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南国のマリア  作者: 霧島勇馬
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第二章 ルイスの逮捕

   第二章 ルイスの逮捕

 まだ日も高い午前、八人から九人でぞろぞろ、罪の街を歩く。さすがに、前回のような恐怖は感じない。それでも、マリアは充分に緊張していた。

《グアダルーペ》の扉を開けると、エヴァがオーブンで、何やら作業していた。マリアが慌てて駆け寄った。ルイスの手を離れる、いいきっかけとなった。

「エヴァ、何を料理しているの? 手伝うわ」

 エヴァが額に汗を掻き、振り返った。

「マリア! あれっきりにならなくて、嬉しいわ。例のアメリカ人男性とは、どうなったの?」

 ルイスが聞き漏らすはずもない。

「アメリカ人男性って、誰だ?」

 エヴァが軽い調子で応える。

「マリアのいい人。私がお邪魔したとき、ちょうど訪問していたのよ。なんの用だったのかなと思って」

 ルイスがすたすたと歩み寄り、マリアの肩を掴んだ。

「マリア、まさか、その男と真剣に付き合っているんじゃないだろうな?」

 ここで、はっきり「別れた」と言えば、ルイスは喜ぶだろう。まるで、アメリカ人よりルイスを選んだ、とでもいうように、勝利の思いに浸れる。

 ただ、マリアはまだルイスの〝所有物〟になるつもりは微塵もなかった。

「結婚して共にニューヨークに、って誘われたんだけど、断ったわ。でも、家族は結婚を望んでいた。おかげで一週間も謹慎を食らったの」

「お前の家は、アメリカと何かと親しそうだな」

 ここで嫌われても、構わない。ルイスの性急すぎる熱い思いには、冷や水を浴びせてやりたいくらいだった。

「ええ、とても親しいわ。恥ずべき問題だと重々わかっているけれど、私は、どうあがいたって、ヒューズ家の駒の一つでしかない。十代の少女の利用価値なんて、アメリカ人と結婚させて、帝国主義と絆を確かにするぐらいしか、ないんだけどね」

 ルイスは機嫌を損ねるどころか、満足そうに眉根を下げた。

「それで俺のマリアは、アメリカ人を見事に振ってやったわけか」

 ヒューズ家こそ、帝国主義の犬だと思うのだが、一員であるマリアを、なぜこんなにも慕うのか?

「アメリカ人だから、というわけじゃないわ。一人の男として、愛せなかっただけ」

「うんうん、それでいいんだ。エヴァ、酒を持ってこい。今夜こそ、俺はマリアをモノにするぞ」

 エヴァが呆れた様子で、腰に手を当てた。

「酒で女の正体をなくさせて、自由にするなんて、最低ね」

「いや、酒は俺が飲むんだ。マリアは飲まなくていい。今夜、俺のアパートに来る展開になるまで、帰さないだけだ」

 もう門限は気にしない。この街がマリアの居場所になりつつある現実もわかっている。でも、簡単に陥落したくない。ルイスに魅力を感じてはいるけれど……。

「遅くなったら、エヴァの部屋に泊めてもらうわ。エヴァ、いいでしょ?」

「もっちろんよ! 男たちの話って、暴力的なだけで、酷く退屈になるわ。女の同志として、共に語り明かしましょう」

 暴力……ルイスがカルロスの手を拳銃で吹き飛ばした光景が、再び頭に浮かんだ。この男は、主義主張のためなら、どんな残酷な行動も辞さないのだろうか?

 ホアンがさりげなく近づいてきて、マリアの前にオレンジ・ジュースが入ったコップを置いた。

「はい、マリア。アルコールは入っていないから、安心してお飲み」

「ありがとう、ホアン」

 ホアンは耳元で、こそりと囁いた。

「男の議論なんて、適当に受け流せばいい。ルイスだって、口で言っているほど、残酷な男ではないから、安心しろ」

 マリアは安堵の思いで、微笑んだ。ルイスのそばにはホアンがいる。危険過ぎる男の、良き中和剤といったところか。

「コロンビアの革命は、結局、軍部が勝ったらしいな」

「キューバのフィデルという男が、名を上げたって噂だぜ」

「ルイスを今、他の国に取られるわけにはいかないさ。アンティルの未来を担う、大切な存在だ」

 ルイスが手を上げ、皆を制した。

「安心しろ。俺は、アンティルを離れない。隣国の危機に手助けしたい気持ちは、大いにある。でもな、アンティルの問題が第一義だ。俺は生まれた国に誠実でありたいんだ」

 エヴァが、トントンとマリアの肩を叩き、注意を向けた。

「退屈じゃない?」

「そんなことはないわ。大事な議論だと思うわよ」

「意外と、甘ちゃんじゃないのねえ」

 北はメキシコから、南はフォークランド諸島まで、ラテンアメリカじゅうが、今、混沌の中にあった。

 コロンブスに発見されて以来、ヨーロッパの植民地だった時代は長い。一九三〇年代になり、次々にラテンアメリカの国々は独立をしていった。

 でも、力ある軍部が椅子取りゲームを繰り返すだけで、民衆の生活はちっとも改善されなかった。

 第二次世界大戦を勝利したアメリカが、ラテンアメリカ全体の利益を搾取していた。アンティルも同様だった。

 その上、アンティルは未だオランダから独立すら、できないでいた。

 学校の教室には、オランダ国王と王妃の顔写真が正面に掲げられている。アンティルの人々は、オランダの属国以下、単なる州の一部にされていた。

 いつになったら、『オランダ領自治区アンティル』は、ただの『アンティル』に変わるのか?

