チート勇者の治政下で。南大河都市(上)
私の22年の人生で、彼に出会ってから2年。短くても、それまでの人生と秤で比べれば遥かに重いだろう。
「ようこそ」
私が眠い目を擦りながら甲板に出ると、この5日間の船旅で知り合いになった水夫が出迎えてくれた。たくましく、よく日焼けした体が、白い朝日でくっきりと浮かび上がる。その水夫の手招きに従って、船の舳先にたどり着くと私は息をのみ目を瞬かせた。大河が白いもやに覆われている。まるで船が薄い雲の上に浮いているようだ。
「……凄い」
その言葉以上は過剰装飾だ。なんと言えば伝わるのだろう、首都の宿屋で見た巨大な絵画の風景を、現実で見てしまった驚きとでも言えばいいのか。目的地である南大河都市は、白い平原の遠くで蜃気楼のように霞んでいる。それだけでも朝の薄明かりの中では幻想的だが、さらにアクセントとして色とりどりの小舟がこちらに帆を張りこぎ寄せてきている。まだ港から出たばかりらしく、その姿は小さいが、オールと帆が巻き立てたもやが静止画に驚くほど活力を与えていた。
「さて。これから先は騒がしくなる。お客さんは船室に戻ってもらわなきゃな」
私が呆然としていると、水夫が話しかけてきた。振り返れば、どやどやと甲板には人があふれ始めている。一瞬の幻想は吹き飛ばされて、そこには現実の見慣れた景色が色を持ち始めていた。
「その、ありがとうございます。あれを見れて、本当に……陳腐で申し訳ないけど、感動しました」
「陳腐でなんかないさ、あれに何も感じない奴だっている。そいつらに比べたらあんたは上等な部類だ」
水夫は歯を見せて笑うと、私をそのまま甲板から丁重に追い立ててた。
部屋は小さいが清潔に保たれている。板同然のベッドに腰掛けて、私は今見た光景を思い出していた。そして同時にここにいない彼の事を思い出す。そう、彼は今ここにはいない。
「惜しいことをしました」
「お前はなに……不吉なこと言ってんだ」
「お帰りなさい、大丈夫ですか」
「大丈夫に見えるなら川に投げ落としてやる」
「残念ながら私泳げますよ」
タイミング良く船室のドアが開いた。私は彼が千里眼じゃないのかと時々思う。不用意な言葉を呟くと、いつも目の前に現れるからだ。しかし今日のお叱りは弱々しい。理由は簡単で、彼がとんでもない船酔い体質だからだ。短い船旅の間に、彼の岩に彫り込んだような厳格な顔つきはやつれ果てていた。
「水、いりますか」
「ああ」
幸いなことに、彼が必要とする真水の値段は港に近づくにつれて安くなっている。今船室に帰る前に購った値段は、少し高級な食堂くらいのものだ。粗雑な作りの金属ポットから、木製コップになみなみと注ぎ渡す。危なっかしく彼は受け取ると、一息で飲み干してまたコップを差し出した。
「あと一時間ほどで出発だそうです。それまでもちますか」
「ここまで来れたならもつさ」
そうは見えませんけど、とは口が裂けても言えなかった。
北大河都市は首都から見て南東の方角にあり、南大河都市はそこから反時計回りに9時から6時に向かって川を下った場所に位置している。距離は馬で昼夜駆けて3週間もかかるが、船を使えばわずか5日だ。遡るときは倍の時間がかかるらしいが、その事を聞くと彼はただ顔をしかめるだけだった。
この大河の管轄は商業連合だ。これは古くから、私が生まれる前からそう決まっていたらしい。そしてその頃から商業連合は大河を完璧に征するために商船を軍船としても利用していた。今は平和だから人と商品を運んでいるが、戦争の最中は色々物騒な物を運んでいた。その積み荷のサイズから船体は大きく、軍用の為に船底を鋭くして船足を良くしている。
「だから、こんなやっかいな上陸方法を使っているんだ」
「説明は後で聞きます。今は吐かないことに集中して下さい」
底の深い大船は南大河都市の浅い港には入れない。その解決策として、小舟を利用して積み荷を動かしている。本当なら、その方法に感心すべきなのかもしれないけど、彼の吐き気に戦々恐々としている今の私には無理だった。確かに人間も小舟で運ばなきゃいけないのは分かるけど、船酔いする人間にそれはきつすぎる。誰がこんな無茶なことをやろうと言い出したのか。
『船なら時間節約できるじゃないですか、これを使いましょうよ』
『陸の方が心配事が少なくて済む』
『時は金なりっておっしゃっていたじゃないですか』
『これはお前の選択だからな』
はい、そうでした、すみませんでした。
彼に肩を貸しながら、宿屋の部屋に転がり込んだのは朝食時から小一時間ほど経った時だ。部屋は北大河都市の宿屋と同じく、値段の割に広く、清潔で、ちょっと隅が黴びている。
