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南国のマリア  作者: 霧島勇馬
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第一章 混沌の国、アンティル

   第一章 混沌の国、アンティル

 ウィンドラー大学の政治革命クラブの会合。

 壇に二年生のルイス・ウールデンが上った。女の黄色い声が飛ぶ。ルイスは両手を上げ、歓声を制すると、拳を振り上げ、熱く語りかけ始めた。

「この国を変えよう! 政府は腐っている。今こそ我々が――」

 突然、会場内の照明が落とされた。歓声が、どよめきに変わる。

 普段はダンスホールに使用される会場に集まっていた若者は、三十人はいただろうか。

 誰かが叫んだ。

「警察のガサ入れだ! 逃げろ!」

 偶然、一番前の列にいたマリア・ヒューズは、突然の混乱に巻き込まれ、どうしたらいいか、全然わからない状態に陥った。

 マリアはウィンドラー大学に入学したばかりの一年生だった。せっかく、オランダ領アンティルで一番といわれる大学に入ったから、学業の他に文化活動をしようと考えた。

 それで、学内で受け取ったチラシを頼りに、会合に来てみたら、この騒動だ。

 女たちの悲鳴があちこちで聞こえ、ぱんぱん、と発砲音さえした。

 冗談じゃない! こんなところで捕まるなんて、とんだヒューズ家の恥さらしになる。

 なんとか逃げないと!

 そのとき、壇上から、逞しい腕が伸びた。

「こっちへ。このまま出口に行っても、サツに捕まるだけだぞ」

 見知らぬ男の声、男の腕。でも、警察に捕まるよりは、男の指示に従ったほうが得策の気がした。

 マリアは長いスカートを膝まで捲り上げ、壇に上った。男がしっかりとマリアの白い手首を掴む。そのまま、舞台袖まで連れていかれた。暗がりで、顔は全く見えない。

 二人は逃げ惑う人間に揉まれながら、外に出た。もう辺りはすっかり暗い。黒いアスファルトに、むんと湿気を含んだ空気。

 外に出たというのに、男は手を離してくれない。そのまま、ずんずん、マリアを引っ張って、通りの奥へ向かう。

 マリアは藻掻いた。

「痛いわ、手を離して!」

「捕まりたいのか!」

「何も悪いことはしてないわよ!」

 男はとりあえず、路地の死角にマリアを引き込んだ。肩を掴み、じっとマリアを見下ろす。このときマリアは初めて、男の顔を見た。

 ルイス・ウールデン。警察介入の直前に、演説を始めようとしていた男だった。

 褐色の肌に黒い髪、黒い瞳。ヨーロッパの植民地となっていた頃にやって来た人間の匂いは、あまりしない。現地人の血を濃く受け継いでいるようだ。

 それにしても、この男の目は、なんと澄み渡っているのだろう。漆黒の闇のような黒い瞳が、月明かりに、きらきらと純粋な輝きを放っていた。見詰め合っていると、吸い込まれそうになる。

 ルイスはマリアを抱える手の力を緩め、ゆっくりと言葉を継いだ。

「何もしていなくたって、警察は君を捕まえるさ。逮捕するのに、理由なんか要らないんだ」

「そんな、まさか! 警察は悪いことをした人を逮捕するのが仕事でしょ?」

「政府にとって、悪いこと、だ」

 マリアもだんだん、理解してきた。どうやらマリアは、とんでもない集会に潜り込んでしまったようだ。

 大学のクラブ活動の一環だと思っていたら、政府転覆を企む、ゲリラでも集っていたのかもしれない。

 厄介ごとは、ご免だ。それでなくても、このところマリアは、周囲の問題に頭を悩ます日々だった。

「私、もう帰ります! 場違いな所に来たんだわ」

 立ち上がろうとすると、パトカーのサイレンの音が、二重、三重に聞こえてきた。警官が走り回る靴音が大きく耳に響く。

「あっちへ逃げたぞ! 捕まえろ!」

「二人、捕獲! さあ、大人しくするんだ!」

 マリアは思わず、再びしゃがみ込んだ。このまま出て行けば、確実に逮捕される。

 ルイスが、ニッと笑った。

「な、ここは、いったん、隠れるに限るさ」

「隠れるといったって……ここで、このままいても、見つかるわ」

 ルイスはマリアを安心させるように、ぽんと肩に手を置いた。

「大丈夫。俺たちの隠れ家が近くにあるんだ。警察の隙を衝いて駆け出せば、逃げおおせる」

 マリアはだんだん、腹が立ってきた。ルイスたちが何を企み、集会を開いていたかはしらないが、とんだ飛ばっちりだ。

 大学に通うに当たって、下宿先となった叔母の家の門限は午後九時。どう頑張っても、間に合いっこない。

 ――「これだから、女に余計な教育を受けさせるのは、反対だったのよ」

 母の嘆きが聞こえてきそうだ。

 一九四八年のカリブ海に浮かぶ島国は、ラテンアメリカ全体を包む、暴力と破壊に頼った政府に囲まれていた。

 他の国々も、クーデターに次ぐクーデターで、政権はころころと変わる。マリアは政治に詳しいほうではなかったが、ルイスたち大学生が、今の政治を憂う気持ちは、わからないではない。

