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南国のマリア  作者: 霧島勇馬
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第三章 暗いトンネルの中で

   第三章 暗いトンネルの中で

 こうして、一九四八年十月二十二日、アンティルは軍事国家の道を歩き始めた。だが、世界的に、このクーデターはほとんど話題に上ることも、非難されることもなかった。

 何よりの理由は、アンティルを含むラテンアメリカの国々のほとんどが、軍に政治を支配されていたせいだった。

 ベネズエラでは民主行動党と軍人愛国同盟による共同政権が樹立されていた。

 エクアドルでは、一九三一年のクーデターで政権を取ったベラスコ・イバラの長期政権が続いていた。

 パラグアイも長いこと、軍政が続いていた。

 アルゼンチンはペロン大佐が大統領になり、独裁政権。どちらを見ても、政府の主要人物といえば、軍人だった。

 アルメシアの前大統領ゲルドフは、間一髪のところで、アメリカに亡命した。

 終身大統領となったヤンセン大佐は、軍右翼の野心家で、まだ四十一歳の若さだった。ヤンセンが死ぬまで待っていたら、ルイスは年老いて、使い物にならなくなる。

 ゲルドフの時代から、政府はアメリカとオランダの言うなりで、主要輸出物を安く買い叩かれていた。ヤンセン始め、軍事政権も、アメリカとオランダに忠実であろうとしていた。

 要するに、上層部がいい思いをしていればいい。底辺の人間たちのために政治を行おうという人間がいない。

 そんな中で、ルイスは諦めていなかった。このまま体からはち切れんばかりの情熱を、地下でくすぶらせているなんて断固できない。

 支援者の中には、隣国への亡命を勧める者もあった。ルイスは聞き入れなかったという。

「冗談じゃない! 俺だけ亡命したら、国民を裏切る真似になる」

 軍は今のところ、ルイスを指名手配に懸けたりは、していない。しかし、ちょっとでも目立つ行動をしたら、どうなるか。

 以前の政権下でも、ルイスを殺そうとする輩は存在した。まして今度は軍政だ。ルイスの危機は、いっそう増した。

 政府内にいた革命人民党員は、全て、追い払われた。ルイスは野心のない振りをして、革命人民党から離脱した。

「俺はまだ、一介の学生だ。大学で世界や経済問題を真面目に学びたいだけなんだ」

 ウィンドラー大学にも復学した。常にスパイの目を意識しながらの大学生活が再開された。

 マリアは実に変則的な結婚生活を送る羽目になった。

 ルイスが今、どこに居を構えているか、マリアには知らされなかった。マリアはエヴァの元に身を寄せ、《グアダルーペ》から昼は大学に通い、夜は店の給仕として働いた。

 大学は、夫婦が顔を合わせられる唯一の場所となった。

 また、ルイスを守るのと同じように、マリアも屈強な男たちによって始終、守られていた。どこへ行くにも、ルイスの親衛隊員が従いてくる。鬱陶しいったらない!