「……今日は休む。お前は明日まで自由でいい」
「本当ですか!嬉しいですね。北では何もできなかったので、色々見て回りたいです」
「どこを見て回るつもりだ?」
「えーっと、その、お伝えする必要あります・・・・・・ああいえすみません。黒館に顔を出してから、商店街を冷やかして夕暮れ時にはこちらに戻ります」
「そうか。金はあるのか」
「別に買い物しようとは思っていませんよ」
私個人が自由にできる資金は、自由に物を購入できるほどではないのだ。物欲は人並み、ミックス並みにあるけれど、大河都市にあふれる品々は見て回るだけでもおもしろく、その欲を抑える役に立つだろう。
「そうか」
そうですよ、と笑って私は服を着替える。流石に一般の店を冷やかすのに、ちんけではあっても物々しさはある皮鎧は似合わないだろう。軍お仕着せの、灰茶色の長袖シャツと黒地に灰色の縦線が入った長ズボンに手足を通す。この服はまあ最低じゃない、ただとんでもなく野暮なだけだ。ささやかな胸のお陰で、シャツもそれほど似合わない訳じゃない。彼はめずらしくぼんやりと私の着替えを見ていた。船酔いが未だに酷いのだろうか、そう思って視線を投げると彼は口を開いてそれに答える。
「野暮の極地だ」
「そりゃあなたもです」
酷い感想だった。人に言われると、自分で思っていても傷つくものだ。私は彼が役立たずになっていたので鎧を身につけていたが、彼は船に乗ってからすぐに同じような服装になっていて、それは今も同じだった。彼に敬意を表して言うなら、元々男性用であるお仕着せは、彼にはそこそこに似合っている。それでも野暮な事は変わりない。
「これは似合っているんだ。お前はお世辞にも似合っちゃいないだろう。少しは自分の物でも買ってこい」
「え、本当に大丈夫ですか?具合、特に頭とか・・・・・・」
その返事に対するお叱りがあったのは言うまでもない。
黒館の立派な門構えの前で私は立ち止まり中をうかがう。出がけに彼が黒館と兵との仲が険悪になっていると聞いて、どう訪いをすれば良いか迷ったからだ。のどの奥でうなりながら、ふらふらと中をのぞき込み離れる円運動をしていると、不信に思ったのかいつの間にか門衛が私を睨んでいた。
「首都の方。なにかごようですか」
「いいえ、いやあの、はい。南部戦で面倒を見ていただいたので、お礼をさせていただけたらと」
「南部戦のお礼?それはまた時間があいていますね。2年も前のお話でしょう」
「本当はすぐに来れれば良かったんですけど。勝手が分からずこんなに時間が掛かりました」
「……ああ、そういうことですか。苦労されたんでしょう」
門衛の視線が私の服から、胸、顔の特徴に移ると、ようやくその険しい表情が緩んだ。
「しかしですね。南部戦だけでは誰だかわかりませんよ」
「そうなんですか?」
「ええ……ああ、知らないのですね?あの戦争に出向いた人数は、この支部だけでも200名程なんですよ。もちろん全員が少なからず人の命を救っているのです。その内の1人を探すのが難しいのは分かるでしょう。何か特徴は覚えてませんか」
そんなにここは規模が大きいのかと私は頭を抱える。私の常識では、黒館に常駐している人数は片手で数えられる程度だった。田舎と都会ではここまで差があるとは盲点で、ちょっと顔を出して挨拶してゆくなんて簡単にすむ問題じゃないらしい。黒館の人間は全員揃って黒装束に顔を黒塗りにしているから特徴なんてあっても普通は見分けがつかないに決まってる。
「特徴ですか?特徴ね、たとえば顔の黒塗りがベタ塗りじゃなくて不思議な模様だったりするのはどうですか」
正直言って、特徴になるとは思わず口に出していた。首都からここに下ってくる間に、ベタ塗りの他に模様を描く黒館の人間をたくさん見ていたからだ。
「模様でしたか?ほう、それならかなり絞ることができますね」だからこんな返事があるとは思いもよらなかったのである。
「いやー、まさかあの時の……」
「ミックスか雑種でいいですよ」
「すまないね、ミックスさんがお礼に来るなんて思いもしなかった。あれから具合はどうだい」
「ごらんのとおりの有様です」
目から口に向かって横縞模様、目の上に波模様を両方黒で描いた青年と私は机をはさんで向かい合っていた。どうせ無駄だろうと思っても言ってみるもんである。
「健康そのものみたいだね。そうか、それにしても2年とはまた遠い」
「私にとっては遠くても近いって感じです」
不思議そうな目で問いかける青年に、私は目を伏せて答えた。遠く感じても、まだ夢の中でははっきりと覚えている。
「まあ色々あるだろうね。今は、もしかして彼の下についているのか」