 自然とエヴァと共にマリアも、キッチンに立ち、男たちに酒を振る舞っていた。

 エヴァやホアンや、ここにいる男たちが、ルイスに期待を懸けている事実が、今はよくわかる。

 真剣に国を憂え、巧みな話術で人々を虜にしている。ルイスの仲間は今後、もっと増えるだろう。

 でも――ルイスと行動を共にしていたら、平凡な大学生活は望めない。授業より議論が優先され、女は男たちのサポートに回らなければならない。

 それでも、他の女がやるより、マリア自身がルイスの世話をしたいと考えるようになっていた。なんという影響力だろうか!

 突然、《グアダルーペ》の扉が、激しく開かれた。

「ルイス、大変だ! アロンソのアジトが、警察に発覚した!」

 ルイスは目を開き、立ち上がった。

「なんだって? それで、アロンソたちは、無事なのか?」

 伝令の男は、膝に手をつき、がっくりと項垂れた。

「わからない……とにかく、ルイスに助けてもらおうと思って、駆けてきたんだ」

「わかった、すぐ行く」

 ルイスは立ち上がった。テーブルを囲んでいた男たちも立ち上がった。カウンターに独り座っていた、ホアンも。

 ルイスは振り返り、ホアンに指示した。

「ホアン、お前は残れ。この件を記事にして、大手の新聞社に売り込んでくれ」

「しかし、ルイス。このままアロンソたちに合流しても、逮捕されるだけだぞ」

 ルイスは、ニヤリと笑った。

「それも、策のうちさ。俺が逮捕されたら、学生たちは黙っていない。いよいよ、俺たちの組織が動き出すんだ」

 組織の蜂起のため、むざむざ逮捕される? マリアはルイスの真意がわからず、エヴァの体にしがみついた。

 ホアンは、さっそく、カウンターの裏からタイプライターを出してきた。いつでもここで原稿が書けるようにと、店に置かせて貰っているようだ。

 エヴァがすかさず、水の入ったグラスを置く。ホアンはタイプライターに紙を挟むと、すぐに指を動かし始めた。

 質問はいろいろしたかったけれど、邪魔をしても悪い。マリアはカウンターの裏に引っ込むと、豆の煮込みが入った鍋を、意味なく掻き回した。

 ホアンは、ときどき、頭をがしがしと掻きながら、タイプライターを打ち続けていた。ここは、エヴァに尋ねるしかない。

「ねえ、エヴァ。ルイスの活動って、反政府的なものなの?」

「そんなことないわよ。ちゃんと法は守ってる。でも、学生で革命人民党の党員でしょ。党の若手の間ではトップだし、何かと目立つ存在なの。ルイスを慕う人間たちは、どんどん過激になっていく。ルイスも尻拭いに大変なのよ」

 しかし、尻拭いで逮捕まで覚悟するなんて!

「ルイスは真っ当に活動しているのよね? 被選挙権が取れたら、ちゃんと政党から立候補するのよね?」

 エヴァは小さく息を吐いた。マリアの肩に手をやり、カウンター席を勧める。

「マリア、あんたは、私たちと育ちが違う。汚れていない民主主義が、一番いいと考える人間よね。でも、この国では通じない。いつだって、力ある者がトップに立とうと、銃を抜く。それに、アメリカは私たちから搾取するだけの、敵国よ」

「私が知りたい問題は、ルイスが正当な順序を踏んで政治の道に入ろうとしているのか。それとも、地下に潜って武器弾薬を集めて、政府の転覆を狙っているのか、どちらかなのか、よ」

 すると椅子席に座っていたホアンが、思い出したように呟いた。

「ルイスも、真っ当な道を歩む限界を感じているこの頃だよ」

 じゃあ、ルイスはやはり、政治を志す学生ではなく、革命家を気取る乱暴な若者の一人なのか?

 エヴァがそっと、マリアの肩に手を掛けた。

「ルイスが革命家では、嫌なの?」

 嫌なわけではない。ただ、あまりに住む世界が違いすぎて、従いていけそうにないだけだ。できれば従いていきたいと思わせるほど、ルイスに魅力があるのは事実だった。

「嫌じゃ、ないわ。怖いの……ルイスを失うのが」

 今、はっきりとわかった。マリアはルイスに強く惹かれている。

 しばらく、ホアンが叩くタイプライターの音だけが、店内に響いた。エヴァが思い出したように口を開く。

「店を閉めておかなくちゃ。これから先、どうなるかわからないから、マリア、あんたも少し休んでな」

「……はい」

 ――さようなら、安穏と過ごした日々。もう二度と戻って来ないんだわ。

 マリアも、覚悟を決めた。ウィンドラー大学に普通の通学は、もうできない。たぶん、叔母の家にも、戻れない。

 ホアンは原稿を書き上げると、午後の街に出て行った。夜になったら物騒になるから、一人では戻って来ないだろう。

 マリアは手持ちぶさたな思いで、雑巾でテーブルを拭いていた。エヴァがマリアを二階に誘った。

「少し休まない? しばらくは、店に誰も来ないわよ」

「ルイスの安否は、どうしたらわかるの?」

 エヴァも諦め顔で、掌を上にした。

「明日の新聞が、教えてくれるわ」

 エヴァの後に続き、階段を上る。二階は綺麗に整頓されていた。高級な家具は一切ないが、中央のダブルベッドが目を引いた。

 ここに、ルイスが寝たことはないのだろうか?

