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南国のマリア  作者: 霧島勇馬
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第十章 アンティルの落日

   第十章 アンティルの落日

 マリアたちがメキシコに亡命して、五ヶ月が過ぎようとしていた。長かった一九五〇年も、もうすぐ終わる。

 マリアたち親子は、ホアンと共に暮らし始めた。まだルイスと離婚していなかったものの、リアス姓を名乗り、ホアンの扶養家族として生活を始めた。

 ホアンは新聞社『ラ・ベルダッド』に記者として就職した。

 メキシコの文化はアンティルと違う面が多く、戸惑いと発見の連続だった。

 幸い、マリアたちに言葉の壁はなかった。

 アンティルの公用語はオランダ語。アメリカ資本が経済を牛耳っていたせいで、一般に英語も通じた。

 でも、下層階級の人間は、移民が多く、ラテンアメリカ全体の公用語ともいえるスペイン語しか話せなかった。ここメキシコでは、階級を問わず、スペイン語が公用語だ。

 何カ国語も話せるマリアとしては、ジュニアにもたくさんの言語を覚えて欲しいと思う。でも、ジュニアは今のところ、スペイン語にばかり反応している。

 将来、白い肌でブロンドのジュニアが、中南米訛りのスペイン語をぺらぺら喋る様は、人によっては奇異に感じるかもしれない。少なくともアンティルでは、色の白さは上流階級を表しているから。

 十二月の始め、クリスマス・ツリーのためにモミの木を買おうとして、メキシコにはツリーを飾る習慣が、まだまだ浸透していない事実を発見した。

 郷に入っては郷に従え。マリアたちは、メキシコのクリスマスを堪能していた。

 ナミシエントと呼ばれる聖人の人形を飾る。聖母マリア、聖ホセ(ヨセフ)、東方の三博士、天使、羊。赤ん坊のヘスス・クリスト(イエス・キリスト)の人形は、二十四日になってから加えると、初めて知った。

 ご近所のアルバ夫妻に誘われて、ポナダの儀式にも参加させてもらった。ポナダとは、臨月のマリアと夫ホセが家から家へ、宿ポナダを求めて巡礼したエピソードに因んでいる。

 ピニャータ割りもした。星型の陶土でできた物体を宙に吊し、一人一人に目隠しして、叩き割る。

 ホアンがピニャータを割り、お菓子がたくさん出て来た時には、マリアもすっかり興奮していた。

 大人たちがお菓子を目がけて突進していく姿が可笑しくて、マリアは大いに笑わせてもらった。なんて平穏で、楽しい年末だろう。

 敬虔なカトリックのお国柄だが、マリアの容貌に神々しさを認める人間は、アンティルほどではなかった。

 どの教会に建立されているマリア像も、褐色の肌に、褐色の髪だ。マリアの色の白さ、ブロンドの美しさは、賞賛はされるものの、聖母マリアに結びつけて考える人間は少なかった。

 アンティルにいた頃と同じ目に遭いたくなかったから、当初はずっと髪を染め続ける覚悟さえしていた。メキシコの若妻たちは、流暢なスペイン語を話す、色の白い女であるマリアを、受け入れてくれた。連れ合いのホアンが、典型的なヒスパニックの顔をしているせいもあっただろう。