「走るぞ!」

 ルイスの声に我に返り、頷いた。ルイスは再び、マリアの手を取った。今度は手首ではなく、手を握る形で。

 二人は腰を屈めたまま、路地から路地へ、素早く移動した。警官の制服が近くに見えたら、息を殺して、過ぎ去るのを待つ。

 次第に、目と目で会話ができる状況になってきた。

 ルイスが小さく頷いた。マリアは瞬きし、了解の合図を取った。

 湯気の立つ、黒いアスファルトの大通りを、駆け抜ける。

「名前は?」

「マリア。マリア・ヒューズ」

 警察の包囲網を抜けた安心感からか、ルイスの声が柔らかくなる。

「ブロンドのマリアか。まるでラファエロの絵画に出てくる、聖母マリアのようだな」

 聖母マリアのようだと言われるのは、初めてではない。マリアは、ヨーロッパの白人たちが好む聖母子像に出てくる聖マリアに似ていると、よく言われた。

 白人は、この国には少数派だ。だいたいが、スペイン人と現地人の混血、他のラテンアメリカ諸国から流入したヒスパニック系、それに黒人奴隷の血を引く人間が、合わせて八割。褐色の肌をしていないと、アンティルでは随分と目立つ。

 走りながら、ルイスが問いかけた。

「スペイン語は話せるか?」

 アンティルはオランダ領自治区なので、公用語はオランダ語になる。マリアのような上流階級の人間は、オランダ語に加えて、フランス語の素養もあるのが一般的だった。

 スペイン語が話せなくても、世間に広く目を向けないのなら、暮らしていける。たとえば、マリアの母アリシアのように。

 マリアはスペイン語も理解できた。小学校時代の親友が、ヒスパニック系だった。その頃から、アンティルを支配する白い肌のヨーロピアンとだけ、交流していく気持ちはなかった。

「話せるわ」

「よかった。これから行く先は、スペイン語しか通じないんだ。それと、君の容貌は相当に浮くと思うから、覚悟してくれ」

 十五分も走ったろうか。いつになったら目的地に着くか知らされていないまま、暗い夜道を駆ける真似は、辛かった。

「ねえ、どこまで行くの? どんどん辺りが暗くなるわ」

 まだ就寝の時間には早いだろう。しかし、どの家の窓からも明かりが漏れていない。

 店はシャッターを閉め、民家は窓に遮光幕を張っている。ここはいったい、どういう街なのか?

 ルイスも、マリアの不安な思いに気づいたようだ。少し走る速度を緩め、マリアに語りかけた。

「首都ウィレムスタットの一角に、こんな物騒な街があったなんて、思いもしなかったろう」

「やだ、物騒なの?」

「男は歩いていたら追い剥ぎに遭い、暴力を受ける。女は一人歩きでもしていたら、レイプされる。命があれば御の字といったところだ。ここら辺一帯は、罪の街と呼ばれているんだ」

 恐怖に身が竦んだ。思わず、ルイスの手を握る力を強める。

「大丈夫だ。今は俺がいる。俺の前で堂々と悪さをする人間がいないのも、確かだ」

 ルイスは、罪の街でそんなにも影響力があるのか。ホッとした安心感から、何気なく言葉を吐く。

「じゃあ、これからあなたが、正義の街にしていかなきゃね」

 ルイスは驚いた様子で立ち止まり、振り返った。

「立ち止まらないでよ! 危険なんでしょ?」

「正義の街、か。そいつは素晴らしいな! マリア、君は俺のブレーンになれるぞ!」

 マリアには、ルイスの興奮が今ひとつ、よくわからなかった。

「ここは、俺が育った街でもある。この街を、正義の街と呼べるようにしていく! この発想は受けるぞ。なんといったって、未来のアンティルの守護者が生まれた街なんだからな!」

 ふと角で、黒い影が動いた。マリアは、恐怖に息を呑み、ルイスにしがみついた。ルイスも身を固くしたが、すぐにリラックスした。

「ホアン、おまえも会合から逃げてきた口か?」

 ホアンと呼ばれたヒスパニック系の男は、ぬっと二人に近づいた。百八十センチはある長身の男だった。でも、瞳の光は穏やかだった。

「いや、僕は学部長の仕事の手伝いを終えて、まっすぐグアダルーペに向かうところだったんだ。会合は荒れたのかい?」

「まあな。いつもの話さ。ところで、この女性は、サンタ(聖)・マリア・ヒューズ。今日たまたま出会ったばかりの、俺の聖女だ」

 サンタ・マリアだなんて……。マリアという名は、ラテンアメリカでは当たり前の名前だ。マリアの両親だって、特別に聖女を気に懸けて付けたわけでもあるまい。

「とりあえず、握手は店に入ってからにしよう。いくらルイスがいるからって、いつまでも長話できるほど、治安のいい地区じゃないからな」

 ホアンは小さく頷くと、先に立って歩き出した。マリアも安堵して、ルイスと続いた。

 間もなく、《グアダルーペ》と看板が掲げられた店の前に来た。ここの窓からは、灯りが漏れていた。

「グアダルーペ……。メキシコで聖マリアが降臨したと言われる場所よね」

 ルイスが愉快そうに、マリアの肩を抱いた。

「ここに今夜、俺のマリアが降り立ったのさ。さあ、入ろうぜ」

 俺のマリアって……。いつのまにマリアはルイスの所有物となったのか? もちろん、友人、ぐらいの意味だとは、わかってはいるが。

 マリアはなぜこんなにも自分がルイスに気に入られたかがわからず、戸惑っていた。

 店の扉を開けると、チリリンと鈴が鳴った。

「いらっしゃい! あら、ルイスにホアン。大学から一緒に来たの?」

 オレンジ色の灯りの中、客は五、六人いた。皆、顔馴染みの様子で、リラックスした笑顔で迎えてくれた。

 声を掛けてきた女は、この店の女将のようだ。褐色の肌に漆黒の長い髪。

 でも歳は、未成年禁制の品を商うには、随分と若い印象だ。まだ、二十二、三歳ぐらいではないのか?