「しばらくは、ここを住処にするといいわ。服はあまり持ってないから、少し買い足さなきゃね」

 エヴァも、もうマリアが叔母の家に帰れない現実を、理解しているようだ。

「ごめんなさい、迷惑ばかり掛けるわ」

「そんなこと、ないわよ。ルイスは聖女を見つけたんだもの。私たちには、大きな収穫だわ」

「私が……ルイスの聖女?」

「カトリックの国だもの。ルイスは自分を見守ってくれる女神、ううん、聖母を求めていた。あなたは、まさにその役目に、ぴったりだわ」

「聖母だなんて……子供を産んだ経験もないのに。私も普通にエヴァたちのように、ルイスと戦いたいわ」

 エヴァの顔から、一瞬、笑顔が消えた。

「子供……ね。おいおい、そういう話にもなるのかな。今は、それぞれが、それぞれの得意分野で、ルイスを支えていくべきよ」

 おいおい、そういう話になる? 意味がわからなかった。

 不意に、窓に石が当たる音がした。マリアは暴動でも発生したのかと、身を固くした。エヴァも緊張の顔で、窓辺に近づく。

 石をぶつけた人間を確認すると、エヴァは窓を開けた。

 男が路上から叫んだ。

「ルイスが、逮捕された! エヴァ、マリアを連れて、すぐに大学に来てくれ! 同志が集まっている」

 ルイスが、やはり逮捕された? マリアは気が遠くなりそうになったが、なんとか倒れないよう、近くの家具に手を置いた。

 エヴァが窓を閉め、エプロンを外した。

「マリア、大学に行くよ!」

「行って、どうするの?」

「ルイスの釈放運動に決まっているでしょ。あなたが前面に立つのよ。神々しさを武器に、ルイスの釈放を訴えて。あなた目当てに新たに入党する男たちも出てくるだろうしね」

「え? ええええ?」

「なにしろ、ルイスのサンタ・マリアなんだから。こういうときに動いてこそ、あなたの価値が決まるの。そんな役回りでもなかったら、ルイスを慕う女たちに八つ裂きにされるわよ」

 ――八つ裂きにしたいのは、エヴァ、あなたではないの?

 こうしてマリアは、否応なく、ルイスたち政治革命クラブの騒動に投げ込まれる展開となった。

 ウィンドラー大学の校門の前は、既に人集りがしていた。

 なんと、『ルイス』の名を記したプラカードを掲げる人間までいた。これだけ見ていると、一介の大学での騒動ではなく、社会的な活動に発展しているようにも見える。

「ルイスを釈放せよ! 警察の横暴を許すな!」

「腐った政府は、ルイスの未来が怖いんだ! だから、学生のうちに芽を摘んでおく腹なのさ!」

 若者たちが、口々にルイスの名を叫んでいた。

「ルイス、ルイス、ルイス、ルイス!」

 皆、拳を振り上げ、ルイスの名を連呼していた。

 エヴァがマリアの腰をしっかりと抱き、群衆の中に入っていった。

「通して! サンタ・マリア・ヒューズが来たわよ! ルイスの守護者が来たの!」

 群衆は黒い髪に黒い瞳の人間ばかりだったから、マリアは随分と目立った。

 揉みくちゃにされながら、なんとか即席の壇上に辿り着く。壇の上で演説をしていた男が、マリーを見て、拍手した。

「アンティルの未来を憂える者たちよ! サンタ・マリア・ヒューズが到着した! ルイスの守護者であり、我々を独立へと導く女神だ!」

 マリアは必死の思いで、エヴァに強く囁いた。

「私が知らない間に、なんで独立の女神になんかなっているの!」

 エヴァは構わず、マリアの背を押し、ずんずんと進んでいく。

「覚悟を決めな、お嬢ちゃん。あんたの名前も、体も、心も、もうあんただけのものではなくなっているのよ」

 万が一、ここで泣き出しでもしたら、ここに集まった者たちは、ルイスに対する認識まで、変えるだろう。泣き虫で腹の据わっていない女神なんか頂いて、アンティルの未来なんか変えられっこない、と。

 ――冗談じゃない! 泣くものですか!

 エヴァが壇へと続く階段に、マリアの体を押し出した。つんのめりそうになりながら、マリアは意を決し、階段を上った。

 演説をしていた男は、最初に出た会合でも司会をしていた。男が手を差し出し、マリアは素直に、壇上のマイクの前に立った。

「皆さん……」

 呼びかけようとするものの、何を話したらいいのか、まったくわからない。

 ルイスの釈放を訴えればいいのか? アンティルの政治問題について話したほうがいいのか?

 そもそも、なぜルイスが逮捕されたのかが皆目わからない!