「ブロンドを黒く染めようと思っただって? 皆、こんなブロンドになれたらって憧れているのに、何を考えているのさ!」

 アルバ夫人は大袈裟に驚き、マリアの肩を叩いた。共同の上水場を使用して、ジャガイモの皮を剥いていた時の話だった。

「あら、私、黒髪も似合うのよ。雰囲気は全然、違っちゃうけど」

「アルゼンチンのエヴァ・ペロン大統領夫人なんか、強引にブロンドにしているでしょ。まあ、あの人は、聖なるイメージを維持するために、必要な苦労だろうけどね」

 確かに、髪の生え際まで常にブロンドに脱色していなければならないから、面倒だろうし、いろいろ苦労もするだろう。

 聖なるイメージ、か。メキシコにいると、作られたイメージを守る必要もなくて、マリアは気が楽だった。

 アンティルの情勢も、ある程度まで伝わってくる。マリアたちが国を出る直前、ルイスたちは革命に向けて、ラストスパートを懸けていた。

 大きな変化の知らせも、もうすぐ届くかもしれない。

 今のところ、ルイスや社会革命クラブの名が、ラテンアメリカの新聞に掲載されるに至ってはいない。

 ホアンも、職業柄、アンティルの最新情報を常に手に入れられる立場にあった。でも、所詮は軍政国家の伝える話だ。どこまでが真実かは、わからない。

 アンティルの夜明けを、ただ、じりじりと待っているわけにもいかない。マリアたちにも日々の暮らしがある。メキシコ社会に溶け込み、それなりに貢献もしていきたかった。

 いつもの夕食の席で、タマレスを取り分けながら、マリアは提案した。

「クリスマス・イブの夜だけは、家族だけで過ごし、アンティルのために祈りましょう」

 ホアンも穏やかに頷いた。

「そうだね。僕たちはアンティルに育まれて、生きてきた。ジュニアにも、アンティルの国民である意識を常に持たせていこう」

 いつ帰れるかは、わからない。それでも、メキシコの国籍を取る努力はせず、亡命のままでいようと、ホアンと決めていた。いつか親子三人で、アンティルの地を踏む夢を見ながら。

 願いが叶う時、アンティルの大統領にルイスが就任していて欲しい。ルイスの下から逃げた事実を、ルイスに直に許して欲しかった。

 不意に、玄関の扉を叩く音がした。今頃、誰だろう?

 ジュニアを抱きながら食事をしていたホアンが立ち上がった。

「僕が出よう。ジュニアを頼む」

 マリアがジュニアを預かると、ホアンが立ち上がった。マリアも席を立ち、ホアンに寄り添う形で、後に続いた。

 玄関を開けると、髭面の男が一人、立っていた。

「サンタ・マリアの家は、ここか?」

 マリアは身を固くした。クリスマス・シーズンに、サンタ・マリアを捜し、家を訪ね歩く人間とは、いったい何者なのか?

 サンタ・マリアとは、カトリックの聖母マリアを指しているのか? それともまさか、アンティルの聖女、マリア・ウールデン?

 男はポケットから、一通の手紙を取り出した。今度はオランダ語で喋り出した。

「怪しい者じゃない。俺の名はマイケル・デワール。フリオ・フローレスと文通をしている人間だ。随分前に、アンティルからメキシコに来た」

 亡命の日以来、フリオの消息は全然わからないでいた。マリアは思わず、身を乗り出した。

「フリオは、無事なのね? ミランダは?」

 男は少し考えて、「ミランダ・バレルのことかな」と呟いた。

「そう! ミランダ・バレルよ。アダムの母親の。私たちが亡命する手助けをしてくれた人なの」

「彼女なら、もう、キュラソー島にはいない。故郷に帰り、社会革命クラブとは距離を置いていると聞く」

 マリアは安心で、座り込みそうになった。無事だと知っただけで、どれだけ嬉しいか。

 ホアンが扉を大きく開けた。

「とりあえず、中に入ってくれ。僕たちも、亡命の際に、社会革命クラブとは決別していると証言しているんだ」

 マイケルは、ぺこりと頭を下げ、家の中に入ってきた。

 ホアンが再びジュニアを受け取り、マリアがキッチンの椅子を、もう一脚、用意した。マイケルは椅子に座ると、改めて、フリオからの手紙をマリアに手渡した。

「検閲を恐れて、全て暗号にしてあるが、革命の日時が決まった。一九五〇年十二月二十日、つまり明後日、五つの島で同時に、武装蜂起する。首都ウィルムスタットを制圧したら、ルイスが大統領府に入り、全世界に革命の成功を宣言する」

