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南国のマリア  作者: 霧島勇馬
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第四章 黒衣の女革命家

   第四章 黒衣の女革命家

 ルイスたちが地下に潜り、本格的な武装化を始めると、《グアダルーペ》をマリア一人が任される夜が増えた。エヴァは男たちと共に、武器を持ち、前線に出る決意だったからだ。

 夜に普通に店を開店させているが、社会革命クラブのメンバー以外がやって来ることはなかった。

 店の中では情報交換が行われ、ルイスたち上層部に伝えたい問題などを持って、男たちが訪れる。

 マリアは、そんな男たちの潤滑油として、忙しく動き回っていた。

 ルイスも安全を第一に考えてくれたら良いのに、同志のためとあらば、じっとしてはいられないようだった。

 軍政になり、新聞にルイスの言葉が載りづらくなった。そうなるとルイスは、ホアンと二人で、ガリ版印刷で五百部のビラを作ると、反政府運動を展開している人間たちの中に入り、配って回った。

 ハンサムで気っぷの良いルイスは、思っていた以上に、民衆の信頼を集めているようだった。反政府を売りにしている団体といっても、ルイスに邪魔されると具合が悪いらしかった。

「ヒーロー気取りの若造が、我々の会合の邪魔に来た!」

 警察を呼ばれた時が二回もあり、一度などは、実際に捕まった時もあった! 警察の側で、ルイス・ウールデン本人だと気づかずに、釈放していたのだが。

 とにかく、マリアは毎日、生きた心地がしなかった。

 ルイスは懲りもせず、今度は政府の政策に反対する同志を集めるデモを、あちこちでゲリラ的に開いた。マリアの頼みで、必ず親衛隊員を連れていき、先頭には立たせないようにしているのだが、ルイスが言うことを聞いてくれない。

「捕まるのを恐れる臆病者と思われたくないだろうが」

「あなたは自分の立場をわかっているの? 社会革命クラブなんて、あなたが逮捕されたら、あっという間に解散してしまうくらい、脆い存在なのよ」

 ルイスは同志をけなされ、ムッとして反論した。

「何を言う! 皆、俺の屍を超えていくさ。お前は普段、武装集会に出ていないから、同志を臆病者扱いにできるのさ」

 ルイスは、ちっともわかっていない。たとえ臆病者と呼ばれようが、生きていてこその人生だ。

 ルイスだって、自分の影響力を理解していないわけではない。自分以外の人間の行動があまりに鈍くて、歯痒いだけなのだ。

「俺のように、真に国を思う人間が、もっともっと増えていいはずなのに! 皆、本気でこのままでいいと思っているのか!」

「誰も自分の身が可愛いわ! あなたは無鉄砲なだけなのよ!」

《グアダルーペ》の店内で、客がいるのも無視して、いったい何度、言い合いになったか!

 マリアはエヴァの制止も聞かず、ルイスの胸を力一杯ばしばし叩いた。

「なぜ、わからないの? あなたは一人しかいないの! 国のためを考えるなら、まず生き抜くことを優先してください!」

 最後はいつも、マリアの絶叫で終わる。二人の喧嘩は、仲間が止めに入るまで続く。永遠にこんな状態でいたら、身が保たない。

 ――ルイスじゃなくてもいい。誰か、この国を変えて。私の心に平穏を与えて!