「皆さん! 私は今回の警察の横暴に、怒りを覚えています。なぜ、ルイスが逮捕されなければならないのか! 私には、ちっともわかりません!」

 群衆は、うぉおおおおと地鳴りのような声を上げた。ここまでは、人々の同意を得られたようだ。さて、次は何を言おう?

「私は、ヒューズ石鹸を商うヒューズ家の人間でした。でも、もう、今は家族と縁を切っています。アンティルを食いものにしているアメリカの言うなりだからです!」

 拍手が湧き起こった。いい展開だ。

「家族は私に、アメリカ人男性との結婚を強いようとしました。でも、断じて受け入れられなかった。私はアンティルを愛し、その未来を担うルイスを愛するからです」

 なるべく堂々と振る舞い、人々の迷いを消そうと頑張ってはみているのだが。

 ――ルイスを愛する、なんて公言しちゃって、よかったのかしら。

 ルイスは皆に愛されている。自分もそんな中の一人だ、と訴えるつもりだった。しかしこれで、マリアとルイスを恋人同士と捉える人間は、多くなるだろう。

 シュプレヒコールが、「ルイス」から「サンタ・マリア」に変わろうとしていた。マリアは慌てて、群衆を制した。

「あなたがたを救う人間は、私ではありません、ルイスです! ルイス・ウールデンです!」

 群衆の声は再び、「ルイス、ルイス、ルイス」に戻った。

 しかしあと、マリアは何を言えばいいのだろう?

 途方に暮れていると、群衆の中にホアンを見つけた。ホアンが口と手を大きく動かし、マリアに指示を与え始めた。助かった!

「ルイスは我々の唯一の光です。さあ、皆さん、これから警察まで抗議のデモをしましょう。警察の前で、シュプレヒコールをして、ルイスの解放を訴えましょう!」

「ルイスを解放せよ! ルイスを解放せよ!」

 マリアはホアンの指示で、司会の男と抱き合うと、大きく手を上げた。

「私が先頭に立ちます! 同志よ、続け!」

 マリアが壇から降りると、自然と群衆が道を作った。マリアはなるべく、悠然と見えるよう胸を張り、ホアンの元まで行った。ホアンを見るなり、思わず抱きついた。

「ありがとう、ホアン。一時は、どうなることかと思ったわ」

 ホアンは、慣れない演説をしたマリアを労うように、頭を撫でた。

「上出来だ、マリア。君は今、ルイス解放軍の聖母だ。あと少し、頑張れるな?」

 もう、エネルギーは使い果たした気分だった。とはいえ、弱音を吐いてもいられない。

「はい。ホアン、あなたも従いてきてくれる?」

 ホアンは頼もしい笑顔で、マリアに請け合った。

「もちろんさ。僕の他にも、君を全力で守る男たちがいるから、安心してくれ」

 ホアンがマリアに、肘を差し出した。マリアはホアンの肘に手を掛け、門の外へと歩き出した。学生たちの群れが、マリアに続く。

 正直、マリアは戸惑っていた。

 ――私なんかが、この人たちに影響を与えて、いいのかしら?