 話を聞いて、マリアも興奮した。巷はクリスマス・ムードだ。政府もまさか、この時期に武装蜂起など、予想もしていないだろう。

「いよいよなのね。きっと成功するわよね? 準備万端でいたんだもの。大丈夫よね?」

「国民がルイスを支持し、武装蜂起の列にどんどん加わってくれれば、きっと成功する。国民の勇気が試される革命だ」

 ホアンも顔を赤くし、興奮を隠しきれない様子だった。

「宣言書は、とうの昔に、僕が書き上げているんだ。ルイスが僕を許していないとしたら、別のスピーチ・ライターの宣言書になるかもしれないけれど」

「フリオはジュニア奪還の時に、私の側に立ったわ。それでも今、ルイスの側にいる。つまり、許されたのよ。革命が成功したら、ルイスもテレサとの結婚を真剣に考えるでしょうし。私たちも、真摯な気持ちで謝罪すれば、ルイスはわかってくれるわよ」

 マイケルが大きく頷いた。

「フリオが真っ先にサンタ・マリアに知らせて欲しいと書き記してきた。俺は全力で、あなたを探した。革命が起こる前に探し出せて、ホッとしている」

 マリアは感謝の思いで、頭を下げた。

「本当にありがとう。感謝します」

 ホアンが眠くなってきたジュニアをあやしながら、マイケルに問いかけた。

「革命が成就したら、君もアンティルに戻るのか?」

「もちろんだ。アンティルを離れて五年が経つが、故郷を思わない日はなかった。俺のような人間が、メキシコには他にも多く存在する」

 二日後、ルイス・ウールデン大統領が、アンティルに誕生する。

 ホアンがマイケルに提案した。

「よかったら、明後日まで我が家に滞在しないか? 革命成功の喜びを、共有しようじゃないか」

「いや、それなら逆に、俺の家に案内したい。アンティルからの亡命者が集う場所でもある。あなたがたがいれば、皆、喜ぶだろう」

 マリアもホアンも、喜んでマイケルの誘いに乗った。明後日の朝、指定の場所で落ち合おうと約束し、マイケルは帰っていった。

 タジェール通りにあるマイケルの家は、なかなか立派な建物だった。首都の中心地に居を構えるだけでも、亡命者としては大したものだ。

 ジュニアを連れていくか最後まで迷ったが、アンティルの歴史が変わる瞬間を体感させてやりたかった。大人になるまで覚えてはいないだろうが、実の父の勝利演説を聞いた経験は、必ず将来のジュニアに影響を与えるはずだ。

 マイケルの妻アナが、笑顔で出迎えてくれた。言葉から、メキシコ女性だとわかった。

「サンタ・マリア、お噂はかねがね、聞いておりました。お会いしたかったんですよ」

 リビングには、五組の夫婦が集まっていた。見た顔はない。皆、マリアが社会革命クラブと関係する前に、亡命していた。

 共にアンティル人の夫婦は三組、あとの二組は、アンティルの男がメキシコ女と結婚していた。

 皆、最近のアンティルを肌で感じてきたマリアたちに、故国の様子をいろいろ尋ねてきた。マリアもホアンも、できるだけ詳しく教える。

 見るからに上流階級のマリアが、社会革命クラブに所属し、しかも、リーダーのルイスの妻になった事実に驚く者が多かった。ヒューズ石鹸の跡取り娘だと知ると、なおさらだった。