 マリアの思いに反して、ルイスの名声は、いやが上にも高まっていった。

 無法者のルイス・ウールデン! この上なく興奮させてくれる男。ルイスの身近にいたら、きっと何か大きな歴史の動きを見られる。

 ルイスは自分を信じてくれる人間に広く門戸を開けていた。ルイスの気前の良さでもあると同時に、トップに立つべき人間としてはあり得ない、不用心さだった。

 それでも、慕ってくれるのは嬉しくて堪らないものらしい。ホアンがマリアの肩を抱いた。

「僕たちが、ルイスを守るから。全力で守るから――」

 さすがのホアンも「だから、安心して欲しい」とまでは言えなかった。

《グアダルーペ》のドアが開く、チリリンという鐘の音がした。マリアは「いらっしゃいませ」と笑顔を用意して、振り返った。

 黒いヴェールを被った、黒衣の女が入ってきた。歳は、二十二、三だろうか。浅黒い肌に、真っ黒な、射るような瞳が印象的だった。

 社会革命クラブの人間ではない。当然、マリアは警戒した。こちらの情報を不用意に、見ず知らずの人間に知られるわけにはいかない。

「いらっしゃいませ。こちらに通う誰かとお知り合いですか?」

 女の美しい紅い唇が動いた。

「ルイス・ウールデンにお会いしたいのです」

 マリアは思わず、眉を顰めた。

「ルイスと面識はありますか?」

「いいえ。新聞やラジオで知る以上の情報は持っていません」

 ちょうど、親衛隊員のフリオが席にいた。フリオがマリアを制して、立ち上がった。

「ルイスに、なんの用だ? ついでに、その不思議な格好の理由も教えて欲しいな」

 女は動じることなく、自己紹介を始めた。

「私は、テレサ・オルテガ。オランダ語よりスペイン語が得意な、下層階級の人間です。でも、この国を憂う気持ちは、誰より強いつもりです。軍政になった夜、私は共に生きたアンティルの未亡人になり、髪を切り、黒衣に身を包みました」

 マリアは、呆気に取られた。黒衣の意味は、国の未亡人……。なんて強い、愛国の方法か。

 テレサは静かに、しかし断固たる口調で続けた。

「今、この国の希望は、ルイス・ウールデン一人となりました。ラジオで訴えるルイスの声を聞き、どうしても、おそばに仕えたくて、こうして参りました。どうぞ、サンタ・マリアの庇護のもと、活動するルイスの同志に加えてください。何でもやる覚悟です」

 マリアは、どう対応すればいいかわからず、フリオを見た。フリオも当惑していた。しかし、他に上層部はいない。

 フリオがテレサに椅子を勧めた。

「まあ、座りなさい。ルイスとは、簡単に会わせるわけにはいかないよ」

「充分、承知しております。今のルイスにとって、危険になる人間かも知れないとお考えでしょう。どうぞ、身体検査でもなんでも、してください。私は、ルイスに忠実です。ルイスが崇めるサンタ・マリアに忠実です」