 政治の世界は、ほとんど知らない。後ろを歩く集団は、常にアンティルの政治について考え、議論を戦わせる人間たちだろう。

 それに、少なからずルイス信者の女性がいた。

 男たちは総じて、マリアを羨望の眼差しで見る。しかし女たちの目は厳しかった。

 ――「こんな女が、ルイスの愛を独り占めする気なの?」――と非難でもするように。

 別段、ルイスの愛が欲しかったわけではない。魅力的な男だとは思うが、主義主張に感銘し、従いて行こうと決意したわけではない。

 流されるままに、サンタ・マリアの称号を与えられた。流される? いいや、違う。むしろ、強いられたと言っていい。

 今の立場から逃げる術は存在しない。

 マリアは、普段であればルイスを守る屈強な男たちで囲まれた。すぐ横には、ホアンがいる。エヴァは聖なるマリアには近づかず、一般群衆に紛れている。

 マリアはホアンにだけ聞こえるように、呟いた。

「ホアン……私、怖いわ」

 ホアンが、マリアの手をそっと握った。

「大丈夫、僕がいる。迷ったら、いつでも指示する。辛い役目だと思うが、どうか僕たちの先頭に立ってくれ。君を見捨てたりは、絶対しないから」

 ――「大丈夫、僕がいる」――

 この言葉の、なんと力強いことか! ルイスはマリアに傅く側の存在だ。大っぴらにルイスには頼れない。だから今は、ホアンを頼ろう。

 ルイスだって、スピーチの時にはホアンの力を借りる。マリアだって、力を借りていいはずだ。

「ルイスを釈放せよ! ルイスを釈放せよ!」

 後ろを振り返ると、学生に混じって、大人たちもデモに加わっていた。何千もの数を率いて、マリアは先頭に立っている……。

 できれば、この列から抜け、路地の奥に駆け出していきたい。なんとか堪えていた支えは、ホアンの温かい手の感触だった。

 警察の庁舎前では、騎馬隊が待ち構えていた。

 マリアたちを見下ろす、圧倒的な存在だったが、怯んではならない。

 マリアは立ち止まり、後ろに控える群衆を制した。騎馬警官を一人でも動かしたら、流血沙汰は避けられない。

「暴力では何も解決しません! 皆さん、ここは落ち着くのです!」

 しかし群衆は非常に興奮していた。拳を振り上げ、ルイス釈放を訴えた。一人が一歩でも足を踏み出せば、暴動になる。

 ――ルイスは、捕まるのも計算のうちだと言っていた。でも、警察の前で暴動を起こさせる腹ではなかったはずだわ。

 どうすればいいのだろう? 平和的に解決させるなんて、ラテンの血を引く人間たちには無理なのではないか? 一触即発の恐怖に、マリアは震えた。

 マリアは縋る思いで、ホアンに尋ねた。

「ホアン、どうすればいい?」

 ホアンは冷静だった。マリアの手をしっかりと握り、確信を持った声を出した。

「君がシュプレヒコールの音頭を取るんだ。大丈夫、ルイスは、もうじき釈放される。むしろ、警察は早くルイスを庁舎から追い出したいはずだ」

「なぜ?」

「僕が原稿を持ち込んだ新聞『ワラハイド(真実)』の記者が、弁護士を連れて、もう押しかけているはずなんだ。ルイスは豚箱の中で黙ってなんかいない。今頃、記者相手に、熱弁を振るっているだろう」

 マリアは愉快な思いに、眉尻を下げた。

「さすがは、ルイスね」

「我々は抗議に来た、というより、凱旋するルイスを出迎えるって立場になれるんだ。ここをあと少しだけ、抑えていられたらね」

「ルイスを釈放せよ! 警察の横暴を許すなぁ!」

 不味い。人々の興奮は頂点に達している。騎馬隊を用意した警察は、自分たちを傷つけるつもりなのだと、早合点している。

 そこへ、拡声器がマリアの元に回ってきた。

 ホアンが手渡しながら、アドバイスしてくれた。

「マリア、ここは君の声で、群衆を沈めるんだ。なるべく穏やかで、優しい声を意識するんだ」

 そうだ……聖母マリアのように……。マリアは今ようやく、自分の役割を理解した。

 マリアは拡声器を顔の前に構え、意を決して、口を開いた。

「私は、サンタ・マリア・ヒューズ! ルイスの守護者にして、アンティルの女神!」

 バラバラに騒いでいた声が、ぴたりと止んだ。まだ安心はできない。

「アンティルは変わろうとしています! この勢いを止めることは、もはや誰にもできないのです!」

 騎馬隊の警察官が、まじまじとマリアを見ていた。

 初めて会った夜、ルイスは言っていた。まるでラファエロの絵画に出てくるマリアのようだ、と。

 ――どうか今も、中世絵画が描く理想の聖母に見えますように!

「我々を暴力で抑えようとするなら、するがいい! でも、神は、このアンティルにルイス・ウールデンを遣わした! ルイスを守るため、私も天から降りてきた! 流血など、まったくの無意味です!」

 騎乗の警官が一人、馬から下りた。すると、一人、また一人と彼に倣った。

 群衆が、「おおおお!」と地鳴りのような声を上げた。

「サンタ・マリア・ヒューズ! サンタ・マリア・ヒューズ! 我らの聖母、サンタ・マリア・ヒューズ!」

 マリアは耳を塞ぎたかった。自分の名前なんて、連呼しないで欲しい! できれば群衆の中に紛れ込み、彼らの一員となって、シュプレヒコールを上げたかった。

 ――ルイス、早く出てきて! お願いだから、皆の関心をあなたに向けさせて!

 すると庁舎の出口から、一人の若者が飛び出してきた。

「ルイスが、釈放されたぞ! 今、警察の中で記者会見を行っている!」

 再び地鳴りのような声が群衆を包んだ。

 ホアンが、そっとマリーの腰に触れた。

「ルイスを迎えに行こう。君が、ルイスを皆の前に連れてくるんだ」

 ようやくこの狂想曲が終わる。早くルイスにバトンタッチをして、マリアは安堵の息を吐きたいところだった。

 マリアはホアンと、他二人の護衛の男と共に、警察庁舎に入った。

 暗い廊下のすぐ右の部屋から、ルイスの元気の良い声がした。

「国がちっともよくならない原因は、政府だ! 革命人民党の青年支部は、ゲルドフ現アンティル大統領に訴える! 早急に議会を解散し、総選挙を行うべきだ!」

 マリアは安心のあまり、腰が抜けそうだった。なんとかホアンに支えられ、部屋の中に乗り込む。

「ルイス、無事でよかった!」

 ルイスは大きく目を開き、立ち上がると、両腕を広げた。

「マリア! 群衆を率いてきてくれたんだって?」

 マリアの目から、涙が溢れ出た。こんなに心配させて! マリアはルイスの胸に飛び込んだ。

「心配させて! こんなに心配させて! あなたって酷い人だわ!」

 フラッシュが焚かれ、二人の写真が撮られた。これが明日の新聞に掲載されるのだろうか?