 マリアは苦笑して、彼らの疑問に応えた。

「ルイスは、ウィンドラー大学の一年先輩だったの。課外活動に興味を持って、ルイスが主催する集会に出かけたのが、きっかけよ」

「それでも、ご家族は反対されただろう?」

「そりゃあもう! 今も絶縁状態よ。でも後悔はしていないわ。結局、ルイスとは上手くいかなかったけれど、ホアンがいてくれるし」

「二人はもう、結婚したの? ジュニアはホアンの子というわけなの?」

 ホアンがジュニアを抱っこして揺らしながら、笑顔で応えた。

「まだ、マリアとルイスの離婚が成立していないんだ。マリアと結婚したいと思うけれど、ジュニアには本当の父親の話を、きちんと聞かせて育てようと思っている」

「今日の革命が成功したら、あなたたち家族も一歩前進というわけだな」

 マイケルがラジオのスイッチを入れ、国営放送にチャンネルを合わせた。陽気なラテンの音楽が流れてくる。

 アナが大きなガラスのボウルに、フルーツ・パンチを入れて、キッチンから現れた。

「お酒は革命成就後に取っておきましょう。これならジュニアも飲めるわよね」

「ありがとう。ジュニア、良かったわね。おいしいわよ」

 そろそろコップで飲む練習をしているのだが、粗相をして迷惑を掛けたくなかった。

 フルーツの部分を除いて、持ってきた哺乳瓶に入れる。よく振って口に宛がうと、やはり美味しいらしく、ちゅぱちゅぱ勢いよく吸い始めた。

 ラジオでは、時報の度に、五分間のニュースが流れる。九時、十時、十一時と待って、だんだんマリアたちも焦れてきた。

「国際ニュースだから、夜にしかやらないのかしら」

「いや、そんなことはないだろう。ルイスが逮捕された時だって、午前中のニュースで知らされたんだ」

 十二時の時報が鳴り、アナウンサーが早口で捲し立てた。

「速報です。アンティル政府発表によりますと、本日午前九時、反政府団体、社会革命クラブがクーデターを企みました。政府は事前に情報を知り、速やかに対処。武装蜂起を企てた人間を全員、逮捕しました。首謀者のルイス・ウールデンは、その場で射殺された模様です」

 アナが「ひぃっ!」と悲鳴を上げた。マイケルがすぐにアナを抱き締め、天を仰ぐ。

「おお、神よ!」

 マリアは信じられない思いで、ホアンの手を強く掴んだ。恐怖に体が震える。

 ――ルイスが死んだ? まさか! そんなはずないわ!

 成功間違いなしの作戦だった。準備だって怠りなかった。いったい何が起きたのか?

 ホアンが立ち上がり、上着を掴んだ。

「これから『ラ・ベルダッド』に行ってくる。最新の情報が、あるかもしれない。政府が発表を止めている事実がある可能性も、捨てきれない」

 マリアはすぐ、反応した。

「私も行きます」

「駄目だ。ジュニアを連れていくわけにはいかない。君は家に帰って、待っているんだ」

 すると、マイケルが声を上げた。

「ホアン、真実を一刻も早く知りたいのは、俺たちも同じだ。このまま、真実を一家の秘密にしないで欲しい」

「どうしろ、と?」

「サンタ・マリアが行きたいというなら、連れていけ。ジュニアはアナが見ていてやる。これが、ルイスの真実を知る最後の機会かも知れない。サンタ・マリアに後悔させるな」

 アナも大きく頷いた。

「もう、あなたたち家族だけでいないほうがいいわ。あなたがたの手には、ルイスの忘れ形見、ジュニアがいる。アンティルでクーデターを起こし、ルイスは処刑された。アンティルがこの政権でいる限り、ジュニアの命は危険に曝されるでしょう」