 マリアは直感で理解した。この女は、ルイスの心を奪うだろう。国を憂い、黒衣で現れるなんて、どんな女優にもこなせない、求愛の形だった。

 明け方、ホアンとエヴァが《グアダルーペ》に戻ってきた。さっそく話題は、テレサの話になった。

「アンティルの未亡人が、ルイスを訪れたんですってね」

 マリアは二人に朝食を振るまいながら、話に加わった。

「スパイの可能性もあるからと、今、地下室でフリオとキースが尋問をしているわ」

 エヴァは気楽な調子で、背凭れに体を預け、頭の後ろに手を当てた。

「国を憂えて、黒衣に身を包むなんて、ルイスが好きそうな話ね。さっそく宣伝に使われるわよ」

 ホアンが真顔で尋ねた。

「怪しい素振りは、まったくなかった?」

 マリアも当惑した。

「そうね、私の印象は、あまり参考にならないわよ。何しろ、伴侶にルイスを選んじゃうぐらいだから」

 平和に、暢気に生きていきたいと願うなら、ルイスのような男を夫になど断固しない。エヴァもマリアの話の意味は理解したようだ。

「どうせなら、国を憂える未亡人に差し上げちゃえば? 気が楽になるわよ」

「まさか! 私が言っている意味は、テレサのような女が次から次へとルイスの下にやって来る、今の事態のことなのよ」

 エヴァが、からからと笑った。

「わかっているわよ、それぐらい。とにかく、ルイスが大好きそうな肩書きをぶら下げてきたわよねえ。綺麗な女だった?」

 そこに、地下室の階段へと続く重たい扉が開けられる音がした。フリオ、キース、テレサの順で、次々と一階に姿を現した。

「未亡人の尋問は終わったの?」

 気楽な調子で問いかけるエヴァに、フリオが真顔で応えた。

「武器の所持は、なし。ボネール島から、わざわざ漁船に乗せてもらって、ルイスに会いに、キュラソー島までやって来たんだとさ。信用できると思う」

「首都に来たいだけの、お上りさんかもよ?」

「こんな身なりで来るか?」

 エヴァは、なぜか、不機嫌にそっぽを向いた。

「男は女に甘いから。後で痛い目を見ても知らないわよ」

 マリアには何となくだが、エヴァが不機嫌な理由がわかる気がした。

 今、武装化を狙う社会革命クラブで、マリアを別格にすれば、ルイスのすぐ側にいる女はエヴァだ。エヴァは自分の領域を侵される心配をしている。

 キースの後ろから、テレサが顔を出した。

「信用してくださって、ありがとうございます。きっと後々まで、このとき私を認めてよかったと思うはずですわ」

「黒衣を着る以外に、あんたに何ができるのよ?」

 テレサは、いともしゃあしゃあと告げた。

「ルイスの身の回りのお世話をしたいと思っております」

 さすがにエヴァの肩が跳ねた。

「ばっかじゃないの? ルイスには、ここにマリアという妻もいるのよ。それより、武器を握って、前線に立ったほうが、ルイスは喜ぶはずよ」

 確かに、エヴァの言う通りだ。ルイスの側にいて、危険でない任務に就いていられるなら、女たちはなんだってするだろう。

 テレサの顔が緊張で歪んだ。

「女も、前線に立つんですか?」

「少なくとも、私はそうしてるって話よ。無理強いはしないわ。甘い世界ではないと言いたいだけ」

「素晴らしい話です。私たち女でも、武器を持って、立ち向かえるなんて! ルイスの下に来て、正解でした!」

 どうやらテレサは、亡国の女戦士になる気、満々のようだ。エヴァもこれには立場がなかった。

「勝手にしなさい! でも、私は認めない。あんたみたいな女」

「なぜです? ルイスを慕い、ルイスと共に戦う同志ではありませんか」

 エヴァは立ち去り際に、マリアにぽつりと呟いた。

「理想論過ぎて、怖いわよ。なんだか悪い予感がするわ」

 マリアも、エヴァの悔し紛れだとは言えなかった。テレサの優等生ぶりに、マリアは背中に寒気が走った。

 ルイスはテレサの登場に、大喜びだった。

「素晴らしい気概を持った女性だ! テレサのような考えの人間が、男でも女でも、もっともっと現れて欲しいものだ」

《グアダルーペ》の一階で、ルイス、ホアン、エヴァ、マリアの四人と、親衛隊員のフリオ、キースの面々で、テレサの処遇を決めることとなった。

 テレサは神妙な顔で、ルイスのすぐ後ろに静かに立っていた。まず、ルイスが口を開いた。

「アンティルと結婚し、未亡人になった女だ。是非、俺のすぐ側で活動して欲しい」

 エヴァは断固、反対の姿勢だった。

「まだまだ信用はできないわ。しばらくは上層部と接触を持たない部署にいるべきよ」

 ホアンも同じ意見だった。

「特別扱いする理由はないと思う。伝令など、簡単な任務から始めるのがいい」

 ルイスは不意に、マリアに顔を向けた。

「お前は、どう思う? エヴァと同様、信用が置けないか?」

 どうなのだろう? マリアは底辺の暮らしを知らない。ボネール島で、テレサが何を考えて暮らし、アンティルの未亡人となる決意をしたのか。

 ラジオで流れるルイスの声を聞き、救世主の存在を信じたのかもしれない。

「私は、何とも言えません。疑い出せば、際限がない。あなたに危険が及ぶような判断はできないわ」

 ホアンが、冷静な声を出した。

「エヴァ。君なら、具体的にどうするべきだと思う?」

「《グアダルーペ》の給仕なんてやらせたら、最新の情報をスパイされるわ。裏方に回って、拳銃の手入れでもさせたら、事故を装って暴発させかねない。ホアンたちとゲリラ的な抗議活動に参加させたら、味方を敵に売りかねないわ」