 背は百六十五センチ程度、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んだ、見事なプロポーションの持ち主だった。

 ホアンが明るく応えた。

「いや、別々だ。でも、ルイスの会合は今日もまた、一波乱あったみたいだぞ」

「やあねえ、また逃げてきたの?」

「サツは俺のケツの穴を狙っているからなあ」

 どうやらルイスとホアンには、いつも特別の席があるようだ。店の中央の丸いテーブルに、女将が水を入れたコップ二つを置いたところで、マリアの存在に気づいた。

「あら、そのお嬢ちゃんは? 言葉はわかるの?」

 マリアは、またサンタ・マリアだなんて紹介されたくなかったから、自己紹介に踏み切った。

「初めまして、マリア・ヒューズです。ルイスの会合に偶然、足を運んで、混乱の中を逃げてきたんです」

 女将は慌てて、カウンターに戻り、もう一杯、コップを持ってきた。

「それは災難だったわね。ここは安全だから、安心して。息を切らしているようだから、水でも飲んで落ち着きなさいな」

 マリアは心底、安堵した。ようやく、一息つける。

「ありがとう、女将さん」

 女将はからからと笑い、お盆を背中に回した。

「エヴァでいいわよ。エヴァ・パレス。女将って言われるほど、歳も行ってないしさ」

「いくつなの?」

「二十二よ」

 これには驚いた。その若さで、なんとどっしりした輝くような女なのだろう。まさに、女が憧れ、男が足下で甘えるような貫禄の持ち主だった。

 三人は、そのままの流れで、席に着いた。マリアは一気に水を飲み干した。エヴァがすかさず、お代わりを淹れてくれる。

「お酒はあまり飲めなさそうだから、なんか軽い飲物を作るわね」

 マリアは感謝の思いで頭を下げた。

「ありがとう、エヴァ」

 エヴァといえば、創世記のアダムとエヴァから来ているのだろうか? マリアが聖母などと重ねて呼ばれた経緯から、余計な問題まで考えてしまう。

「エヴァといえば、アルゼンチン大統領夫人のエヴァ・ペロンと同じ名前ね」

 マリアは褒めたつもりだった。しかしエヴァは、露骨に顔を顰めてみせた。

「ああ、あの似非聖女ね。エヴィータだなんて崇められてさ、アルゼンチンの国民は、とち狂っちゃったのよ」

 ホアンがにやりと笑って、マリアを見た。

「エヴァに政治を語らせたら、熱いぞ。僕たちなんか、ぐうの音も出ないほど、やり込められる」

「失礼ね。間違った話はしていないでしょ?」

「そうだけどさ。マリアに、僕たちと同じつもりで熱弁を振るうのはよせよな」

「ごめんごめん、マリア、気を悪くした?」

 気を悪くさせたか心配だったのは、マリアのほうだった。マリアは口の端を上げ、二杯目の水に口を付けた。

「ぜんぜん。正直、荒野から楽園に逃れてきた気分よ」

「アダムはいないけどねえ。ま、ゆっくりしていきなさいな」

 ゆっくりしていきなさいな、か。マリアは不安な思いに、壁の時計を見上げた。午後九時十七分。門限は、とうに過ぎていた。

 ルイス、ホアン、エヴァの三人は、さっそく今夜やって来たマリアの素性について、詳しく知りたがった。

「祖父の代から、石鹸を作っているの。ヒューズ工業という会社を興して」

 エヴァが目を開いた。

「おっどろいた! ヒューズ石鹸っていったら、国内一の売り上げを誇る、一流企業じゃないのさ。マリアの白い肌は、ヒューズ石鹸の賜物なわけね」

 マリアは苦笑した。家族について話すとき、いつも感じる躊躇いを、今も感じていた。ヒューズ家の出だと知るだけで、お金持ちの甘ったれお嬢ちゃん扱いされる。

 確かにマリアは、ここにいる三人のように、政治について主義主張こそなかったが、世の中は、もっともっとよくなる必要があると感じていた。

 ホアンがテーブルに肘を突き、頬杖を突いてマリアを見上げた。

「僕らの政治革命クラブには、なぜ来る気になったんだい?」

 なぜって……。まさか、最初に貰ったチラシに書いてあったから、なんて白状できない。無理して背筋を伸ばし、顎を引く。