 他の夫妻も近づいてきた。

「もっと私たちを頼って、ホアン。亡命者だからって、何もできないわけじゃないわ。最後の希望となったジュニアを、私たちが守っていくわ」

 ルイスを中心に回っていたアンティル人たちを巡る歯車は、今も変わらず、音を立てて回り続ける。ルイスが死んだと言われる今も……。

 ホアンがマリアに近づいた。

「クリスマス休暇で、あまり人はいないだろう。それでも、無条件に誰でも社屋に入れるわけではないんだぞ」

「でも、あなたなら、私一人ぐらい、忍び込めるルートを確保できるでしょう?」

 ホアンが静かに頷いた。

「いいだろう。アナ、ジュニアを頼めるか?」

「サンタ・マリアに代わって、責任を持って預かります」

 マリアはジュニアを、アナの腕に預けた。マリアもコートを掴む。母が自分を置いていくとわかり、ジュニアは大きな声で泣き出した。

「ジュニア、良い子で待っていてちょうだい。ルイスがいったいどうなったのか、アンティルが今どういう状態にあるのか、ママは自分の目で確かめなければならないの」

 息子の泣き声を背に聞くと、身を裂かれる思いになる。でも、ここは、お互い耐えなければ。

 マリアはホアンの後に続き、マイケルの家の玄関を走り出た。

『ラ・ベルダッド』はタジェール通りからバスで二駅の、サン・ペドロにあった。暢気にバスに揺られる気がせず、タクシーで社屋に乗り付けた。

 警備の人間に、ホアンが社員証を見せる。マリアは殊勝な顔で、ぺこりと頭を下げた。

「僕のかみさんなんです。上司に紹介したくて。ちょっといいですかね?」

「それだけ美人の奥さんがいたら、紹介したくもなるだろうなあ」

 結局、身体検査もされず、マリアは新聞社社屋に入ることができた。

 記者たちの机が並ぶ、大きな部屋に入った。一番奥の机の前に、胡麻塩頭の男が立っていた。ホアンを見ると、驚いた様子もなく、小さく頷いた。

「ホアン、ラジオのニュースを聞いて、来たか」

 ホアンが、こそりと、マリアに告げる。

「僕の直属の上司、サンチェス編集長だ」

 ホアンから、いろいろ話には聞いていた。アンティルからの亡命人だからと、仕事にも気を遣ってくれる人だった。ホアンの故国への思いに共感してくれている。

 マリアは深々と頭を下げた。

「初めまして。マリア・ウールデンです。アンティルの情勢で、新しい情報はありませんか?」

 ホアンが、マリアの言葉に付け足した。

「マリアは、先程のニュースで射殺されたというルイス・ウールデンの妻なんです」

 サンチェスは驚きに目を開いたが、すぐに冷静さを取り戻した。

「君たちは亡命者だ。我々メキシコ人なら知らなくてもさほど影響がない話でも、重要だろう。実は、永遠に記事にはできない情報がある。メキシコ政府がアンティル政権に揉み消すよう打診され、受け入れた事実だ」

 マリアは期待に胸膨らませた。

「もしかして、ルイスは実は生きていた、という情報ではありませんか?」

「いや、残念ながら、ルイスの死は事実のようだ」

 ホアンが、落胆するマリアの肩に手を掛けた。

「じゃあ、その情報とは何なんです?」

「社会革命クラブには、ずっと政府の女スパイが潜入していたらしい。コードネームは〝暁のテレサ〟。ルイスたち中心人物を油断させ、クラブの中枢に入り込んでいた。今回のクーデター計画の詳細は、前日から政府が把握していたんだ」

〝暁のテレサ〟……。やはりテレサは、スパイだったか。

 敵ながら天晴れ、と言うほかない。ルイスたち、社会革命クラブのほぼ全員の羨望を集め、クラブの中枢で計画の指揮を執った。ルイスほどの男が、すっかり骨抜きにされたのだから。

 マリアは悔しい思いで、呟いた。

「ずっと怪しいと思ってきたのに! 少なくとも女たちだけででも、もっと注意深く、テレサを監視しているべきだったわ」

「政府のスパイとして、テレサはプロ中のプロだった。僕たち社会革命クラブの人間より上手だったわけか」

 それでは、エヴァやフリオは、どうなったのだろう? 武装蜂起に参加し、捕えられたのだろうか? どうか逃げ延びていて欲しい。ホアンがサンチェスに尋ねた。

「編集長。捕えられたメンバーの名前はわかりますか?」

 サンチェスは残念そうに、首を横に振った。

「残念ながら、これ以上の情報をアンティル政府は発表していない。今後、また詳しい情報がわかったら、真っ先に知らせよう。ただし、公的発表ができない事実は、深く胸の奥にしまっておいてくれ」

