えない。

「あなたは何もお願いしなかったの? 私より先に見つけたでしょ」

「僕の願いは、他の皆が何万回もしてくれているもの。君と同じ願いだよ。ルイスに早く戻ってきてもらいたい」

 マリアは無言になり、口の端を上げた。

 ――どうしてそこまで、いい人、になれるの?

 なんというか、ホアンを見ていると、じれったいときがある。いつも優等生で、間違いは決して犯さない。そんな生き方、窮屈になりはしないか?

 その点、ルイスは豪快だ。理性と本能の戦いは、往々にして本能が勝つ。結果として騒ぎが大きくなり、周りの人間が迷惑する。

 それでも、誰に尋ねても、ルイスのほうが魅力的だと答えるだろう。

 他人の迷惑など考えずに、思い通りに生きればいいのに。頭の中で言葉にしたものの、ホアンに直接、面と向かって話すのは憚られる。

 ルイスが、生き方上手だとすれば、ホアンはとことん下手糞だ。人を思いやる気持ちに他人は乗っかり、ホアン一人が損をしている。

 リーダーの地位に就き、苦手な武装訓練の先頭に立って努力するも、ルイスが帰ってきたら、皆の心はホアンから離れる。ルイスだって、ホアンに感謝の言葉を掛けるかどうかさえ怪しい。

「それで、どうしたのさ?」

 唐突な質問に、マリアは慌てた。えっと、なんだっけ……。するとホアンは、愉快そうに笑った。

「ここに来た理由は、一人になりたいからだろう?」

 マリアは思わず、俯いた。自分が恥ずかしくて、堪らない。ホアンは、マリアの懸念など、どこ吹く風だった。

「さっきね……ジュニアがお腹を蹴ったの。それが嬉しくて、でも、誰も分かち合う人がいなくて、寂しくなっちゃったの」

 間近で見るホアンの顔が、月の光に白く輝いた。

「へえ、もう蹴るのか! 触っていい?」

「ええ、どうぞ」

 マリアは手を脇に垂らし、お腹を突き出した。ホアンが触れた次の瞬間、また赤ん坊は腹を蹴った。

 ホアンが驚きに、仰け反った。「蹴った!」

「蹴ったわ!」

 二人で声を上げて笑った。何が可笑しいのか、自分でもわからなかった。幸せな気持ちで、マリアは笑った。

 ホアンはもっと何か聞こえないかと、マリアの腹に耳を近づけ、優しく撫でていた。

 マリアが憧れて止まず、しかし、永遠に得られない、平凡な幸せ。

 ホアンと二人きりでいると、マリアは平凡な初産の妊婦に戻れる。ホアンとマリアとジュニア、三人だけの世界が、ここにはあった。久しぶりに感じる幸せに、マリアは涙で目が潤んだ。

 臨月になる前に、一度は、ルイスに会ってきたかった。エヴァも賛成してくれた。

「それがいいわ。妊娠してなお、こんなに美しい妻がいるって、ルイスにわからせないとね」

 美しいだなんて、嬉しい台詞を言ってくれる。マリアは無邪気に尋ねた。

「ほんと? 太ってきて、嫌われたりしないか、とても不安なの」

「確かに、巨大なビーチボールを呑み込んだみたいなお腹だけどね。妊婦って、特にあんたのようなイメージで売っている人間の場合、母性が感じられて、男はたまらないんじゃないかしら」

 久しぶりにルイスと再会する。気持ちは浮き立った。だが、同時に不安な面もあった。

 マリアは今なお、裸の写真を送りつけた熱狂的ファンに宛てた、ルイスの手紙が忘れられなかった。その女はたまたま、マリアが存在を知っただけで、未知数のファンが、ルイスの気を引こうと、手紙を送りつけている可能性が大だ。

 ――私と会うより、そういうファンの女と会うほうが、楽しみだったりしないかしら。

 そんな時、先に面会したフリオが、マリアの面会を中止したと告げた。

「実は、ルイスのインタビュー記事やゲリラ・デモの中で、ルイスの恩赦を訴える動きが活発なんだ。もしかしたらルイスは、春には外に出られるかもしれない」

 それは嬉しい驚きだった。ルイスの知名度は今や抜群だ。新聞『ワラハイド』は、結婚以前から、ルイスの動向を記事にしていた。その『ワラハイド』を中心に、いつも何かしら、ルイスの問題は紙面を賑わした。

「でも、なぜ、私が面会してはいけないの?」

「政府を刺激しないためさ。あなたのお腹の子は、革命の子とレッテルを貼られ、政府も警戒している。今、ルイスに会いに行ったら、政府はルイスと革命を結びつけ、恩赦には応じないだろう」

 それにしても、政府はなぜ、民衆の要望に応え、ルイスを恩赦しようとしているのだろう?