「それじゃあ、提案の一つにもならないだろう。少なくとも同志が、仲間だと判断した女性だ。どこかに居場所を与えないと。このままボネール島へ帰れと言っているようなものだ」

 ルイスが堪らず、声を上げた。

「もういい! 俺が決める! テレサは俺の側にいて、身の回りの世話をしてもらう」

 エヴァが胸の前で腕を組み、顔を歪めて嘲笑った。

「前に身の回りの世話をしていたミランダは、身重ですもんねえ」

 ルイスがムッとした顔で立ち上がり、なぜかマリアをじっと見た。

「誓って手など出さないさ! 神聖なるアンティルの未亡人だ」

 ここはルイスを信用するしかない。信用できなくても、信用する振りをするしかない。他に選択肢はなさそうだ。

 たとえテレサに手を出したとしても、一番がマリアだという事実に変わりはない……。

「わかりました。妻の私が認めます。でも、ルイス、どうか気をつけて。テレサの問題だけではないの。もっと周りに警戒してください。人を信じるのはいいけれど、あなたが捕まったら終わりなのよ」

 ルイスは嫌そうに、顔の前で手を振った。

「また、その話か! 俺は捕まらないさ。俺が捕まったら、アンティルじゅうの同志が立ち上がる。革命のきっかけになるのなら、この身がどうなろうと構わないさ」

 また、その話――そう愚痴りたいのは、こっちだった。いつもいつも、仲間を大事にしすぎて、自分の問題は軽んじる。ルイスの悪い癖だ。

 テレサが控えめに、口を開いた。

「サンタ・マリア、信じてくださり、ありがとうございます。私の愛は常にアンティルにあります。ルイスと間違いなど、絶対に起こしませんから、安心してください」

 エヴァが悔し紛れの様子で、吐き捨てた。

「あーあ、愛人候補生が、またできた。次から次へと、ルイスは女に不自由しないわね」

 エヴァはルイスとテレサがどうにかなる展開ばかり心配しているけれど。テレサはこれで、社会革命クラブの中枢に入り込む状況になる。

 もしテレサが、政府のスパイだったら……? 確かに、仲間が増えるたびに考えていたら、きりがないのだが。

 しばらくは何事もなく、日々が過ぎた。いつものように夜、忙しく立ち働いているところへ、ホアンがやって来た。

「いらっしゃい、ホアン。何か飲んでいくでしょ?」

 ホアンはチラシを手にしていた。

「そうだな……少し時間があるから。それより、マリア。これを、店の目立つところに貼ってくれないか?」

 マリアはチラシを受け取った。

『同志よ、聞け! ルイスの声を! 十二月十日、国民放送を乗っ取る』

「ラジオの放送乗っ取り? しかも軍が管理する国民放送を?」

 驚きに目を見張るマリアを、ホアンは笑顔で受け止めた。

「この国は、いくつもの島に分かれている。これまでのデモ活動では、首都近郊にしか影響を与えないんだ。テレサが、キュラソー島以外でも、同志が立ち上がるには、ラジオの放送乗っ取りが一番いいと、提言してくれたんだ」

 テレサの提言……。トップのルイスが動くほどの大きな影響力を持つようになったか。もっとも、ルイスは、テレサが来た時から、ぞっこんその思想に惚れ込んでいたが。

「危険はないの?」

「危険かどうかって判断するなら、日々が危険の連続なんだ。恐れていたら、何もできないしね。でも、今回のラジオ放送乗っ取りは、計画はばっちり練ってある。必ず成功させるよ。といっても、今回は僕は関与できないんだ」