 マリアは、がっくりと項垂れた。革命が失敗に終わり、ルイスが死亡した知らせは、どうしようもない事実のようだ。

 ルイスの気持ちを思うと、マリアはいたたまれなかった。

 ――ルイス……どんなにか悔しかったでしょう。もう、アンティルに未来はないの? 私たちは国を失い、これから先、どう生きていけばいいの?

 ルイスの死は、ラテンアメリカ全体に報じられた。各国の圧政に喘ぐ人間たち全員が、ルイスの死を嘆いた。

 革命家ルイス・ウールデンの妻であり、革命運動のシンボルでもあったサンタ・マリアが、メキシコのどこかにいるらしい。

 まるで巡礼の旅をするかのように、マリアの下を訪ねてくる外国人が、少なからず現れた。平凡な日々を送りたいと願うのに、マリアの日常は掻き乱されていった。

 その日の朝、マリアは久しぶりにジュニアを抱いて、家の外に出た。ジュニアが風邪気味だったから、今まで避けていたのだが、今日は洟水も出ないし、熱もない。ばたばたと暴れて、とても元気だった。

 近所の子供たちが、目の前の道路を走り過ぎていく。微笑ましい光景に目を細めていると、不意に声を掛けられた。

「セニョーラ・マリア・ウールデン?」

 日焼けした肌が漁師を思わせる、大柄な男が立っていた。

「そうですけど」

 すると男は、大声を発して、深く頭を下げた。

「サンタ・マリア、どうぞ、お力をお貸しください! 我らのベネズエラを助けてください!」

 マリアは面食らって、あんぐり口を開けた。

「ベネズエラ? 私、訪問した経験もないんですけど……」

「素晴らしい国です。政府さえ替われば、この世のユートピアになります。アンティルと同じですよ」

 マリアは思わず、「ああ……」と息を吐いた。この男のように、マリアに救いを求める人間が、後を絶たなかった。

 ルイスが革命に失敗した理由は、サンタ・マリアを蔑ろにした結果だ。テレサなどという女に聖なる冠を被せ、天の怒りを買ったのだ、とする説が、ラテンアメリカじゅうを駆け巡っていた。

 年も改まり、ようやく前を見て歩いていこうと思っていた矢先の話だった。メキシコにはアンティルに限らず、ラテンアメリカ各国からの亡命者が相次いでいた。どの国も例外なく混乱し、人々は圧政に苦しんでいた。

 故国の未来が見えなくて、マリアに縋り付く者もいた。自分の国までわざわざ出かけて、新たな革命を起こして欲しいと、無茶な願いを投げ掛ける者もいた。

 でも、そんな連中に限って、具体的な計画など何も持っていなかった。行き当たりばったりで、マリアさえ戴けば、なんとかなると思っている。

 今日こうして訪ねてきた男も、どんなゲリラ活動に参加しているのか、人数はどれぐらいで資金力はどのぐらいあるのか尋ねても、確かな答は返ってこなかった。

「あなたの聖なる力さえあれば、他に何も必要ない。ルイス・ウールデンは、あなたを掲げて、あそこまでやったんだから!」

 これでは話にもならない。マリアは、ただただ、頭を下げるしかなかった。

「私には、そんな力はありません。ようやく手に入れた新しい生活なの。どうぞ、放っておいて」

「貧しく苦しい国を救う活動は、あなたの使命でしょう」

 ――なんて勝手な話ばかりするのよ! 自分たちでなんとかしようと考えないの?