 ホアンが次のように分析した。

「そもそも、禁固三年の判断を、政府は後悔しているだろう。ルイスは大人しくなるどころか、ルイスの声があちこちの新聞で報じられている。ルイスを支持する民衆の声は、日増しに高まっている。独房に入れても、事態は回復しないだろう。だからといって、判決が確定した人間を、今更、死刑にはできない」

 マリアも納得の思いで頷いた。

「確かに、そうね。ルイスはこのまま無為に三年間を送ったりしないわ。刑務所の中で革命のために何ができるか、考えていくと思う」

「政府としては、ルイスの口を閉じさせたい。つまり、殺すべき人間となった。皮肉なことに、ルイスは今、高い塀に守られている格好だ。でも、刑務所から一歩、外に出れば、なんだって起こりえる。たとえば、事故に見せかけた暗殺。政府はルイスを抹殺するために、恩赦を行うんだよ」

「そんな! ルイスは、私たちは、いったいどうすればいいの?」

 エヴァが胸の前で腕を組み、さばさばした口調で言った。

「拘置前の、今までと同じになるだけでしょ。妊娠している分だけ、マリアのほうが危険よ。政府がルイス抹殺を視野に入れているのなら、マリアの警護も、もっと厳重にすべきだわ」

 マリアは額に手を当て、俯いた。

「これ以上、厳重にするの? どうか勘弁して欲しいわ」

 今だって、窮屈な思いをしているのに!

 でも、ルイスとまた会える事実は嬉しかった。早くお腹に触れて欲しい。情熱的に唇を奪って欲しい。

 ルイスの警護をどう実行するか、などはフリオたちの担当だ。マリアが心配したって、どうしようもない。

 また、釈放前に、ジュニアが誕生するかもしれない。ルイスか、ジュニアか、どちらが先に、マリアの下を訪れるか。どちらでもマリアには、夢のように嬉しい未来だった。

「わかったわ。今は私が我慢すればいい話なのね。楽しみにしていたけれど、仕方がないわ」

 ホアンが、元気づけるように、マリアの肩を叩いた。

「ルイスには引き続き、手紙を書かせて、同志を通じて送るから、心配しないでくれ」

 もうしばらくの辛抱だ。マリアは無理して口の端を上げ、笑顔を作った。

 その夜、何となく予感がして、マリアは裏口へ向かった。マリアをプラネタリウムに誘うドアは、いつの間にか、ホアンと和やかな話をするための道に変わっていた。

 いつもはマリアが慰められてばかりいる。でも今夜は、マリアが力づけてあげられるかもしれない。

 果たして、ホアンは土管の上に座っていた。じっと空を見つめている。

 マリアは、そっと声を掛けた。

「ホアン、こんばんは」

「やあ、マリア」

 マリアは無言で、ホアンのすぐ横に腰を下ろした。もう、「お邪魔していい?」などと尋ねなくても大丈夫。ホアンのすぐ横が、マリアの指定席、マリアの横がホアンの指定席だった。

「今日は流れ星、ありそう?」

「どうかなあ、まだ一つも流れていない」

 しばらく無言でいたが、最初にホアンが口を開いた。

「マリア。ルイスが戻ってくる展開になって、良かったな」

 また先を越された。マリアは苦い笑みを浮かべた。

「良かったのかしら。私はずっと三年間、ジュニアと二人で頑張ろうと覚悟を決めていたの。その三年間だけは、ルイスと歩む人生で、唯一の平和で、穏やかな日々になるだろうと予想していたのよ」