 ルイスと二人の時間は、安ホテルで取るしかなくなった。精力的なルイスのことだ、マリアと会えない日々が続けば、他の女に手を出すだろう。それは避けたかった。

 だから、ルイスに誘われたら、マリアは決して断らないよう気をつけていた。

「親衛隊員たら、私のトイレにまで従いて来かねないのよ。さすがに参るわ」

 ルイスは裸で横に寝て、マリアの髪を弄っていた。

「女の親衛隊員がいるといいんだけどな。俺を慕って加わっている事情を考えると、お前の護衛には、できないんだよな」

「私さえ、いなくなれば、後釜に納まれると、考えそうなわけね」

「ま、そんなところだ。不便を掛けるが、我慢してくれ。そう長い間の問題じゃないから」

 マリアは、ぽかんとした。

「どういう意味?」

「俺もこのまま、政府の機嫌を取るような真似ばかりはしない。《グアダルーペ》を本拠地に、地下活動を開始する」

「地下活動って、政府転覆のための? 相手は軍隊よ! 危険だわ」

 ルイスはマリアの胸から腰にかけてのラインに、すうっと指を這わせた。

「このままアンティルを見捨てるのか? 危険は覚悟の上だ」

 以前は、ルイスを慕う女たちの問題を考えていればよかった。でも今は、ルイスの身の危険を常に考え、行動しなければならない。

 もう、甘い新婚生活なんて、望まない。望むのは、ルイスの安全だけだ。

「どうぞ、一人で突っ走ったりしないでね。私も、協力できる問題があれば、なんでもするから」

 ルイスは嬉しそうに、マリアの頬に耳に、キスをした。

「なんたって、お前は、サンタ・マリア・ウールデンなんだからな。俺たちが活動する上で、モチベーションを高く保つため、お前の力が必要だ」

「サンタ・マリアの加護の下、ルイスは決して失敗しないわけね」

「失敗を恐れはしない。けれど、なるべく小さな成功を積み重ねていきたいからな。最終目標は、首都奪還だ。これから忙しくなるぞ。秘密裏に同志を募らなければならない。俺の妻として、お前一人が、交渉に当たる展開だって考えられる」

 これまでのルイスの活動は、被選挙権が取れる年齢がまだ先だったせいか、どこか暢気だった。でも、これから先は違う。

 いわゆる大人の支持者を集めなければならない。大学生の暇潰しではないと、説得して回らなければならない。

「心細いなんて、言っていられないわね。大丈夫よ、私、頑張る。ルイスのため、社会革命クラブのため、アンティルのため、働くわ」

 ルイスが、ぎゅっとマリアを抱き締めた。

「それでこそ、俺のマリアだ。お前を先頭に戴いて、俺たちの活動は続く。きっと勝利を勝ち取れると信じて、どこまでも行くぞ!」

 マリアは元気よく、「はい!」と頷いた。

 どこまでも従いていこう。決して平坦な道のりではない。そんなこと、ルイスを夫にと決意した時から、決まっていた。

 マリアが今、胸に掻き抱いている存在は、アンティルの革命児だ。一生のうちで、人は何を成し遂げられるか? ルイスと共に歩いていたら、きっと社会の大変革に立ち会える。

 ルイスが情熱のまま、マリアに激しいキスをした。

 心配があるとすれば、この有り余る情熱だった。変則的な結婚生活で、マリア一人で我慢できるのだろうか?