 マリアもつい、カッとなった。

「そんな使命を任されるいわれはありません! もう、放っておいて!」

 男は呆然と、マリアを見ていた。聖女たるもの、どんな願いも断らないとでも思っているのか?

「そうか、わかったぞ! お前がルイスを見捨てたんだな! だから、アンティルは未だに夜明けが来ないんだ!」

「何と言われようと、構いません。そもそも私なんかいなくても、革命の精神さえしっかりしていれば、あなたたちの国にも未来はあります」

 来訪した男は、ペッと唾を吐き捨てた。

「アンティルの聖母も地に落ちたな!」

 最後には悪態をついて、去っていった。

 初めての話ではない。来訪者を拒絶する度に悪態をつかれて、マリアの心は深く傷ついた。

 せっかくジュニアを伸び伸びと育てる場所を見つけたのに。もっと地方に隠れて、他人目を避けて生活をしなければならないのだろうか?

 そんなある日、マイアミが投函先のエアメールが、マリアの下に届いた。

 アメリカに知り合いはいない。知った人間の筆跡でもない。また、マリアの噂を知った人間が送ったファンレターだろう。

 しかし、宛名に書かれた名前に驚愕した。ルイス・ウールデン!

 ――どういうわけ? 誰かがルイスを騙っているだけなの?

 マリアはペーパーナイフで、慎重に封を切った。なんと、中にくしゃくしゃの茶色の封筒が入っていた。今度の消印はグァテマラ。

 封を手で伸ばし、もう一度ペーパーナイフを使う。ようやく便箋が現れた。

 開いた瞬間、目の奥が熱くなった。ルイスの字に間違いない。

 アンティルからメキシコのマリアに手紙を送っても、届かない現実はわかっていたはずだ。だから、他国の協力者の助けで、別の国から送ってもらう。

 決して、マイアミやグァテマラに、ルイスが生き延びているわけではない。いや、わからない。亡命直前のマリアのように、すっかり容貌を変え、協力者の手を借りて、他国に逃げているのかも。

 マリアは目を開き、一心に文章を読み始めた。

「愛しいマリア。この手紙がお前の下に届くとき、俺はこの世にいない。もし革命が失敗し、俺が死ぬことがあったら、海外の支持者の元を、この手紙は転々とするだろう。

 マリア、俺たちの別れ方は最悪だった。ジュニアを危険な目に遭わせて、本当に済まなかった。テレサを止められなかった、俺の責任だ。

 お前の言う通り、俺は親失格だ。ジュニアはお前が育ててくれ。立派な男にしてくれ。できれば、俺の話も時々はしてやって欲しい。ジュニアの心の中で、俺は生き続けたいんだ。

 マリア、俺は死を恐れているわけではない。でも、革命を前日に控えて、俺は震えている。俺が死ぬとなったら、原因はテレサだ。

 時々、テレサがわからなくなる。俺もだんだん、信頼しきれなくなった。もしかしたら、あいつはスパイなのかもしれない。でも今更、計画を止めるわけにはいかない。各島に同志が待機し、明日に備えているからだ」

 ルイスはテレサに疑問を抱いていた! それなのに計画を進めなければならなかった。ルイスはリーダーだ。一度こうだと下した結論を、変える真似はできなかったのか。自分が感じているだけの漠然とした不安だけでは、予定変更はできない。

 大勢を率いる男の宿命であり、孤独の所以だろう。

 もしマリアやホアンが側にいたら、事態は違っていただろうか?