「はい。体が動くようになってから」
「大変だろうね」
「もう毎日叱られています」
青年は顔の不思議な模様をゆがませた。そのままお互いの近況を話したりした後で、私は先ほどから気になっていたことを口に出した。
「あの、こんな事聞いたら不味いのかもしれないですけど……」
「……勇者と黒館の関係かな」
「なんで分かるんですか」
「読心術。なんていうのは野暮すぎるね、本当はここ数週間で何度も様々な人に質問受けたからだよ。君の時間があれば説明するけども、大丈夫かな」
私は窓から外を見て、まだ昼前であることを確認して頷いた。
「えー。まず、黒館が何の略かは知っているね?その表情だと知らないか。正式名称、黒衣医術連盟館。略して黒館だ。ここは医術に関する事柄全てを扱っている。勇者との絡みは少し待ってくれ、で、黒館の特徴は3つある。1、不戦。2、全館拒否。3、患者と献体だ。不戦は聞いての通り戦争に参加しない取り決めだ。黒館は医術の為だけに動くことを根幹に活動しているから、戦争中に医療兵として参戦することはない。但し、戦争が終わった後で治療に当たることはほぼ確実だけどね。君もそれで救われたってわけだ。そうそう、名前の黒衣は非戦闘員であることを明示するために全員が真っ黒な服装をして、顔を黒く塗る所から来ている。僕みたいに若い世代は、少し反抗して顔のベタ塗りを模様にしちゃっているけれども……。次のは言葉じゃわかりにくいな、これはもしどこかの黒館が攻撃を受けた場合は、全館がその攻撃を行った国から立ち去るという行為を指す。錠剤一つ残さずにね。これは多くの国家に対して自治権を認めさせるのに効果的なんだ。黒館は知っての通り無料で医療を行っているからね。僕たちがいなくなると国民からの支持はだだ下がり、悪いと国外に出て行ってしまう。そして最後が誤解を生みやすい。患者は黒館の者と病人の契約、献体は黒館と病人の契約を指すんだ。色々細かいところが違うのだけれど、その2つの違いは一言で言い表せる。献体は黒館のものになるっていうことだね」
何度同じ説明をしたら、ここまで口が動くのだろう。そんなことを疑問に思っている間に、青年の説明は続いていく。
「献体は、難病重病の人を黒館が管理下に置くことで、全館の庇護を与えると同時にその病気を研究し快復させる事を目的とした方式だ。患者はあくまでも黒館から治療を受けているだけで、何の保護も受けることができない。つまり、献体に攻撃を加えた場合『全館拒否』が行われるが、患者だとそれがないってことだと覚えて貰えばいいよ」
いつの間にか、門衛がそばに来ていて机に水の入ったコップを置いた。黒一色なのに複雑なきらめきを持つ不思議なものだ。青年が水を飲み干すとそのままコップを持って去ってゆく。
「さてさて、ようやく問題にたどり着いた。今問題になっているのは、勇者が献体に対して誤解した上で、黒館の全館拒否を武力で止めている事にある。勇者の頭の中では、献体とは善良な市民を極悪非道で神をも恐れぬ所行をもってして薬物実験により化け物へと変貌させるものらしい」
「うへぇ……勇者がそんなことをいったんですか。それより、
そんな事言われる証拠があったんですか」
「証拠を残す馬鹿がどこにいるかね?なんて冗談を言う暇もないよ、首都の黒館に乗り込んできた勇者はべらべらと見当違いの事を言ってのけた挙げ句にそこの館長を殴り倒して献体の方々をさらったのさ。そしてその情報は黒館独自の情報網で行き渡り、一斉にこの国から出て行こうとしたんだ……しかし、勇者は医者が場所を離れることは許さないとあの馬鹿力で脅しをかけてきた。黒館の力は医術の知識にある。この力は大抵の暴力の矛先を納められるが、規格外で利己的な勇者の前には少々分が悪かったのさ」
今は時期が悪い、時期がね。と口でもごもごと呟いて青年は黙った。私としては、そりゃ行く先々で黒館の人々から睨まれる訳だと納得していた。
「その、ありがとうございます。でも良かったんですか」
「別に大丈夫だよ。今話したことは、事情通なら知っていることだし、勇者だってどうねじ曲がって伝わるか知らないけど、元々は同じ話の情報を聞いているはずさ」
その後すぐに門衛が青年を呼びにきた。なんでも患者が来ているらしい。長々と説明して貰ったことにお礼をして、ついでに船酔いに効く薬はないかとねだってみると、夕方頃くれば適当に処方してくれるという約束をしてくれた。この懐の広さが黒館が支持される理由なんだろう。
門衛に付き添われて黒館を出た頃には、ちょうど日が真上にあった。今日は私だけなので、自由気ままに昼食がとれるのだ。門衛に頭を下げてから、私は歩き出した。