 マリアは意外な思いに、眉根を下げた。ホアンは今や、社会革命クラブのナンバー・ツーだ。常にルイスの側にいて、一緒に行動するものと思っていた。

「その日までにボネール島に行って、ルイスのラジオ放送を聞いてすぐ、有志のデモを決起する。島の各地で鬨の声を上げるんだ。これを期に、社会革命クラブの人間を、二倍にも三倍にも増やす。来る武装決起の時までに、各島の武器倉庫を同時に襲える人数が欲しいんだ」

 武装決起のための準備。革命の日は、すぐ間近に迫っている。

「テレサの様子は、どう? もうスパイの嫌疑は晴れたの?」

 ホアンはテレサの名を聞いた途端、当惑の色を浮かべた。

「そうだね……ルイスは信頼しきっているよ。いつも黒衣で、ルイスの横に控えている。同志がルイスに提言する場合、テレサを通す時が多いんだ」

「まあ、じゃあ、テレサに情報は筒抜けなわけね」

 ホアンもテレサに対して疑惑を拭い切れていないようだ。憂い顔で、小さく呟く。

「もし万が一、テレサがスパイなら、この計画は台無しなんだ。テレサ主導で動き出した策だからね。ルイスは……確実に逮捕されるだろう」

 いつの間にか、アンティルの未亡人は、サンタ・マリア並の影響力を持っていた。立場を奪われた件を、気にしているわけではない。

 何よりルイスの身が心配だった。こうなったら、ルイスがテレサに手を付けていてもいい。テレサが心からルイスを愛し、ルイスのためだけを考えて行動していると信じたかった。

 ルイスの顔を見ることもできず、数日が過ぎた。今回のラジオ局乗っ取り作戦の準備で忙しいのだろう。マリアは会えない寂しさを我慢して、笑顔で《グアダルーペ》の給仕を続けた。

 一度、不意打ちのように、ルイスが店を訪れた。なんと、テレサを連れていた。マリアは笑顔が凍り付くのを感じた。

 一応、夫婦の挨拶として、キスだけは交わした。

 ルイスは言い訳がましく、「近くまで来たものだから」と囁いた。テレサがぺこりと頭を下げる。なんだか、「うちの人が済みません」とでも謝っているようで、気分が悪かった。

「二人一緒とは、仲がよろしいこと!」

「なんだ、マリア。テレサは俺の愛人なんかじゃないぞ。今や、社会革命クラブの貴重な頭脳の一人だ」

 二人は、誰にも邪魔されない奥の席に着いた。他の同志がじろじろ見ている。マリア、ルイス、テレサの三つ巴の争いだと、内心では、わくわくしているのだろう。

「ラジオ番組の乗っ取りを考えたのは、テレサだそうね」

 テレサは神妙に頷いた。

「はい。ボネール島にいた頃、なかなか首都における反政府運動の動向を把握できずにいました。ラジオで呼びかければ、各島で人々が蜂起すると思います」

 ルイスがテレサの手を取り、ニヤリと笑った。

「いい作戦だろう。十二月十日が、後の歴史で革命の始まり、と言われるかもしれない。準備は怠りなくやっておきたいのさ」

 だから、マリアの下に通っている暇はない、というわけか。

「それで? なんにします?」

「俺は、ジン・トニック。テレサには、ビールを出してやってくれ」

 ルイスが意味深に、テレサに視線を送る。テレサは黒い瞳を輝かせ、大きく頷く。なんだか十年来の夫婦のようだ。目と目で会話するなんて。

 ルイスが他の女に関心を持つ程度の問題なら、そろそろ慣れっこになっている。ただ……。

 ――本当に、大丈夫なのかしら?