 ルイスを匿う女の中には、誘惑者だっているだろう。

 マリアは目を瞑り、小さく首を振ると、嫌な思考を追い出した。

 今はルイスと二人きりだ。限られた時間を、大いに楽しもう。

 午後の授業を終え、マリアが《グアダルーペ》に帰って来ると、ホアンが若い女性を連れて来ていた。

 マリアは明るい笑顔を心がけた。

「ホアン、いらっしゃい」

「やあ、マリア」

 横の女は、マリアをじろじろ見ていたが、自分から自己紹介をする気は一切ないようだった。なんというか、マリアに対して敵意が剥き出しだった。

 ホアンが女を紹介した。

「こちらはアリシア・コルテス。社会革命クラブの頭脳の中では、珍しい女性だよ」

 マリアは笑顔で、手を差し出した。

「よろしく、アリシア。マリア・ウールデンです」

「知ってるわ。私たちの仲間で、こんな色が白くてブロンドの女性なんて、他にいないもの」

 エヴァがニヤリと笑った。

「マリア、この子もご多分に漏れず、ルイスの信望者よ。あんたを不快に思っているといっても、後ろから不意打ちなんて、絶対しないだろうから、安心しなさい」

 マリアも、笑って受け流す余裕ができていた。

「ええ。ルイスに対して敵意を剥き出しにする人間のほうが問題だわ」

 アリシアは拗ねたように、呟いた。

「……大人なのね。私は駄目だわ。ルイスの最愛の人を前にして、冷静でいられない」

「いいのよ、気にしないで」

 マリアはアリシアに、同情さえしていた。それだけ、ルイスの愛を確かに感じていられるからだ。

 ホアンは何やら大きなポスターを掲げ、エヴァに説明をしていた。なんのポスターだろう? マリアは無邪気に問いかけた。

「ホアン、それ、なんのポスター?」

 ホアンより先に、エヴァが答えた。

「新しい、社会革命クラブのエンブレムができたのよ」

 ブロンドの髪をなびかせる、女神と思しき女性が、青い色の旗を掲げている。

「これ、私?」

 ホアンが満足げに頷く。

「青い旗は、ウールデン政権が確立されたときに、アンティルの国旗となる。アリシアの絵だ。上手だろう?」

 マリアは口に手を当て、ほぉっと息を吐いた。

「素敵だわ。これを見ていると、アンティルにはまだ未来が残されているんだ、ってわかる」

 まさか、クラブのエンブレムに、マリアそのものが現れるとは思わなかったが。

「でも、このエンブレムを掲げて、どんな活動をするつもりなの? 大っぴらな革命運動となると、ルイスはじめ、首謀者が軍に狙われるわよ」

「ルイスも地下に潜ったことだし、当分は、非公式の集会で使おうと思うんだ。もっともっとルイスのシンパを増やしたいし、資金援助してくれる企業も、欲しいところだ」

 エヴァも頷きながら、会話に加わる。

「罪の街のすぐ近所の会場で会合を開けば、軍の介入があっても、すぐ逃げ出せるしね。なんといっても地の利があるわよ。この街はどこがどうなっているか、危険性も含めて、まだまだ知られていない場所なのよ」

 ホアンが、嬉しそうに頷いた。

「じゃあ、さっそく会場探しだな。今現在、僕たちを応援してくれている、アデル物産とカラミティ財団が、提供してくれるだろう」

「街の入り口から五ブロック先に、《カラミティ・アート・ホール》があるわよ。あそこを使わせてもらいましょうよ」

「いい考えだ」

 マリアは話を聞いているうちに、なんだか嬉しくなってきた。軍が政治を掌握して、お先真っ暗なトンネルの中に入ったみたいだった。

 でも、暗闇の中にも、光は差す。ルイスなら国を変えられるとの信念に従い、行動していけば、きっと未来は開けるだろう。

 マリアは拳を作り、頭上に掲げた。

「頑張りましょう! 私でできる問題があったら言ってね。なんでもやるわ」

 エヴァが「頼もしいこと」と眉尻を下げた。ホアンも笑顔だった。アリシアは、といえば、笑顔でこそなかったが、もう仏頂面はしていなかった。

 夕方近くなり、ルイスも《グアダルーペ》の会合に合流した。ホアン、エヴァ、アリシア、マリアの他、親衛隊員のフリオとキース、他に女二名が集まった。女たちはアリシアの横にいて、マリアをじっと見詰めていた。

 店の外では護衛に番をさせている。会合の最中に踏み込まれる心配は、ほとんどない。ルイスがまず、口を開いた。

「当面の問題は、金だな。どんな活動をするにしても、金が掛かる。どこを財源にするか、だ」

「軍におもねる企業は、駄目だな。ルイスに心酔する大手企業があるといいんだが」

 そのとき、女の一人が口を開いた。

「ヒューズ石鹸は、何もしてくれないの? マリアの実家でしょ?」

 マリアも、できるものなら、実家に頼りたくはなかった。ダニエルとの縁談を捨て、ルイスの妻になったのだから。

 マリアは申し訳ない思いで、口を開いた。

「ごめんなさい。今は実家とは、縁を切った状態なのよ」

「じゃあ、その縁を復活させればいいでしょ」

「私がいた時からずっと、アメリカと仲良くしていた家風だわ。ルイスのバックアップは望めそうにないの」

 ルイスが女たちのやり取りを制した。

「俺も、ヒューズ石鹸から資金援助は望んでいない。マリアの負担になるだけだしな。でも、マリア、お前の知り合いで、協力してくれそうな家は、ないか?」

 確かにマリアが知る連中ときたら、とびきりの金持ちばかりだった。同時に、アメリカやオランダの言いなりでもある。

 外国勢力を排除するルイスの提案には賛成しないだろう。

 でも、こんな形でルイスを応援できるのなら、なんとしても頑張りたいところだ。

「そうね……ほとんどが、アメリカの犬だけど、気骨のある人物は何人か知っているわ。ルイスの信条を話してみて、援助してもらえるように、頼んでみます」

 ルイスが愛おしげにマリアを抱き寄せた。

「それでこそ、俺のサンタ・マリアだ。でも、誤解しないで欲しい。バックに金の成る木が従いているからって、お前を愛したわけじゃないんだからな」

 マリアはにっこり微笑み、「わかっているわ」と応えた。これでやっと、具体的にルイスの役に立てる。

 ある程度の当てはあった。ダニエル以前に、マリアに求婚した経緯を持つ男、ヨアヒム・ジョーンズだった。

 アンティルは主に、三つの島から成っている。首都ウィルムスタットのあるキュラソー島、二番目に大きな都市クラレンダイクがあるボネール島に、リーワード諸島の一部からなる。