 記者がマリアに向け、質問した。

「あなたがルイス・ウールデンの聖マリア・ヒューズ?」

 マリアの代わりに、ルイスが答えた。

「そうだ。俺の守護者だ。俺は、天から降り立ったマリアの加護のもと、活動を続けていく。誰にも、邪魔はさせない」

 ホアンが、控えめにルイスに提言した。

「群衆が待っている。ルイス、皆の前に姿を現してくれ」

「わかった」

 ルイスはマリアの体を右腕でしっかりと抱き留めたまま、頷き、歩き出した。

 自然と二人は、まるで夫婦ででもあるかのように、寄り添って、庁舎の外に出た。

 ルイスの顔を見た途端、群衆は歓声を上げた。

「ルイス、ルイス、ルイス!」

 マリアが横で拍手する中、ルイスは今度は両手を上げて、歓声に応えた。しかし、すぐにマリアを抱きしめ、唇を奪った。

 頭がガンガンと鳴った。革命の味、とでも言ったらいいだろうか? ルイスが野心を持って行動する限り、マリアに休息は許されない。

 今回は、半日ほどの拘束で済んだが。今後もルイスは逮捕、監禁、裁判といった罪と、ぎりぎりの線で動いていくのだろう。

 ――私に従いていけるだろうか? ルイスの夢の果てまで。一緒に行けるだろうか……。

 勝利したデモ隊は、再び大学の門まで凱旋パレードし、散会となった。

 ルイスとマリア、ホアン、エヴァ他、信頼できる友人五名と、《グアダルーペ》に帰ってきた。そのうちの二人、フリオとキースは、ホアンと同じくルイスの頭脳だった。

 店に入るなり、ルイスはエヴァに指示した。

「エヴァ、今夜はこの二階を俺たちのために貸せ。俺とマリアは、今宵、結ばれる」

 マリアは、かーっと耳まで熱くなった。一階にホアンやエヴァがいる中で、わざわざ契りを結ぶ意味があるのか。

 エヴァの顔から、一瞬だが笑みが消えた。

「あんたにしちゃ、手を出すのが遅いと思っていたのよ。でも、この店は神聖なる革命のためのアジトよ。女を連れ込むために貸し出してるわけじゃないわ」

 ルイスはエヴァの文句にまったく動じなかった。

「そうさ、ここは神聖な場所だ。マリアと俺が結ばれるなんて、これ以上の神聖な行為はないだろう。いいから、二階で二人きりにさせろ」

 エヴァは、ぷいと横を向いた。

「お好きにどうぞ」

 どうしよう! 別にルイスが嫌いなわけではない。

 マリアは当然ながら、男を知らない。ルイスが初めての男になるまではいいとして、今夜でなければならないのだろうか?

 マリアとしては、結婚し、皆の祝福を受けた上で、と順序を守りたかった。こんな考え方は、古臭いのだろうか?

 それに、エヴァの気持ちも考えなければならない。エヴァはルイスに惚れている。ルイスだって、気づいているだろうに。

 マリアはルイスの腕から逃れようと、藻掻いた。

「待って、ルイス。私にはまだ、躊躇いがあります」

「なんだ? 俺を愛してはいないのか?」

 愛しているだって? たぶん、愛している……。正確に言えば、愛さなければならない運命、といったところだ。マリアの人生はもう、マリアだけのものではなくなった。

 ルイスと共に歩む限り……。

「私は、きちんと順序を踏みたいの。結婚もしないうちから、あなたを知りたくはありません」

 ルイスは驚いた様子で、目を開いた。

「俺と結婚したいのか?」

 エヴァの前では、非常に答えにくい質問だった。でも、しかたがない。

「……ええ。あなたを受け入れるには、最低限の条件です」

 ルイスは呆れたように、眉尻を下げた。

「わかった。じゃあ、明日、市役所に届けを出そう。明日なら、いいか?」

 この上、嫌だとも不平は言えない。

「構わないわ。それに、場所もあなたのアパートがいいわ。新居だもの」

 ルイスは、「いいだろう」と了承したものの、落ち着かなく店の中を歩き回った。

「ええい、もう待てないぞ! これから教会に行って式を挙げよう。俺はなんとしても、今夜お前を抱きたいんだ!」

「でも、この近くに教会なんて、あるの?」

 フリオがニヤリと笑った。

「あるんだな、それが。二ブロック先に。代父には、俺がなろう。マリアの代母には、エヴァ、それでいいな?」

 エヴァはやれやれと息を吐いた。

「要するに、ルイスのディック(いちもつ)が、はち切れそうで我慢できないんでしょ。はいはい、じゃあ、とっとと済ませましょ」

 キースが腕組みして、頷いた。

「万年貧乏司祭だからな。金を渡せば、すぐに即席の式を挙げてくれるはずだ」

 ジタバタするのも、ここまでか。これ以上ルイスを拒むなんて、できない。

 エヴァが店のテーブルに飾っていた黄色い花を集め、即席のブーケを作ってくれた。

「……エヴァ、ありがとう」

 エヴァも薄々、マリアの気遣いを察知している様子だった。

「私に気を遣う必要はないんだからね。代母として、友人として、祝福するわ」

 こうして、あれよあれよという間に、マリアはルイスの妻になった。

 こんな展開はもっともっと先の話かと思っていた。マリアが下手にぐずったばかりに、結婚という墓場に足を突っ込む事態となった。

 花嫁衣装もなければ、マリアの友人も招待できない。寂しさに心にすきま風が吹き込むが、気にしてはいられない。

 釈放されたルイス・ウールデンが次に何をするか、に人々は強い関心を抱いている。

「ホアン、『ワラハイド』紙に、俺たちの結婚を伝えろ。警察で撮影した写真を使って構わないと指示しろ」

 ホアンは素直に立ち上がった。

「了解」

 ――ホアン……行ってしまうの?