 もしも、万が一、テレサが政府のスパイだとしたら? ラジオ局に突入した段階で、兵隊たちが待ち構えているだろう。

 いやいや、嫉妬心から、つまらぬ考えを抱いてはいけない。

 ただ、マリアは、ろくに教育も受けなかった女が、ラジオ放送を乗っ取るなんて、気の利いた計画を思いつくか、はなはだ疑問だった。

 ラジオ局の乗っ取りを直前に控えた十二月五日、ホアンは他の同志と共に、ボネール島に旅立った。マリアは途端に、不安になった。

「エヴァは? エヴァは、このまま首都に残ってくれるんでしょ?」

 エヴァは言いにくそうに口を開いた。

「それが、私は、シント・マールテン島(島の北半分はフランス領で『サン・マルタン島』と呼ばれる)に行く展開になったのよ。五島のうち三島から決起するのが一番と判断されて」

 マリアは、嫌な予感がした。

「その判断はルイスがしたとして、テレサの提案ではなかった?」

「そうかもね。ルイスの発案らしく発表されはしたけど、テレサの入れ知恵だと思うわ」

 マリアは思わず、エヴァの手を掴んだ。

「エヴァ、これは罠よ! 絶対にシント・マールテンになんか、行っては駄目。ルイスが逮捕されるわ」

 エヴァはしばらく、爪を噛みながら押し黙っていた。

「今回の蜂起には、社会革命クラブの威信が懸かっているのよ。それを知った上で、従わないとなったら……ルイスたちの活動が上手くいったとしたら、私は反逆者のレッテルを貼られるわ」

「他に誰も、テレサに疑惑を抱く人間はいないの?」

 エヴァが、参ったとばかりに両腕を広げた。

「とにかく、腰が低い女なのよ。あの身なりだから目立つのに。ルイスも重用しているから、皆、どんどん騙されちゃうのよね」

「電波乗っ取りの日、テレサはどこにいて、どういう活動をするの?」

 エヴァは、うっと一瞬、言葉に詰まった。しかし気を取り直し、深刻な顔で告げた。

「ルイスと一緒に、ラジオ局に潜り込むメンバーの一人よ。自分が言い出したから、最後まで責任を取りたい、とかなんとか言って。そうか! ルイスを軍部に直接、自分の手で売り渡すつもりなのかも。でも証拠は、ないのよね」

「それでも、ルイスに進言して、なんとか止めさせないと」

 しかし、決起行動の直前にルイスに会おうとなると、どうにも連絡が取れなくなっていた。

 誰に聞いても、ルイスが今、どこのアパートに匿われているか、わからなかった。

「私は妻なのよ! なぜ誰も、ルイスがどこにいるか、教えてくれないの? 大変な事態になりかねないのよ! 今回のラジオ電波乗っ取りは、なんとしても止めさせるべきだわ!」

 親衛隊員は当惑した顔のまま、マリアを宥めた。

「ずっと計画は秘密裏に進められたいたんだ。今度は他の島との連携もあるから、こちらが勝手に止めるなんて、もう、できないんだ」

 マリアは気が狂いそうだった。むざむざ、ルイスを政府に売り渡すのか!

 妻であるマリアがルイスの居場所を知らず、テレサはずっと共にいる。この狂った図式を誰も不思議に思っていない。

 マリアは天に祈る気持ちで、力なく膝を突いた。

 ――どうぞ、私の間違いでありますように! テレサはアンティルを憂い、やって来た、清純な女性でありますように!

 十二月十日、運命の日がやって来た。

 エヴァは一度、シント・マールテン島への船に乗ったが、出航ぎりぎりで飛び降り、友人のアパートに身を隠していた。ルイスが逮捕されたら、即、《グアダルーペ》の同志に事情を説明するべく、準備を進めていた。

 マリアがストールで顔を隠し、エヴァの下を訪れた。エヴァはラジオのチューニングに忙しかった。

 マリアはストールを脱ぎながら、はらはらした思いで問いかけた。

「放送は、まだ始まらないの?」

「もうすぐよ。もうじき、時報が鳴る。そしたら、ニュースの時間になるわ。そこを乗っ取る手はずなの」

 やがて、十時の時報が鳴った。マイクの雑音が、しばらく続いた。

「――緊急ニュースをお知らせします」

 緊急ニュースって……。ただのニュース番組ではなかったのか?