 アンティルの金持ち連中は、よく首都ウィルムスタットを離れ、ボネール島の大都市クラレンダイクにバカンスに来ていた。

 ジョーンズ産業は、アンティルのサトウキビ加工を一手に引き受けている大企業だった。先日、父のアントニス・ジョーンズを引き継ぎ、会長に収まった長男のヨアヒムが、季節外れの休暇をクラレンダイクで楽しんでいた。

 マリアは電話をかけ、ジョーンズと直接交渉をするべく、クラレンダイクに向かった。

 今回、同行者としてホアンが選ばれた。その上、親衛隊員を二人も付ける。

 マリアは、一人で行けると断ったのだが、連れて行けとルイスが言ってきかない。

「敵陣に乗り込むようなもんなんだ。あっちは、マリア奪還計画を立てているかもしれない。いいか、決して一人になるな」

 ホアンも納得顔で頷いていた。

「ヒューズ家にしてみたら、ルイスみたいな革命論者に、あることないこと吹き込まれて、洗脳状態だと考えているだろうからなあ」

「まあ! 私はルイスを愛しているし、社会革命クラブの意義にも賛成よ」

 ホアンが、冷静にマリアに教えてくれた。

「でも、ルイスと知り合う前は、政治にあまり関心がなかったろう? ご両親や身内の人間は、きっとルイスに丸め込まれ、いいように利用されていると考えるのさ」

「心外だわ。私は丸め込まれたりしてないのに」

「僕らだって、そうさ。反政府運動をやっていると両親が知ったら、きっと止めさせようと苦労するだろう」

 マリアは当惑のまま、口に手を当てた。

「まあ……お父さまとお母さまは、危険だから止めさせようとするでしょうね。でも、それも、愛故なのよね」

 ここでルイスが、話にしゃしゃり出てきた。

「おまえも、ヨアヒム・ジョーンズは、かつて結婚の話が出ていたんだろう? ヨアヒムの愛なんかで、俺を裏切ったりするなよな」

 そんなわけで、マリアとホアンは今、ボネール島に向かう船の甲板に並んでいた。

「なんだか恥ずかしいわ。ルイスのお使いに、こんなに大勢ぞろぞろ」

 ホアンはマリアの苦笑に合わせ、にっこり笑った。

「ルイスとは付き合いが長いけど、一人の女性をこんなに一途に思っているなんて、初めてだよ」

 そうか。ホアンは、マリアが噂にだけ聞くルイスの女性遍歴を、よく知っているわけか。

「皆、私を腫れ物に触るように扱うのが、不満だわ。私も、革命家の妻として、もっともっと力を発揮したいと思っているのよ」

 ホアンは、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべた。

「君は、それでいいんだよ。たとえば、政府と戦争になったとする。エヴァなんかは、武器を持って戦いたいと願う側の女性だ。ルイスのために命を懸けるといっても、いろんなやり方があっていいんだ」