 心なしか、項垂れた様子で、店を出て行く。時間が時間だから、今夜は戻って来ないだろう。

 ルイスは今度こそ、思いを果たせると、上機嫌でマリアを連れ、《グアダルーペ》の二階に上がっていった。

 マリアをベッドに座らせ、そっと抱き締める。倒れ込む形でベッドに横になった。ルイスの丁寧な愛撫が続いた。

 マリアは他に比べるものがなかったが、たぶんルイスは、非常に巧みにマリアを導いてくれたようだ。

 恍惚に目の前の視界がぼやける。

 当初は、とてもじゃないが、楽しめないと思っていた。階下にはエヴァや他の同志がいる。上で何をやっっているか、聞き耳を立てているのだから。

 でも、ルイスは無邪気だった。楽しめるときを、存分に楽しんでいるようだ。

 マリアも気持ちを入れ替えた。夫と妻になったのだし、もっと堂々と楽しまなければ。

 ただでさえ、ルイスの側にて、これから苦労も多い。四六時中、重大問題に悩み、眉間に皺を寄せている必要もないのだ。

 務めを終えるとルイスは、肘をつき、掌に頬を当てた。

「俺はとんでもない果報者だな。アンティルの男たちの多くが、羨ましがるだろう」

「私と結婚したことで?」

 ルイスはマリアの鼻を、ちょんと突いた。

「ああ、そうさ」

「私は、あなたを崇拝する女性たちを完全に敵に回したわ。皆、嫉妬で怒り狂うでしょうね」

 何しろ、ルイスはまだ結婚までは望んでいなかった。それを、順序が大事と、マリアに押されて結婚した形となった。今更ながら、なんて恐れを知らなかったんだろう。

「マリア、お前は自分の神々しさを、ちっともわかっちゃいないな」

 マリアは呆れた思いに、口の端を下げた。

「当たり前よ。自分を神々しいなんて、思えるわけがないわ。汗も掻くし、排泄だってする、普通の人間と同じ生理の持ち主なんだから」

 ルイスは一瞬、目を見開いたが、次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。

「確かに、お前がトイレに駆け込む姿なんて、想像ができないな」

 マリアは恥ずかしくなり、両手で顔を隠した。

「嫌だ! 新婚の旦那さまを前に、大変な話をしちゃったわ」

 ルイスは愉快な様子で、体を起こすと、マリアの体に馬乗りになった。

「聖母マリアは肉欲を知らぬまま、妊娠した。お前も、見た目だけなら、処女受胎さえ可能に思えるよ。でも、産むのは神の子なんかじゃない、俺の子だ。将来の大統領の息子か娘だ」

 マリアは無言で頷いた。いずれは、そういう展開にもなっていくだろう。

 守るものができたなら、ルイスの行動も変わってくるだろう。被選挙権が取れたら、すぐにルイスは、政界へ乗り込む。そのときに、きちんとサポートができるよう、マリアもせいぜい勉強をしなければ。