「――先程、国営ラジオ局を占拠する計画を持った、社会革命クラブのリーダー、ルイス・ウールデンを拘束しました。まもなく、国家侮辱罪で逮捕されるでしょう」

 マリアは「ああああ!」と慟哭し、エヴァの胸に縋った。

 やっぱり、やっぱり、マリアの嫌な予感が当たった。テレサは政府のスパイだったに違いない。

「――他に拘束された人間は全て、社会革命クラブのメンバーの男四人、女一人で――」

 拘束された人間の中に、女性が含まれている。テレサに違いない。

「どういうこと? テレサも逮捕されたようだわ。政府のスパイじゃなかったの?」

 エヴァは冷静だった。

「まだ、わからないわ。でも、私たちがテレサを疑っている間に、別のスパイが潜り込んでいたのかもしれない。ともかくルイスは見事に、敵の罠に填ったわけよ」

 こうなると、普段は何気なく話をしていて、ぜんぜん警戒していなかった人間が、スパイだった可能性も出てくる。

 いったいこれから、どうしたらいいんだろう? ルイス不在の社会革命クラブは、存続すら危うくなる。

 エヴァが断固とした調子で口を開いた。

「とにかくすぐに、上層部で会議をしないと。ホアンが帰ってくるまで待っていられないわ。ここ最近、仲間になった人間を片っ端から尋問するのよ!」

 マリアとエヴァは、たぶん騒然としているであろう《グアダルーペ》に急いだ。

《グアダルーペ》の扉を開けると、男たちが一斉に振り返った。

「サンタ・マリア! ルイスはどうなるんですか?」

「エヴァ! シント・マールテン島に行ったんじゃなかったのか?」

「俺たちはこれから、どうすればいいんだ!」

 マリアが大きく手を上げ、皆を制した。

「どうか、落ち着いて。不安になって騒ぎ出したら、スパイの思う壺だわ」

 すると男たちは顔を見合わせ、次に一斉に、地下室へと向かう扉を見つめた。

「じゃあ、やっぱり、アンドリューはスパイだったのか!」

 マリアは驚きに目が開いた。もう既に、スパイ容疑を掛けられた人間がいるのか。

「アンドリュー? アンドリューって、誰?」

「つい最近、社会革命クラブに加わった男だ。オランダ語もフランス語も流暢で、あちこちの伝令に使わせていたんだが、今朝、軍の人間に電話をかけているところを、相棒のジョーンズが押さえたんだ」