 ホアンが可笑しそうに笑った。

「なんだ。問題児のルイスは、いないほうがいいか?」

「ふふ、そうかもね。ほんと、心が平穏な日々は、これまでよね」

 横でホアンが、大きく伸びをした。

「僕は、早く肩の荷を下ろしたいよ。ルイスの代わりなんて、どうせ僕には無理なんだ、と思い知らされてばかりいるから」

「あなたは、あなたなりのリーダーで、いいのよ」

「でもさ、皆は、ルイスのようなリーダーを望むだろう?」

「そんなことないわ。私、あなたのほうが、ずっと頼りになる。ルイスは当てにできないもの」

 ホアンが小さく失笑した。

「マリア、ありがとう。そう言ってくれる人間は、君ぐらいだよ」

 マリアは自分が歯痒かった。もっともっと、気の利いた労いの言葉を掛けたいのに。ホアンがいてくれたおかげで、心穏やかでいられた事実を感謝したいのに。

 励まそうと思ってきたのに、ろくな台詞を吐けず、横に笑顔で座っているだけだ。

 するとホアンは、実に意外な言葉を呟いた。

「君がいたおかげで、どれだけ救われたか。感謝しても、しきれないよ」

「え、ええ? 私、何もしていないわ」

 ホアンはにっこり笑顔だった。

「ここでいつも、話を聞いてくれた。一緒の時間を共有できて、とても幸せだったよ」

 幸せだった? なぜ、過去形にする必要があるのか? ホアンはマリアの心を読んだかのように、囁いた。

「君は人妻だ。こうやって二人きりで長い時間、話し込むべきじゃないよ。ルイスが帰ってきたら、ルイスに返さないといけない存在だ」

 マリアは混乱した。いつも、ホアンと話ができるのを楽しみにしてきた。ルイスとこんなに長く、楽しい気持ちで会話できたためしがない。いつも、はらはらさせられてばかりだ。

 その点、ホアンはマリアに、安らぎを与えてくれていた。この大切な時間を、もう持てないだなんて!

 ホアンがゆっくりと腰を上げる。マリアも倣って、立ち上がった。

「ホアン……私たち、別に人に後ろ指差されるような真似、していないわ」

「そうだね。でも、他人は、そうは思わない。本人が潔白なつもりでもね」

「誰かに、非難でもされたの?」

 ホアンが無言で、小さく頷いた。

「非難、ってほどでもなかったけどね。皆、僕らの仲を怪しいと囁き始めている」

 マリアは絶句した。二人の仲が怪しい? なんで、そんな話になるのか! かっと頭に血が上った。

「陰でこそこそ噂するなんて、卑怯よ! 皆を集めて、何もない事実を二人から告げたほうがいいわ!」

「そんな真似したら、逆効果だよ。僕らの結束が堅ければ堅いほど、人は怪しむんだ」

「そんな……!」

「しばらく、距離を置こう。いや、もう、二人きりにならないほうがいい。ルイスも戻って来る時期が早まりそうだし。ここは、僕と君がそれぞれ、一人になりたい時に使う場所だ。先客がいたら、遠慮する方式にしよう」

 一人になりたい場所……確かに以前は、そうだった。でも、今は違う。ホアンがいると思うから、中庭に行きたいと思う。ホアンと過ごすひとときが楽しいから、また一日を頑張ることができる。

「私は……少なくとも今は、もう、一人になりたくてここに来ているわけじゃないわ」

 ホアンは小さく微笑んだ。

「僕もだよ」

 瞬間、魂が啓示を受けたような気分に陥った。

 ――私は、ホアンを愛している……。ホアンが与えてくれる安らぎに惹かれたんだわ。

 心に疚しさがなければ、堂々とこれからも、ホアンと二人きりの時間を取れる。あいにく、マリアは自分の気持ちに気づいてしまった。

「ホアン、私――」

 ホアンが唇に人差し指を当てた。

「しぃ、マリア。黙って。何も言わないでくれ」

 目に涙が溢れてきた。愛を知った直後に、その愛が終わるなんて。

 マリアはホアンに抱きついた。振り払われてもいいと思った。でもホアンは、優しく受け止めてくれた。

 ホアンの胸は、温かかった。マリアは温もりを味わいながら、涙を流した。

「ホアン、どうしよう……私、私……」

 マリアがホアンに押しつけている、大きなお腹。ホアンが、そっとマリアの腹に触れた。マリアはルイスのものだと、再確認させられる。

「ルイスには、君が必要だ。わかるね?」

「でも、私には、あなたが……」

 ――あなたが、必要なの!