 マリアはルイスの顔をじっと見た。

「ルイス、どうぞ私を、他の皆同様、導いてください。どこまでも、従いていくから」

 マリアは結婚して、自分が大きく変わった気がした。何とも言えない安らぎを感じる。結婚して良かったと、素直に思える。

 ――これからは、二人で一つ。大きな夢を目指して、共に歩いていかなくちゃ。

 翌日、『ワラハイド』紙は、革命人民党の青年団長にして、アンティルの政治を憂える大学生の代表でもあるルイス・ウールデンの結婚を、写真付きで発表した。

 写真は、釈放されたルイスが、マリアと共に警察を出てきたときに撮影されたものだった。

 黒髪の人間が多く集まるなか、マリアのブロンドの髪は銀色に輝き、白い肌は陶器のように映っていた。

 ルイスは、しばし新聞を見入っていたが、やがて誇らしげに《グアダルーペ》のテーブルに投げた。

「見ろ、俺の妻の神々しさを! これからは、マリアの露出度も上げないといけないな。俺のイメージは更に良くなっていくぞ」

 マリアは椅子に座り、放られた新聞を見る。

「こんな取り上げられ方をするなんて。ルイスの行動、一つ一つが注目されているのね」

「これからは、お前も同じだ。俺の妻の立場は重要だぞ。発言一つ一つにも充分に注意してくれ」

 マリアは素直に頷いた。これからは、ルイスと共に人生を歩いていく。責任ある言動を心がけなければ。

 昨日のデモが大成功を収めた経緯も、マリアに自信をつけさせていた。

 ――大丈夫。なんとかやれるわ。今後も、ホアンたちが助けてさえくれれば。

 ホアンはまだ、戻っていなかった。でも、もう朝だし、じきに帰ってくるだろう。

 結局、店のソファで寝る羽目になったエヴァが、カウンター奥のキッチンから不機嫌な声を出す。

「これでもう、他の女にほいほい手出しは、できなくなったわね。マリアを裏切ったら、それこそマスコミが喜んで報道するでしょう」

 ルイスが、ぽかんとした顔で、エヴァに振り返る。

「なんで他の女なんかが出てくるんだよ? マリアは完璧な女神だ。俺はもうマリア一筋さ」

「あらあら、重大発言だわね。忘れないでおくけど、大丈夫?」

 ルイスは誇らしげに、ぽんと胸を叩いた。

「当たり前だ。他の女なんか、屑に見えるね。俺は一生、マリアを裏切らないぞ」

 嬉しい言葉だった。でも、エヴァは、きっと複雑だろう。

 エヴァには申し訳ない思いの連続だ。ルイスを奪い、更には、エヴァのベッドで一夜を明かした。これがルイス・ウールデンの所業でなければ、二人して店の外に叩き出されているかもしれない。

 エヴァがフライパンを持って、カウンターの外に出てきた。マリアが用意した皿に、スクランブル・エッグを供していく。

「ところで、今日はどうするの? 新婚ほやほやでしょ。ハネムーンにでも行く?」

 ハネムーン! マリアの胸が高鳴った。二人でどこか、のんびりした場所に旅をして、甘い新婚生活をスタートさせたかった。

 ルイスも同じ意見のようだった。

「ハネムーンかぁ。とびきり甘い夜を、どこかの街で過ごしてもいいな」

 そこに、ドアが開く音がした。自然とマリア、ルイス、エヴァが振り返る。ルイスの親衛隊員キースが、青い顔をして立っていた。

「ルイス、ラジオは、もう聞いたか?」

 ルイスが、ぽかんとしてキースを見た。

「ラジオ? 何かニュースでもあったのか?」

「ニュースなんてもんじゃないよ! 今日午前九時、軍がクーデターを起こしたんだ。ゲルドフ大統領は任を解かれ、ヤンセン大佐が大統領職を兼任となった!」

「なんだって? エヴァ、すぐにラジオを点けろ」

「わかったわ」

 エヴァはカウンター隅に置かれたラジオのスイッチを入れた。チャンネルを合わせるノイズと共に、男の演説が聞こえてきた。

「――アンティルは、ここに、新政府を樹立する。オランダ王国はもちろん、アメリカ、イギリスなどの諸外国との仲を親密に保ち、国を発展させていく。なお、ヤンセン大佐は終身大統領となり、アンティルの未来のために尽力する――」

 あまり政治の話に詳しくないマリアだが、重大事件だとは理解した。

 ルイスがテーブルを激しく叩いた。

「終身大統領だって? ふざけるな! 政治が軍に渡ったら、俺たちはどうすればいいんだ!」

 キースがマリアにもよくわかるよう、説明してくれた。

「これでもう、選挙で大統領は選出されない。つまり、ルイスが被選挙権を得る年齢になっても、立候補はできないわけだ」

「そんな……。この国は、どうなっちゃうの?」

 マリアの問いかけに、エヴァも胸の前で腕を組み、難しい顔をした。

「軍による武力制圧が成功したんだもの。これからは、軍の恐怖政治が始まるわね」

 キースが緊迫した声で告げた。

「ルイス、しばらく身を隠せ。軍にとってお前は、早急に摘み取っておかなければならない芽だ。お前が今度、逮捕されたら、簡単に釈放なんて無理だ。裁判まで持っていかれ、どこかに流刑になるかもしれない」

 ルイスも難しい顔で、頷いていた。

「アンティルの未来のため、今、捕まるわけにはいかないな」

 エヴァが一歩、さっと前に進み出た。

「あんたがまさか、こんな治安の悪い街にアジトを持っているだなんて、知らないでしょう。だから、今後も《グアダルーペ》を前線基地に使ってちょうだい」

「ありがとう、エヴァ」

「でも、身を隠すとなったら、一つところには、いないほうがいい。同志で匿ってくれる人間は、何人もいるわ。せいぜい利用させてもらいましょうよ」

 ルイスは、ふて腐れた顔で、椅子の脚を蹴った。

「冗談じゃないぜ。俺は新婚ほやほやなんだぞ。ハネムーンに行くどころか、マリアと別々の暮らしをしなきゃならない」

 マリアは驚いて、顔を上げた。

「二人一緒に、匿ってはもらえないの?」

「無理だ。同志は皆、まだ大学生だったり、大学を卒業したばかりの人間だ。経済的にも、一人を匿うのが限界だ」

「私は、どうすればいいの?」

 マリアは途方に暮れた。ルイスと共に歩くと決意したばかりなのに。

 エヴァがそっと、マリアの肩に手を乗せた。

「あんたは、ここにいなさいな。酒場の給仕として働くといいわ。いい隠れ蓑になるし、ルイスとも、たまに会える」

 たまに会える? 最愛の夫と、たまにしか会えないのか!

 これからルイスは、どう行動するつもりなのか? また、ルイスの同志たちはどういう活動をしていくつもりなのか?

 公の活動は控え、地下に潜る? つまり、反政府運動を展開しながら、政府転覆を狙うしかなくなる。そうなると、武器を持つのか?

 それこそ、革命しか道がなくなる。

 マリアは話の展開が深刻になっていく様子を、呆然と見ているしかなかった。


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