 一瞬、マリアの心は沈んだ。前線で共に戦いたいと願う女たち……彼女たちには、マリアは勝てない気がした。

 ヨアヒムとマリアの会合は、ホアンたちの指示通り、高級ホテルの一室で行われた。ヨアヒムが、マリア奪還のために何らかの作為をしてくる、との警戒からだった。

 部屋にマリアが入っていくと、大きな部屋の奥の椅子に座っていたヨアヒムが立ち上がった。以前に会ったときと同じ、聡明な瞳と、優しい笑顔のままだった。

「ようこそ、マリア、待っていたよ」

「休暇先に押しかけたりして、ごめんなさい。あなたが身軽な場所のほうが、社会革命クラブの仲間は安心みたいで。その……私を奪還しようなんて、考えていないわよね?」

「ここでは約束通り、君の話を聞こうと、お母さまたちを納得させたよ。もともと、君との縁談が纏まらなかった経緯から、うちの両親は、ヒューズ家に冷たい」

 マリアも少しだけ安心した。今日はマリアがヨアヒムを説得する役回りだ。逆になっては困る。

 マリアは横にいるホアンを紹介した。ヨアヒムと握手を交わし、三人はそれぞれソファに腰を下ろした。

「ヨアヒム、縁談を断っておいて、図々しくお邪魔して、ごめんなさい。でも、あなたなら、ルイスの考えに賛同してくれると見込んで、ここまで来たのよ」

 ヨアヒムは、大きく頷いた。

「今回の軍によるクーデターは、納得いかないね。こんな横暴な真似を、本来なら絶対に国民は許しちゃいけないんだ。それなのに、皆は骨抜きにされている。確かにルイスは、アンティルの光なのかもしれない」

「あなたが営むサトウキビなどの農産物を、安値でアメリカに買い叩かれないようにしたいと願っているの」

「それは、いい考えだね。本来なら、僕らが作り出している産物は、国のために利用されなければならない」

 話がわかる男で、ホッとした。しかし主義主張が一緒だからといって、援助までしてくれるだろうか?

 ここは不安を呑み込み、頼むしかない。

「ヨアヒム、どうかジョーンズ産業で、ルイスを応援してくれないかしら? 政府に発覚しないよう、こちらも最善の処置を採るから。どんな活動をするにも、資金援助が必要なのよ」

 ヨアヒムは口に拳を当て、しばらく考え込んでいた。

「ルイスは、君を幸せにしているかい?」

「ええ、とても幸せに思っています」

「実はね……ルイスの良くない噂を聞いたんだ」

 マリアは一瞬、意味がわからなかった。慌てて横のホアンを見た。ホアンはわかっている様子で、堅い表情をしていた。

 ヨアヒムが、ホアンを非難するように尋ねかける。

「君たちは、マリアに良くないと思われる情報は、伝えていないのか?」

 マリアが割って入った。

「どういう情報なの?」

 ヨアヒムが口を開くより先に、ホアンが答えた。

「……ルイスの信望者である女性が、妊娠したんだ」

 マリアは声も出なかった。

 ショックを受けたマリアだったが、なんとか気持ちを落ち着けようとした。

 今ここで、ルイスに対して腹を立てたら、ヨアヒムは確実に、マリアを説得に懸かるだろう。そんな不実な夫に付き合って、革命になんて興じていないで、我々の世界へ戻ってこい、と。

 マリアは平気な振りして、無理に笑顔を作った。

「そうなの……私は、ぜんぜん気にしないけど」

「本気で言っているのか? 君は、こんな真似を許すのか!」

 なんとしても、ルイスの弁護をしたかった。ルイスの下半身の問題で、大口の支援者を失いたくない。

「でも、今この時点で妊娠が発覚したのなら、私と恋に落ちる前の話だわ。その方には、申し訳ないと思います」

 ヨアヒムが、ふむと首を傾げた。

「なるほど。確かに、そういう話になるかもな」

「ルイスの武勇伝は、このホアンからよく聞いているわ。でも、私と結婚してからは、私一筋なはずです。それはもう、窮屈に思えるくらいに、愛されているのよ」

 ホアンが一呼吸を置いて、マリアの言葉を支持した。

「ルイスは女好きな性格でしたが、マリアに対するほど、真摯で、情熱的な愛はありません。そこは、信じてください」

 ヨアヒムは、マリアにというより、ホアンに対して意見を述べた。

「あなたはルイスをマリア以上に長い時間、知っておられるようだ。私は、ルイス・ウールデンに出資する決意です。でも、条件があります。縁はなかったとはいえ、私は今も、マリアを愛している。マリアを泣かせるような真似は絶対しない。これが私の条件です」