「今、フリオとキースが尋問をしているんだ。マリア、エヴァ、是非とも合流してくれ」

 ここで事情を聞くより、直接本人を尋問したほうが早そうだ。エヴァがマリアの背に手を当て、「行こう」と小さく呟いた。

 マリアは頷き、二人は地下室への重たい扉を開け、階段を下りていった。

 褐色の髪に太い眉毛の男が、椅子に座らされ、フリオとキースが両側に立っていた。マリアたちの足音に、顔を上に向けた。

「エヴァ、シント・マールテンに行かなかったのか!」

 エヴァは、やれやれと掌を上にした。

「だいぶ悩んだんだけどね。スパイがいる可能性がどうしても頭から消えなくて、乗った振りして潜伏していたの。でも、この男がスパイだとは思わなかったわ」

 キースのほうが頭に血が上っているらしく、何度も椅子の脚を蹴り上げていた。スパイ容疑を掛けられたアンドリューの顔は、血だらけだった。

 エヴァに続いて、マリアが地下室の石畳に足を下ろす。

「本当に、この男がスパイだったの?」

 キースがアンドリューの胸倉を掴み、睨み付けたあと、椅子に押し戻した。

「ああ。たった今、認めたところさ。俺たちは迂闊にも、この男に伝令を頼んでいた。それらの情報が全て、政府に筒抜けだったんだ」

 アンドリューは、ペッと床に唾を吐いた。

「アンティルの掃き溜めに住む屑どもが! お前たちに国を自由にされて、堪るかってんだ」

 エヴァが深刻な顔で、フリオに尋ねた。

「人質にして、ルイスを奪還できないかしら?」

「無理だな。軍でもはみ出し者だったらしくて、軍人らしい潔さなんて、欠片もない。軍だって、こんな男、使い捨てだったろう」

 どうやらマリアたちは、まったく見当違いの疑惑を、テレサに向けていたようだ。

 エヴァは悔しそうに、がしがしと頭を掻いた。

「ああ、もう! ルイスもホアンもいない状態で、私たちは、どうすればいいのよ!」

10

 軍事政権の裁判は、時間を置かない。逮捕された、ルイスたち社会革命クラブの人間たちは、午後にも裁判に掛けられた。

《グアダルーペ》の店内に、これ以上は入れないくらい同志が集まり、息を殺して、ラジオ放送を聞いていた。

 マリアは、ひたすら神に祈っていた。

 ――どうか、どうか死刑にだけはなりませんように!

 禁固刑なら、まだ未来が見える。時間ができる分だけ、こちらも対処の仕方を考えられる。軍を相手に、奪還できるほど、こちらは武器が揃っていないが。

 生きてさえいれば、ゆくゆく脱走する計画を立てたっていい。

 ラジオのぶつぶつという音の後に、国家が流れてきた。ルイス逮捕後、初のニュースだった。

「――今日十日、ラジオ局を襲撃し、逮捕、告訴されていた、社会改革クラブ・メンバーの判決が下りました。首謀者のルイス・ウールデンは禁固三年の有罪――」

 女の「きゃー」という歓声が上がった。マリアも信じられない思いだった。

「禁固三年? 今、三年って言った? 三年で済むのね?」

 軍のことだから、邪魔者は抹殺せよの精神で、死刑を求刑するのではと危惧していた。なんとか命は保証された。マリアはその場に座り込み、大きく安堵の息を吐いた。

 ホアンがマリアの背を抱いた。

「きっと、その程度の時間が経過すれば、社会革命クラブなんて解散すると考えているんだろう」

 エヴァもホッとした様子で、笑顔を見せた。

「今回ばかりは、政府の認識の甘さに感謝しなきゃね」

「――その他、ジョージ・ヘルト、ウィレム・スティレット、ミリッヒ・ウィルセンの三名は、それぞれ禁固二年。留置場内で自殺した一名、テレサ・オルテガは、裁判中止となり――」

《グアダルーペ》が騒然となった。

「テレサが自殺? まさか、そんな!」

「自分が立てた計画だから、失敗して責任を感じたんじゃないのか」

「何も、死ぬことはなかったのに……テレサは純粋過ぎたんだ」

 マリアも呆然とした。計画に失敗した責任を感じて、自殺?

「なんで……なんでそんな真似するのよ! 生きていてこその人生じゃないの!」

 椅子に座っていたエヴァが、脚を組み替え、吐き捨てた。

「これでテレサは、聖人の一人となったわね。アンティルを憂い、国の喪に服して未亡人となり、神話を作った」

 ルイスとテレサはたぶん、肉体関係はなかっただろう。でも、死してテレサは聖女となった。ルイスは生涯、テレサを忘れられないだろう。

 成就しなかった恋にも似て、ロマンチストのルイスの心臓を鷲掴みにした。

 とうとう、マリアが勝てない女が現れた。

 ルイスにとって一番の女でなくなったら、身を引くつもりだ――でも、二番になっても、一番の女性がこの世にいなかったら、どうすればいいのだろう?


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