「この国がもっと良くなって欲しいと願ったからだわ」

 マリアは自分でも、目が泳いでいる状況なのがわかった。じっと見詰めるホアンが、悪戯っぽく笑ったが、特に何も反論しなかった。

 横に座るルイスが、マリーの肩を抱き寄せた。

「今夜は運命の夜だ! 俺は、我らがサンタ・マリアを、ついに見つけたんだからな!」

 エヴァが白けた顔で、背凭れに体を預けた。

「あんたの女の使い方って、いつもこの程度よね。女にも有能で、あなたと共に戦いたいと願う者は、いるのよ」

「そういう女たちには、どんどん動いて欲しいな。人口の半分は女だ。井戸で水を汲み、台所で火を熾す毎日じゃ、世界は変わらないんだから」

 エヴァが、マリアにこそっと囁いた。

「ルイスは女にもてるのよ。恋人にすると、いろいろ気を揉むわよ」

 マリアは、頬が熱くなるのを感じた。

「恋人だなんて! 今、会ったばかりよ。その上、面倒にも巻き込まれて、散々な出会いだったわよ」

 頭の中では、下宿先の叔母が、足を踏みならしている姿が浮かんだ。

 大学に入ったばかりで、いろいろな刺激を受け、さまざまな友達を作るまでは、理解してもらえるだろう。

 でも、過激な活動を繰り広げる男子学生と親しくなり、警察を撒いて飲み屋に来ている現状は、決して許してもらえないだろう。

「どうしよう……門限はとうに過ぎたわ。羽目を外すにしても、男子学生と夜通し一緒だったなんて知れたら、私、もう大学に通わせてもらえなくなる」

 そこでエヴァが、ぽんと胸を叩いた。

「じゃあ、私と友達になったことにしたら? 飲み屋じゃ印象が悪けりゃ、喫茶店かなんかにしてさ。私が引き留めて、遅くなったって作戦にしましょうよ」

「エヴァもウィンドラー大学の学生なの?」

 エヴァは愉快そうに笑った。

「飲み屋の女将が、夜学で大学を出るって? そんなの、面倒なだけよ。刺激はいつも、ルイスやホアンから貰っているしね。でも、マリアが苦境から逃れるためなら、即席の女子大生になってあげるわよ」

 ありがたい言葉だった。女友達の元にいたと主張すれば、叔母も安心するだろう。どうせ、マリアの首に鎖は付けておけないのだから。

 マリアとエヴァが話をしている間、男たちは、ノートと筆記具を出し、何やら作業していた。マリアは純粋な興味で尋ねた。

「何やっているの?」

 ホアンが、ペンを指先で器用に回した。

「今夜の会合に警察の手が入った抗議の記事を、学生新聞に載せるのさ」

 エヴァが説明の補足をする。

「ホアンはルイスのスピーチ・ライターよ。ルイスのカリスマ的な言葉は全て、ホアンのペンから編み出されるの」

「でも警察を、非難するの? 危険でしょう?」

 ルイスがニヤリと笑った。明るく自信満々の笑顔に、マリアはドキリとした。

「危険なのは百も承知さ。でも、このまま黙っていれば、腐った政府は、どんどん人民を苦しめる。首都から少し離れた土地では、灌漑設備も整っていない現実を忘れちゃいけないんだ」

 ホアンが控えめに付け加えた。

「僕の弟たちは、靴も買えずに、素足で駆け回っているよ」

 別に嫌味な言葉ではなかった。ただ、マリアは酷く落ち込んだ。

 蛇口を捻れば必ず水が出てくる。身なりを整え、国一番の大学に通うファッションは、先日、女性誌の巻頭カラーを飾った。

 ――私の知らない世界が、この国にはたくさんある。ルイスたちは知っているんだわ。

 自分がとてつもなく馬鹿に思えた。ふわふわと、鮮やかに彩られた上流階級の集まりしか知らなかった。

 エヴァは、まるで自分が誇らしくあるかのように、声を上げた。

「ルイスはね、学生だけど、もう革命人民党の党員なのよ。被選挙権が取れたら、立候補し、この国のトップを目指すの」

「トップって……大統領?」

 ルイスは自信たっぷりに、頷いた。

「国民の僕となり、アメリカやオランダ王国が握る権力を奪い返すんだ。今のアンティルは、オランダの州の一つ程度にしか扱われていない。大衆は飢え、貧困に喘いでいる。こんな世界を変えるんだ」