 でも、ルイスは、ジュニアを誘拐しようとした。穏便に離婚の相談ができていたら……。

 離婚を決めた理由は、テレサにあった。ルイスがテレサを信じられなくなったのだとしたら、マリアとの関係も続いたかもしれない。

 少なくとも、アンティル唯一の希望の光、ルイスの命が消えることはなかった。

 目の奥が熱くなった。後悔でどうにかなりそうだった。マリアは辛い思いを振り切り、最後の文章に目をやった。

「マリア、どうか幸せになってくれ。俺では与えられなかった幸せを、ホアンから与えてもらえ。ジュニアを頼む。立派な男に育ててくれ。

 千のキスをお前とジュニアに贈る。マリア、ホアンと幸せに。でも、俺のことも忘れないでくれよ。

 「ルイス・ウールデン」

 マリアは祈る思いで、便箋を胸に当て、目を閉じた。

「忘れたりするものですか。あなたと出会った人は皆、同じよ。強いカリスマ性に魅せられ、夢中になり、忘れられない」

 苦労ばかり掛けられてきた気がする。それでも、思い出すシーンは、楽しかった出来事、ルイスの素晴らしい側面を示すエピソードばかりだった。

 ルイスの意志は、影響を与えた人間たちの胸の中に生きている。アンティルは、このまま、革命の炎を消したりしない。きっと、生き残った同志が、立ち上がってくれる。今は信じるしかなかった。

 その夜、マリアとホアンは、大きなキャンドルに炎を灯し、ルイスの魂に祈った。

 革命家ルイス・ウールデン。壮絶な死を忘れてはならない。ルイスの意志は、ラテンアメリカのあちこちの国で受け継がれ、きっと革命の成就に結びつく。

「ルイス、どうぞ、天国から見守っていてね。私とホアン、ジュニアのことも」

 ホアンが優しく、マリアを抱き寄せた。

「僕はともかく、君とジュニアは絶対に見ていてくれるよ。僕も、君を蔑ろにしたりしたら、きっと罰が下る。そういった意味では、今後の人生も気が抜けないな」

 ホアンは新聞社で、ラテンアメリカ各国の情勢を見つめながら、歯痒い思いをしているようだ。

 できるなら、困窮した国へ行き、民衆を助けたいと思ってもいるだろう。でも、今は家族を一番に考えてくれている。

 このままメキシコシティにいたら、マリアを訪ねてやって来る革命家希望者が後を絶たない。もっと田舎の小さな町に居を移し、家族三人で、静かに暮らしていきたいと願うマリアの希望を叶えようとしてくれている。

「荷物が纏まり次第、グアナフアトに引っ越そう」

 マリアは済まない思いに、頭を垂れた。

「ごめんなさい、ホアン。私の我が儘で、せっかくメキシコで一、二を争う大きな出版社を辞める事態になってしまって」

「なにを言う。家族一つ幸せにできない男が、なにができるっていうんだ。それにグアナフアトは、メキシコ革命の英雄ミゲル・イダルゴがいた町だ。きっと、この町にいたら、僕の今後のためにも、なにか得るものがあると思う」

 マリアは一抹の寂しさを感じた。〝僕の今後のためにも〟と言うのなら、マリアとジュニアは入っていないのか、と。

 テレサとの銃撃戦を生き抜いてきたからといって、マリアは革命の本質をわかったわけではない。たった一回、命の危機を切り抜けた程度で、なにがわかるのか。

 革命では、一瞬一瞬の行動が、死と隣り合わせの世界に自分の身を置く。ホアンには、覚悟があった。でもマリアは、まだ、そんな覚悟はできない。

 あと、数年は待って欲しい。ジュニアの世話はどんどん忙しくなるだろうが、ある程度まで大きくなったら、ベビーシッターを雇う道もある。

 いざとなったら、絶縁状態の母に話をつけ、ジュニアをしばらく預けてもいいと思っている。幸い、ジュニアはマリアの血を濃く受け継いだ。母たちが暮らす地区でも、惨めな思いはしないだろう。

 そうなると、実の父親ルイスの話を誰が聞かせるか、の問題も起きるが。

 今はまだ、なにも決められない。一日一日を、精一杯生きよう。そのうち見えてくる世界が、あるかもしれない。

 マリアは伸び上がり、ホアンにキスすると、寝息を立てているジュニアのベビーベッドに近づき、そっと布団を掛け直した。


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