 ヨアヒムの言葉は嬉しかった。でも……難しい条件のような気がした。

 妊娠した女性が、もうルイスと別れているかどうかは、わからない。案外と、初めて見る、息子か娘の命を、喜んでいるかもしれない。

 今度はしっかりとマリアに向き直り、はっきりと告げる。

「マリア、君が幸せでいる限り、出資しよう。君が苦しんだり、泣いたりする真似をする男だとわかったら、即刻、縁を切る」

 女関係の話題が、これ以上には広がらないことを祈るのみだが……。それにしても、ヨアヒムの言葉は嬉しかった。

 ルイスに出資してくれる問題にしても、マリアを気遣う気持ちにしても。

 だってマリアは、平気ではなかったから。自分でも驚くほど、冷静にヨアヒムには対処しているが、頭はガンガンと鳴ったままだった。

「ありがとう、ヨアヒム。約束します。私はずっと、幸せでいる、と」

 その日の夜のうちに、マリアたちは沖に出た。夜の月明かりの中、マリアは甲板で夜風に吹かれていた。

 ルイスには、ヨアヒムが提示した唯一の条件を、電話で話した。短い時間だったが、信じて欲しい、との内容だった。

 それでも、ルイスがマリア以外の女に手を出した証拠は、消えない。

 子供は……どうなるのだろうか。妊娠した女性は、きっと、産むだろう。ルイスも、それを望むだろう。何しろ、ルイス・ウールデンの遺伝子を継いだ子が生まれるのだから。

 ルイスがもてる事実もわかるし、女が好きなんだろうとも理解している。でも、マリアが一番先に妊娠し、ルイスの子を産みたかった。

 不意に、冷たい水飛沫が、マリアの瞼に掛かった。なんだか泣きたくなった。この暗闇なら、誰も見ていないだろう。

「マリア、こんなところにいたのか」

 背後にホアンの声を聞き、マリアは慌てて、瞼を擦った。笑顔を用意して、振り返る。

「ホアン、もう寝たんじゃなかったの?」

「……泣いていたのか?」

 マリアは無理して口の端を上げた。

「ううん、水飛沫が瞼に当たっただけよ。冷たいったらないわ」

 ホアンは無言で頷くと、マリアの横に立ち、海面を見つめた。

「ルイスの子供の件、言えずに、済まない」

「いいのよ、無理ない話だと思うわ」

「今回の件は、君の論理により、許すとするけれど、今後もし、女関係が発覚したら、どうするつもりだ?」

 どうなんだろう。あまり考える暇もなかった。大事の中の小事で済まされるだろうか?

「要は私が、いかに寛大になれるか、なのよね」

「それは、違うよ。そんなふうに、男の我が儘をを聞くだけの女性には成り下がらないで欲しい。嫌なときは、はっきり嫌だと言うんだ。ルイスだって、君の愛は失いたくないから、行動をもっと考えるだろう」

 マリアは、なんだか可笑しくて、小さく笑った。

「考えたからって、抑えられるものでもないんでしょ?」

 ホアンも苦笑した。

「そうなんだよな。でも、君にばれないよう、ルイスは必死になると思う。そのぐらいの苦労は、させないとな」

 マリアは、ふと思い立ち、笑顔を引っ込めた。

「もし、私が一番の女性でなくなったら、ルイスの下を去ろうと思うの」

「そのときは、止めないよ」

「ありがと」

「君に愛想を尽かされたら、ルイスの命運もそこで尽きるだろうな。なにしろ、サンタ・マリアから見捨てられるんだ。これまでのイメージ戦略が、ルイスに牙を剥くんだ。どうかマリア、忘れないで欲しい。常に君が主導権を握っている事実を。君がルイスを捨てたら、国民もルイスを捨てるだろう」

 マリアは少しだけ、気分が良くなった。

 襤褸雑巾のように捨てられる側は、女性だけと決まっているわけではない。マリアの決断次第で、ルイスは息の根が止まる。もちろん、最悪の選択肢を選びたくはないが。

 しばらく、無言で二人は海面を見つめた。最初に口を開いたのは、ホアンだった。

「今日、初めて、君たちが住む天上界のような世界を垣間見たよ。あのホテルの部屋、僕の育った家が何個分あるかな」

 マリアは当たり前の世界だったから、何も感じなかった。しかしホアンは同じ国の人間として生まれて、ヨアヒムように生きる世界が違う人間を見て、何を感じただろうか?