 マリアはそれ以上、会話に入っていく自信がなくなった。今まで、あまりに何も考えないで生きてきた。

 大学生になり、外の世界を知りたいと、家を飛び出した。ルイスたちとの出会いが、マリアを変えてくれるだろうか……。

 ここでルイスは、悪戯っぽくウィンクした。

「なあ、マリア。俺の女になれよ。将来、ファースト・レディになれるぞ」

 あまりに突拍子もない発案に、マリアは声を立てて笑った。やがて、ルイスの表情が真剣な様子に気づいた。

「私たち、会ってまだ間もないわ」

「俺はもう、お前の虜だ。お前も俺を魅力的だと感じるだろう?」

 否定はできなかった。ルイスの精力的な容貌には惹かれたし、話を聞くうちに引き込まれていく。

 でも、これは恋なのか? と問われれば、言葉に詰まる。

 そこまでの熱い思いは、まだない。だから、マリアは当たり障りのない言葉で、ルイスを躱した。

「友達から始めましょう。お互いをもっと良く知れば、この関係が間違いじゃないってわかると思うから」

 時計の針が、十一時を指した。楽しさに時間を忘れるとはいえ、いくらなんでも、もう帰らなければ。

 マリアはハンドバッグの紐を握り直した。

「私、もう帰るわ。誰か、この街を出る道を教えてくれないかしら?」

 エヴァが驚いた様子で、目を剥いた。

「駄目駄目、今から帰るなんて! 無事に街の外になんて、辿り着けっこないわよ。今夜は、ここに一泊していきな」

 さすがに外泊は抵抗があった。一時になろうが、二時になろうが、帰れなければ。図々しいとは思いながらも、男たちに頼んでみる。

「ルイスかホアン、従いてきてくれない?」

 ホアンが、壁の時計を見上げ、息を吐いた。

「いくらなんでも、危険だよ。君を送り届けられても、ここまで戻る間に、僕かルイスが倒れかねない」

 マリアは、ぞっと戦慄した。なんてところに連れて来られたのか! これじゃまるで、牢獄だ。

 エヴァがマリアに同情する様子で、肩を叩いた。

「大学生活初の、羽目を外した夜よ。一日ぐらい帰らなくたって、もう大人が、あれこれ言える歳じゃないわよ」

 マリアは縋る思いで、エヴァに問いかけた。

「じゃあ、朝になったら、エヴァ、私と一緒に叔母さまの家に来てくれる? 男のアパートで一夜を明かしたんじゃないって、証明して欲しいの」

 エヴァは、ふむと鼻の下を撫でた。

「上流階級に接する機会なんて、なかなかあるものじゃないしね。いいわ。従いていってあげる」

 ルイスが席を立ち、ジューク・ボックスにコインを入れた。すぐに、マリアの元に戻ってきた。

「踊ろうぜ、マリア」

 ルイスの誘いは、なかなかに決まっていた。マリアは口の端を上げ、立ち上がり、ルイスの手を取った。

 流れてきた音楽は、優雅なワルツ。音色に乗り、二人は踊り出した。

 他の客たちは、マリアとルイスの踊りに見惚れていた。エヴァも愉快そうに笑顔で、マリアを見る。

 ルイスと踊っていて気になるのは、エヴァの視線だった。エヴァは懐の深いところを見せているが、ルイスと良い仲なのではないか。

 なのに突然、ブロンドの聖女さまを連れてきた。機嫌が悪くならないところを見ると、ルイスとは特別な関係には、ないのかもしれない。

 でも、もてる男だと、つくづく思った。《グアダルーペ》には他に女性客はいなかったが、もしいたら、ルイスの取り合いになっていただろう。

 むんと匂い立つような、男の魅力があった。黒い瞳に見詰められたら、体じゅうが吸い込まれる錯覚に陥る。

 どうせ、今からは帰れない。今の状況を素直に楽しむべきだ。

 ルイスの腕の中でくるくると回りながら、マリアはかつてない開放感を味わっていた。

 結局、明け方まで踊り明かした。ホアンは途中で眠ってしまい、奥のコーナー席に運ばれた。ホアンはルイスほどには精力的でないのだろう。

 ルイスは最後までマリアを、自分のアパートに誘っていた。

「いいじゃないか、夢のような冒険の始まりだ」

 マリアは懸命に冗談めかし、聞き流した。

「堅すぎる女と思われてもいいわ。これが私なの」

 結局、ルイスを迎えに来た友人の後を追って、明け方の道に出て行った。

 マリアとエヴァは、軽く顔を洗い、メイクを直した。

 明け方の罪の街は、不衛生この上なかった。残飯が無造作に捨てられ、酔っ払いまで寝転んでいる。財布は既に取られたあとだろう。

 ルイスが言っていた。命があるだけ、御の字だ。

 昨夜の会合があったホール近くに来ると、マリアもようやく安堵した。

 九時始発のバスに乗る。もっとも、バスが到着した時間は、十時近かった。二時間ほど揺られると、マリアの見慣れた風景に変わった。

「ここよ、エヴァ。私が住んでいるゲルドフ市なの」

 エヴァがバスのドアを開け、片手をうんと伸ばした。

「わぁ、漂っている空気からして、違うわね。まさにあんたたち、白い世界の居住地よ」

 白い世界……。昨夜はマリア一人、肌が白く、浮いていた。

 でもマリアの家の周囲には、白人しか住んでいない。褐色の肌といえば、庭師や馬丁や給仕係だ。

 ここに来て、ハッとした。エヴァはスペイン語しか話せない。マリアの家族が、スペイン語しか話さない女を、友人と認めるかどうか。

 エヴァがハンドバッグからコンパクトを取り出し、前髪を直した。

「私は、あんたが泊まった家の使用人、ってことにしておきましょう。オランダ語もフランス語も、訛りが酷いから、最初から設定するに限るわ」

 マリアは済まない思いで、頭を下げた。

「ごめんなさい、エヴァ。あなたに酷い役回りを演じさせるしかないなんて、私、歯痒いわ」

 エヴァはコンパクトを閉じ、マリアに向け、ニッと笑った。

「ルイスが大統領になるまで、我慢しなきゃね」

 バスを降りると、白い石畳が広がっていた。《グアダルーペ》の前の道など、舗装すらされていなかった。