 ホアンが最後にぎゅっと、マリアを抱き締めた。しかし、すぐに手を離し、距離を置いた。

「僕はもう、ここには来ない。君一人の場所にしよう」

「いいえ! この空き地は、あなたにとって必要なものだわ。心が浄化されるもの。私が遠慮します。私はここに来ないから、あなたはいつでも、訪れて。苦しみや痛みを、癒してください」

 ホアンが小さく、苦笑した。

「それじゃあ、どちらもここに来られないじゃないか。確かに、これまでずっと、僕らは罪の意識を感じずに、ここで二人で星を眺めていた。でも、もう、同じ真似はできない。この場所は、封印したほうが良さそうだ」

 マリアは自分でも、声が上擦るのがわかった。

「それは、あなたが私と同じ気持ちだから?」

 ホアンは無言で、こっくり頷いた。

「マリア……本当にありがとう」

 ホアンはマリアの頬にそっと口づけると、体を離し、裏口のドアに向かった。マリアは追い縋りたい思いを、必死で堪えていた。

 涙が溢れて、止まらない。自分の心の中に、こんなにも熱い感情があったなんて。

 ――ルイスより先に、出会いたかった……。

 マリアはその場で蹲り、小さく声を上げて、泣いた。

 ルイスの恩赦はほぼ確定だったが、マリアの出産には間に合わなかった。

 陣痛が起きた時、もう午前一時を回っていたが、産婆のイレーネは、すぐに駆けつけてくれた。

 罪の街の住人で、以前は大学病院の教授職にあった女性だった。医療ミスを犯し、医学界を追放され、この街で細々と暮らしている。だから、腕だけは確かだ。

 赤ん坊が生まれるまで、エヴァがずっと手を握ってくれていた。

 一階では男たちが、赤ん坊の誕生を今か今かと待っていた。ホアンも当然、中にいるはずだ。

 子供を産むのがこんなに痛いなんて、信じられなかった。汗だくになりながら、何度もいきむ。

 ――もう、嫌! こんな思い、二度としたくない!

 途方もない時間が経過し、ようやく赤ん坊が外に出て来た。元気のいい泣き声を聞き、全身が脱力する。

 エヴァがマリアの額の汗を拭きながら、苦労を労ってくれた。

「マリア、よくやったわ! 元気な男の子よ! すぐに皆に知らせるわね」

 エヴァが階下に下りていった。すぐに、「おおおおー!」と地鳴りのような声が響いた。

 イレーネが赤ん坊をおくるみに包み、マリアに手渡した。

「ルイスじゃなく、あなたに似たわね。とってもハンサムよ」

 髪はブロンド、肌は透き通る白人の肌だった。額に掛かった、濡れたブロンドを掻き上げてやりながら、イレーネに問いかける。

「私に似ちゃって、ルイスは喜ぶかしら?」

「もちろんよ。我らが革命の子ですもの。あなたに似て、良かったと思うわよ」

 イレーネが請け合ってくれたので、少し自信が持てた。これで名前も、ルイス・ウールデン・ジュニアに決まりだ。

 階段を上がる音がして、エヴァが再び顔を出した。

「みんな、大喜びよ。ジュニア、ジュニアと合唱してるわ」

 マリアは躊躇いがちに、問いかけた。

「……ホアンも、いる?」

 エヴァの表情が険しくなった。

「いるわよ。他の同志と一緒。ここに来てもらう?」

「……エヴァは、どう思う?」

「止めておいたほうがいいわ」

 あっさり反対され、マリアは寂しく、頷いた。

「そうよね。お腹の子の父親でもないし」

 エヴァが一歩、マリアに近づいた。

「ねえ、マリア。ホアンと間違いは犯してないわよね?」

「間違いって……! 当たり前じゃないの! 私は、ずっと妊娠中だったのよ」

「そうじゃなくて、この子は本当に、ルイスの子よね? 以前から、ホアンとどうにかなっていたわけじゃないわよね?」

 信じられない言葉だった。

「まさか、そんな噂まで流れているの?」

 エヴァは言いにくそうに、ぽりぽりと頭を掻いた。

「ルイスに似てれば良かったんだけど、マリア似だし。いろいろ噂する連中の存在は、覚悟しておいたほうがいいわ」

 信じられない思いだった。そこまで深く、誤解されているなんて。そういった噂はルイスの耳にも入るだろう。

 ジュニアが「あぁーん」と、欠伸とも泣いているともつかない声を出した。マリアは不安な思いのまま、そっとジュニアの額にキスをした。


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