「ヨアヒムや、私たちのような存在がいてはいけないと考える革命家も、いると聞くわ」

 ホアンは大きく頷いた。

「社会主義論者たちだね。ラテンアメリカ全体に流れるポピュリズムを考えたとき、社会主義思想は、無視できない存在だ」

 大衆主義、民族主義とも訳されるポピュリズムは、ラテンアメリカ諸国の独立を考えたとき、無視できない言葉だった。

 一般大衆の支持のもと、既存のエリートを排除しようとする考えを理想に掲げ、政府に反発する指導者たちが注目を浴びていた。一九四〇年代という特有の時代と、長年に亘って植民地として歩んできた歴史が、そうさせていた。

「ルイスとホアンは、どうなの? 特権階級を排除し、皆が平等の世界を構築したほうがいいと思う?」

「僕もルイスも、そこまで極端な考え方はしていない。ソ連を見ても、社会主義国家が、理想通りに動いていない事実は、わかっているし」

「まあ、そうなの」

「ただ、教育を受ける機会を均等にするべきだし、貧民救済は、必要だね。何より、今のアンティルは、国民のものではない。国民の利益を考えた、国民主権の国家にしていく。これが、僕やルイスが考えるアンティルの未来像だ」

 ルイスが大統領になるのはよしとして、ホアンは政府のどんな役割を果たすのだろうか?

 するとホアンから、意外な応えが返ってきた。

「アンティルが無事にアンティル国民のものになったら、僕の役割は、ここでは終わる。僕は政治家には、なれないと思うんだ。他の国で、僕のような人間が必要とされるなら、進んで出かけていくつもりさ」

 政権を取っても、その中に居続けるつもりがないだなんて。ホアンのような敬虔な気持ちを持った人間こそが、政府には必要だと思うのだが。

「根無し草が性に合っているのさ。今後も、家庭を持つつもりもない。でも、子供は欲しいかな。未来の象徴だしね」

 遠くない先、ホアンと別れる展開になるのだろうか?

 ホアンはマリアにとって、ルイス以上に大事な存在になろうとしていた。孤独な思いに、マリアはぞくりと寒気がし、両腕で自分の体を抱いた。

 罪の街から五ブロック離れた場所にある《カラミティ・アート・ホール》には、社会革命クラブの面々が集まっていた。

 ジョーンズ産業の援助を取り付けて帰ってくると、ルイスが満面の笑みで二人を出迎えた。

「マリア、よくやった! ホアンもご苦労だったな」

 マリアはただいまのキスをすると、ルイスの横に並んだ。ルイスは親衛隊員たちに、熱弁を振るった。

「サンタ・マリアが我々のために、ジョーンズ産業の援助を取り付けてきてくれた。これで、我々の活動は次の段階に入ることができる」

「次の段階とは?」

 キースの質問に、ルイスは堂々と答えた。

「革命軍の武装化だ。金があれば、武器が買える。地下に潜って、訓練もできる。俺たちが転覆しようと考えている存在は、軍事政権だ。最終目標は、軍の武器庫を襲撃し、勝利することだ」

「誰か、武器のエキスパートが指導してくれるのか? 僕たちの中には、まともに武器なんて握った経験もない人間が多いんだぞ」

 ルイスの言葉は、しっかりしたものだった。

「半年前、コロンビアでクーデターが失敗に終わった。そのときの武装兵士たちと連絡を取ってある。コロンビアの人間だが、アンティルのため、我々を武装集団に生まれ変わらせてくれると、確約を取った」