 少し歩くと、青々とした芝生の庭を持つ、ヒューズ家が現れた。エヴァの顔が引き締まる。

「凄い贅沢三昧だわね。一部の特権階級は、こんな素晴らしい暮らしをしていたわけか」

 マリアは自分が恥ずかしくなった。潤沢な金で女にまで教育を施す、確かに恵まれた人種だ。

 扉を開くと、黒人メイドのモリー・スーが走って来た。

「お嬢さま、ご無事だったかい!」

 マリアはモリー・スーを抱き留めると、さっそくエヴァを紹介した。

「こちら、エヴァよ。昨日、帰れなくて泊まったお宅に務めていらっしゃるの」

 エヴァは笑顔で、モリー・スーに手を差し出した。

「オラ、コモ・エスタス・ビエン?(こんにちは、ご機嫌いかが?)」

「ムイ・ビエン、グラシアス」

 モリー・スーは応えると、さっそく叔母シルビアを連れてきた。

「この方のご主人の下に泊まったそうです。使用人を持っているぐらいだから、相応のお方じゃないでしょうかね」

 マリアは叔母の前で、素直に詫びた。だからといって、本当の話などしはしないが。

「大学で映画クラブに入ったの。その子が、アパートにスクリーンを持っていて、夜じゅう映画を見て過ごしたのよ」

 叔母は胸の前で腕を組み、怖い顔をしていた。

「なんていう名前のお方?」

 一晩泊めてもらったお礼に何か品物を、とでも考えているのだろう。余計な気遣いだった。

「え、えっとね、パレス。でもその子はアパートに一人暮らしで、使用人にエヴァがいるだけなの」

 エヴァは、何もわからない振りをし、にっこり笑顔でマリアの横に立っていた。

「まあ、使用人を寄越して、状況を説明しようとした点は評価するわ。今後は、こういうことの絶対ないようにね」

「はい」

「ダニエルがあなたに会いに来ているのよ。まったく、昨日でなくてよかったわよ。とんだふしだら娘かと思われたでしょうからね」

 途端にマリアの気分が重くなった。ダニエル・ロイドはアメリカ人で、アンティルの砂糖生産を手助けする研究員の一人だった。

 実際には、アンティルの主要輸出産物である砂糖を安く買い叩いているアメリカ企業の人間だった。

 マリアに気があり、よく遊びに来ていた。叔母がダニエルに好意を持っているため、マリアはいつも、つまらない話の相手をさせられていた。

 現実はいつだって、重たい扉をマリアの前に用意して、行く手を塞ぐ。

 エヴァが小声でマリーに囁いた。

「私、もう失礼するけれど、大丈夫? なんだか顔色が悪いわよ?」

 マリアは小さく息を吐き、諦めの思いで顔をエヴァに向けた。

「ルイスによろしく。昨日の夜のダンスは私、しばらく忘れられそうにないわ」

 エヴァは同情の顔で、マリアの肩を叩いた。

「いつでも《グアダルーペ》にいらっしゃいな。時間を間違えなければ、一人でも平気だし、楽しめるわよ」

 マリアとエヴァは、頬にキスし合って、その場で別れた。エヴァも、にこやかに手を振り、そそくさと玄関の外へ出て行った。

 昨日の出来事は、マリアの小さな冒険だった。夢のように駆け抜けた、エネルギッシュで熱い人間たち。でもマリアとは住む世界が違う。

 もうルイスもホアンもエヴァも、会う機会はないだろう。マリアは煌びやかなだけの空しい空間へ向かうべく、廊下を歩いていった。

 客間に入ると、中央のカウチにダニエルが座り、暢気にコーヒーを飲んでいた。

 コーヒーも、砂糖と並んで、アンティルの有数の輸出物だ。アメリカ人はコーヒーが好きらしく、アンティルのコーヒーもよく飲むと聞く。

 ――でも、これでもかっていうくらい、安く買い叩いているのよね。

 昨夜ルイスと話をした影響だろうか? 普段から苦手なアメリカ人のダニエルが、今は大嫌いになっていた。

 ダニエルは薄茶色の目を開き、嬉しそうに笑った。

「やあ、マリア、お邪魔してるよ」

「……いらっしゃい。今日は、なんのご用?」

 マリアは仕方なく、ダニエルのそばに寄り、頬に挨拶のキスを交わした。そのまま横には座らず、斜め横の距離がある椅子に腰掛けた。

「君に会うためさ。この家に、それ以外、僕が気に入る家具調度もないしね」

 マリアは頭に血が上った。

 ――私は、気に入った家具調度の一つだとでもいうの?

「私は決して、座り心地が良くはなくてよ」

 ダニエルは、下ネタかと思ったらしく、乗ってきた。

「まだ、乗らせて貰ってないから、わからないなあ。それとも、今夜、どう?」

 ニッと歯を見せて笑いかけてきたが、すぐにマリアの怒りに気がついた。

「おいおい、怒らないでくれよ。アメリカ人はジョークが好きなんだ」

「とびきり下品な、ジョークがね」

 ――私は、そんなアメリカ人が大嫌いだわ!

 わざと不機嫌な顔を作り、視線を外した。ダニエルは困った様子で、頭を掻いた。そこへ叔母シルビアが入ってきた。

「どう、楽しい話になってきた?」

 ダニエルは既に、叔母と何やら話をしていたらしい。マリアを楽しませるような、何か話題があると言い張るつもりか?

「いや、どうにも、僕が機嫌を損ねちゃって」

 叔母は、にっこり笑顔で、マリアの横に座った。

「女の気分なんて、お天気のようなものよ。ころころ変わるの。気にしないことね」

「はい、そうします」

 しばらく、妙な沈黙が流れた。ここは叔母が口添えをする必要を感じたようだ。マリアに向かって、これでもかというくらい優しい笑みを浮かべた。

「ダニエルは、あなたをニューヨーク旅行に誘いたいのよ」

 ニューヨーク? 言わずと知れた、世界一の摩天楼。そんな場所にマリアを連れて行って、どうするつもりなのか?

「独身女が、たった一晩、家を抜けただけでも大騒ぎするのに、男性と海外旅行なんて、しろというんですか?」

「だから、結婚して、新婚旅行に行くのよ」

 結婚? 十八になったばかりのマリアが? よりにもよってアンティルを搾取しているアメリカ人と?

 自然と、声が刺々しくなった。

「なんで私が、ダニエルと結婚しなきゃならないんですか?」

 叔母はマリアのこんな反論は予想していなかったようだ。吃りながら、説明を始める。

「だ、だって、あなたたち、お似合いだし……。それに、ヒューズ家の一人が、アメリカ国籍を取っていたら、今後の親族の発展のため、何かと有利になるわ」

 そんなところだと思った。十七、八の小娘が家族のためにできる貢献といえば、良家との結婚だけというわけか。

「私は大学に通い始めたばかりです。まだ、何も勉強をしていないのよ」

「ニューヨークに行けば、市民のために、大学が開放されているわ。なんでも、そこでお勉強すればいいでしょう。あなたはオランダ語、フランス語の他、英語の素養もあるの。心配は要らないわ」

 心配? 心配なんて全然していない。嫌なだけだ!

「私に結婚の意思はありません!」

「何を言うの、こんないいお話なのに――」

 叔母の言葉を、ダニエルが遮った。

「叔母さま、どうぞマリアを責めないでください。今日はどうにも、僕らのバイオリズムが良くないらしくて、機嫌を損ねてばかりいるんですよ。また、日を改めます」

 マリアは口を尖らせ、そっぽを向いた。

「明日であろうと、明後日であろうと、明明後日であろうと、私の気持ちは、変わりません。このアンティルを搾取しているアメリカの人間と一緒になるなんて、考えただけでもゾッとするわ」

 立ち上がろうとすると、逆に叔母の強い力で、再び椅子に座らされた。叔母が立ち上がる。

「この子は、なんてこと言うの! ああ、だから皆、懸念していたのよ。女が大学教育なんて受けようとしたら、余計な知恵がつくって」

 マリアは怒りの思いで、叔母を見上げた。

「余計な知恵がついて、思い通りに動かなくなる、ですか?」

 叔母は言い当てられた様子で、何も言えずに突っ立っていた。何度か深呼吸して、怒りを抑えているようだった。

 やがて、精一杯と思われる穏やかそうな声で、語りかけた。

「何が幸せか、考えれば、すぐにわかることですよ、マリア」

 マリアも冷静になろうと努めた。感情的に議論すると、言わなくてもいい問題まで、つい吐き捨ててしまう。

「一年か二年前の私なら、大人しく叔母さまたちの意見に従ったでしょう。でも、今は、違います。私は、政治家でも、議論好きの大学生でもないけれど、皆と同じように、この国を憂えています。アメリカにだけは、敗北したくないんです!」

 さすがのダニエルも、我慢ができないといった様子で立ち上がった。

「僕は、これで失礼します。ご家族の間に波風を立てて、済みませんでしたね!」

 叔母は慌てて、ダニエルの後を追った。

「ダニエル、ちょっと待って。マリアは本気で、こんな無礼な言葉を吐いているわけではないの。きっと、何かの書物にかぶれたかなにか、したんだわ。あなたの愛が本物であると示せたら、きっと考えも変わる」

 ダニエルは、くるりと向きを変え、叔母を睨み付けた。

「僕の愛が本物の証拠? 五カラットのダイヤモンドがいいんですか? それとも、マイアミに建つ別荘? マリアはアメリカがアンティルを利用しているような話をするが、僕こそヒューズ家に利用されているだけじゃありませんか! この話は忘れてください。二度と、お邪魔するつもりもありません」

 ダニエルはすたすたと、客間を出ていった。叔母とモリー・スーが追いかけるが、もう機嫌は治らないだろう。

 言いたいことを言って、久しぶりに気持ちがスカッとした。マリアは笑い声を立てたいくらい陽気な気持ちで、カウチの背に体を預けた。

 マリアは一週間、外出禁止を命じられた。

 この邸の中で、一人で演説をぶったって、誰も聞く耳を持たない。大人しく授業の復習をしたり、更に本を読む日々だった。

 ルイスと話ができたら、お勧めの本を教えて欲しい。それまで、あまり読む機会の少なかった政治に関する本を二冊ほど読んでみた。

 謹慎が明け、マリアはウィルダー大学に久しぶりに顔を出した。

 門のすぐ奥にホアンを見つけた。ホアンは大量のチラシを作り、大学を訪れる生徒たちに配っていた。

「学生よ、集え! これ以上、アメリカの帝国主義に平伏ひれふしてはいけない!」

 熱く語るホアンの前に、ちらちらと人は来るのだが、演説の声が大きくないせいか、今一つ盛り上がっていなかった。マリアは懐かしい思いで、ホアンに近づいた。

「私、何かお役に立てない?」

 ホアンは目を開き、顔を輝かせた。

「じゃあ、このチラシを配るのを手伝ってくれよ。ペロンが提唱した『反帝国主義の学生連合』を、アンティルでも結成しようと動いているんだ」

 ペロンといえば、ラテンアメリカの強大な一国、アルゼンチンの大統領であり、独裁者だ。独裁者の言葉を、ホアンたちは素直に聞くのか?

「ペロンは軍国主義者のはずだわ」

 てっきり、アンティルの未来を憂える若者たちには嫌われていると思ったが。やはり、アルゼンチンの聖なる女性、ファースト・レディのエヴァ・ペロンの影響が大きいのか?