 親衛隊員たちは口々に「いよいよだな」と興奮していた。

 革命軍の武装化――ルイスはいよいよ、武器を取る。死と隣り合わせの危険な作戦に、身を投じていくだろう。

 エヴァが大きく手を上げた。

「ルイス、武装する兵士には、女も志願したいわ」

「おお、男より勇気あると自認する女は志願しろ。ただし、訓練は厳しいぞ」

「もちろん、わかってるわ」

 エヴァの横にいた女たちが、嬉しそうに飛び跳ねていた。

 マリアは、やれやれと諦めの息を吐いた。

 エヴァは当然として、これでルイスの周りには、戦うときまで女がまとわりつく展開になる。戦いを経験していくうちに、絆は深いものになるだろう。

 ――私も今から、身を引く覚悟をしておいたほうがいいわ。

10

 会合が終わり、ルイスとマリアは《グアダルーペ》の二階に落ち着いた。ルイスはマリアの肌をひとしきり楽しみ、暢気に葉巻を喫っていた。

 これからは、ルイスと接する、ひとときひとときが大事になる。これが最後かもしれないと覚悟しながら、愛を精一杯に与えていかないと。

「ルイス、無事で勝ち取ってこその政権よ。途中で銃弾に斃れたりしないでね」

 ルイスはマリアの言葉に、柔和な笑みを浮かべた。

「ありがとう、マリア。確かに、俺が死んだら元も子もない。危険の中を生き抜くのが、本当の革命家なんだ。俺は、本物だと証明してみせる」

「そうよ。子供の顔も見なくちゃ」

 マリアは〝先日、妊娠が発覚した女性の子〟の意味で言ったのだが、ルイスは誤解したらしい。大きく目を開き、マリアの肩を抱いた。

「マリア、おまえ、妊娠したのか!」

 マリアは思わず苦笑した。

「私じゃないわ。ホアンからも聞いたの。あなたの信望者の女性が妊娠したんでしょ? あなたにとって初めての子だから、楽しみかと思って」

 ルイスの顔色が変わった。

「ミランダの子を、お前は認めてくれるのか?」

「認めるも何も、あなたの遺伝子を継いだ子だわ。大事にしないと」

 ルイスはマリアを、苦しいくらい強く抱き締めた。

「さすが、俺のマリアだ! でも、わかってくれ! お前との子が、今は一番欲しい。それこそ、聖なる子だからな」

 ルイスのことだから、マリアに男の子が生まれたら、ジーサス(オランダ語でイエスの意味)と名付けかねない。

 どこまでがルイスの情熱で、どこからが狡猾な作為なのかわからないが、マリアとの子は、革命を起こす上で、ちょうど良いシンボルとなるだろう。

 逆に、マリア以外の女から子が生まれる状況は、イメージ・ダウンですらあった。聖なるマリアの守護の下、ルイスは活動を続けていく。その子はマリアとの結束をアピールするのに邪魔なだけだった。

「マリア。どうか、ミランダの今後の世話、任せられないかな? 子供を産んで、その後は、お前の下で働いてもらうんだ。お前は子の名付け親になって、代母として、その子の行く末を見ていって欲しいんだよ」

 ふと、ホアンの言葉を思い出した。

 ――「男の我が儘をを聞くだけの女性には成り下がらないで欲しい。嫌なときは、はっきり嫌だと言うんだ」――

「ご免だわ、ルイス。そうやって、あなたの子供があちこちに、ぽんぽん生まれて、それらの子を私が、聖母のように愛するだなんて。あなたには都合のいい考え方だけれど、私は、あなたを他の女との共用物とは考えていません」

 ルイスは、がっかりした様子だった。とはいえ、いつまでもぐずぐずと拘りはしなかった。

「わかった。お前の意見を尊重しよう」

「ホアンにも言ったのだけれど、私は、あなたが一番に愛してくれなくなったら、別れます。もう決意しているの」

 ルイスは一瞬、ぽかんとしていたが、すぐに笑顔になった。

「大丈夫さ。俺はお前にぞっこん参っているんだ。お前以上に愛する女なんて、絶対に現れない。約束したっていい」

 ルイスはマリアの体を、再びゆっくりと、ベッドに倒した。

「マリア、俺の子を産んでくれ。今は誰よりも、お前との子が欲しい」

 今までは、ルイスの情熱に負けない愛を注がなければ、と考えていた。でも、今は違う。もっと冷めた目で、ルイスを見るようになった。

 ――私とルイスの子が生まれたら、本当に幸せになるのかしら?

 政治的に利用されもするだろう。万が一、ルイスが凶弾に斃れたら、どの子がルイスを継ぐ子なのか、問題も出てくるだろう。大人たちはルイスの跡取りと称して、子供を利用するだろう。

 どんなときも、母の愛だけは本物だと、理解させる育て方をしなければ。


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