「それでも、民族主義的だし、何より反米的だ。僕たちが共感する部分は多いよ」

「ルイスも同意見なの?」

「ああ。もうじき、ここにも来てくれる予定なんだけどな。いつも朝は遅いんだ」

 マリアは頷き、ホアンの横に立って、チラシ配りを手伝い始めた。

 ブロンドの白人女性が加わった事実に、通り過ぎる学生は目を開いた。マリアは精一杯の声で叫んだ。

「アメリカ帝国主義を許すな! アンティル国民のための政治を!」

 男子生徒のほとんどが、マリアからチラシを受け取ろうと、群がり始めた。ホアンが、ヒューッと口笛を吹いた。

「凄いな。ルイスがチラシを配っていたって、こんなに男は群がらないよ」

 マリアは愉快な思いで笑った。

「ルイスに群がるのは、男ではなく、女?」

「あはは、その通りさ。最近は気骨ある女性が結構いるんだぜ」

「ルイスに従いていきたいと思うような?」

「まあ、そうだね」

 そんな女がごまんといるのか……。ルイスの身近にいて特別な女になれるとは、考えないほうがいいのかもしれない。

「それにしても、驚いたな。政治には、まったく興味がなかったみたいだったのに」

 確かにホアンは、マリアが政治に燃えて会合に参加したわけではないと気づいていた。

「身近に、凄く嫌いなアメリカ人がいたの。それに、私の家族も腐っているわ。私をアメリカ人と結婚させて、自分たちだけ、いい目を見ようとしているのよ」

 そんな家族が、今はとても恥ずかしい。

 やがて、女たちに揉まれるように、ルイスが近づいてきた。帽子を脱ぎ、マリアに向けて大きく振ってみせる。

「見てくれ! 俺のサンタ・マリアが、あそこにいる! 俺たちの活動に共感して、共に戦ってくれることになったんだ!」

 ルイスは女たちを掻き分け、マリアの横に立った。マリアもにっこり笑顔を向けた。

「俺のサンタ・マリア。我々を真実の道に導いてくれ」

 ルイスはマリアの顎を指で捉えると、上を向かせ、唇を押し当てた。マリアは顔から火が出る思いだった。

「きゃーっ」と、悲鳴にも近い女の声が、あちこちで上がる。

 ルイスがマリアを抱いたまま、大きく手を上げる。いつの間にか周囲には群衆と呼べるほどの人間が集まっていた。

「ルイス、ルイス、ルイス!」

「我らが革命児ルイス! このアンティルを変えてくれ!」

 皆、拳を上げ、「ルイス、ルイス」と合唱する。マリアはここで初めて、ルイスがただの政治かぶれの学生ではないと知った。

「授業になんか出ないで、直接グアダルーペに行くだろう?」

 ルイスにしっかりと肩を抱かれ、マリアは戸惑ったまま、応えた。

「でも私、勉強をしに来たのよ。一週間も謹慎を食らっていた間に、授業に遅れてるんじゃないかと、不安なの」

 するとルイスは、マリアの前に来て、両肩を抱いた。

「授業なら、俺がいくらでもしてやる。俺たち政治革命クラブの意義、スローガン、具体的な行動目標、知らなければいけない問題は、たくさんあるんだ」

 いつの間にかマリアは、政治革命クラブの重要な一員になってしまったようだ。

 はて、困った。本当に、政治の問題には疎い。一緒に行動してたら、恥を掻くだけだ。

「ねえ、ルイス、私を買いかぶりすぎよ。私は、つまらない女なの。サンタ・マリアだなんて、もう冗談でも呼ばないでちょうだい」

「嫌だね。お前みたいな神々しい存在は、別の人間の手に渡ったら、あくどい使い方をされる。俺が側に傅いて、守っていかなきゃならないんだ」

 不意に、ぱんぱん、と発砲音がした。マリアは「ひぃいい!」と声を上げ、その場に蹲った。

 ホアンが即座に、発砲した男を特定し、指を刺した。

「あの男だ! 皆、捕まえろ!」

 群衆が、ぐわぁあっと動き、一人の男を押し潰した。男は押し潰されながらも、懸命に叫んでいた。

「ルイスは政府転覆を狙う革命家だぁ! アンティルを混乱に陥れる火種は、今のうちに摘み取っておくに限るんだぁああ!」

 男は屈強なルイスの護衛の者に両脇を挟まれ、マリアたちの前に連れて来られた。

 ルイスは男を見ると、ニヤリと笑った。

「カルロス、やはり貴様か。民主主義の犬め。もう二度と発砲できないよう、こうしてやる」

 ルイスは護衛が取り上げた拳銃を右手に持つと、カルロスの右手の甲に発砲した。

「うわぁああああああ!」

 カルロスの指も掌も吹っ飛び、赤い肉片が散らばった。

 マリアは目を覆った。なんて真似をするのか!

 カルロスは痛みにもだえ苦しみ、地を這った。ルイスは愉快そうに、地ベタを這いずり回る敵を見ていた。マリアの心に怒りが湧いた。

「こんな真似する必要があったの? もうペンも握れなくなるじゃないの!」

 ルイスはゆったりと笑みを浮かべた。

「左で書く練習をするんだなあ」

 そのとき、ホアンの緊迫した声がした。

「誰かが警察を呼んだようだ。ルイス、逃げるぞ」

「わかった」

 ルイスはそのまま、マリアの手を握り、大学の門の外に駆け出した。もうマリアには、ルイスに抗う勇気がなくなっていた。


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