ep.1 舞い降りる
驚きました。こんなに驚いたのは久しぶりです。生まれて初めてかも知れません。
だって、普通驚きますよ。こんなことがあったら。
夕飯の買出しに行ったスーパーからの帰り道。
天の川が輝く、綺麗な夏の夜空から堕ちてきたのです。
――翼の無い天使が。
私、狩鵜麗舞と言います。人より背丈が小さいのが少し気になる、16歳の高校一年生です。ごく普通の高校生、と言いたいところですが、ちょっと人には言えない秘密があったりします。
変なものが見えるのです。霊感、というものなのでしょうか。とはいえ、怖いものばかりが見えてしまう訳ではないのです。幽霊や妖怪のようなものから、樹に憑く精霊を見たこともあります。どうやら母からの遺伝のようですが、弟の凪津よりも私のほうがよく見えるらしいのです。
私はそんな秘密を抱えつつも、表面上はごく普通の女子高生として暮らしてきました。ですから、その光景は私にとっても想像を絶するものだったのです。
空に輝きながら落ちてくるものを見つけたときは、流れ星かと思いました。でも、よく見るとそれは人の形をしていて、銀色に輝いていたのは長い髪でした。銀細工のような綺麗な髪の女の子が、流星のように美しく夜空から落ちてくるのです――
まるで物語のワンシーンのような美しい光景にすっかり魅入られていた私は、肝心なことに気が付いていませんでした。
その女の子が――私に向かって落ちてきているということに。
そう、その女の子は、私の脳天めがけてまっさかさまに落ちてきていたのです。呆然と眺めていた私の危機回避能力は麻痺していました。避けることもできず・・・。
「ふぎゃ!?」
右手に持っていた買い物袋が地面に叩きつけられる音を聞きました。ああ、卵買わなくて良かった、と一瞬考え――私は自分よりも遥かに背の高い女の子の体に押しつぶされて、無様に地面へ倒れこみました。
女の子の身体は力が抜けてすっかり重くなっていました。動かないところを見ると、どうやら気絶しているようです。
地面を這うようにして何とかその身体の下から抜け出し、一息つきます。今まで人には言えない奇妙な光景を幾度と無く見てきましたが、こんな事態には未だかつて直面したことがありません。そもそも漫画や小説でこういった場面に立ち会うのは、男子高校生の役目なのではないでしょうか。
しかし・・・この状況、どうしたものでしょう。見なかったことにして逃げても構わないのかも知れませんが、さすがに良心が痛みます。起こして話を聞くぐらいのことはして置いたほうがいいでしょう。
地面に倒れた女の子の顔を覗き込んでみました。年齢は私とそう変わらないように見えます。長い睫毛に縁取られた瞼は閉じられ、白くすべすべとした肌は人形のよう。その女の子は同性でさえ見惚れてしまうほどの綺麗な姿をしていました。不思議な衣装を身にまとい、銀髪に飾られたその姿は正に人外。身体から発せられる強大な力の波は、人ならざるものの証です。
私は、頬を軽く叩いて意識を呼び戻そうとしていた手を、そっと引きました。あまりの繊細さに、触れただけで壊れてしまうのではないかと思えたのです。
「あのー・・・」
小さめの声で呼びかけます。睫毛がぴくっと奮え、次の瞬間。
鮮烈な色彩が私の目を射抜きました。
それは、とても美しい瞳でした。右の目は燃えるような赤。左の目は深い海の底を想わせる青。対極にある色彩が、一対になってぼんやりと私を見つめています。その色彩は、彼女を一層美しく――どこか不自然に、浮世離れした存在にしていました。
月光の下に架かる虹。夜空に煌めく太陽。彼女はそんな、とても綺麗で・・・歪んだ存在でした。
焦点の合わない瞳が私を見て、薄い紅色の唇が動きます。
『レオ』
女の子はそう呟いて、小さく笑ったように見えました。その目はこの場に居ない誰かを・・・大切な誰かを見つめているように、優しくて。
――やがて、女の子の瞳が私の姿をはっきりと捉えました。柔らかな笑顔は消えていき、そこに残ったのは警戒心を秘めた鋭い視線です。
女の子の表情は変わっていきます。幸せな夢から覚めるように。鋭く、硬く。
「誰?」
ゆっくりと起き上がったその女の子の声が、私に向けられていることに気がつくまで数秒の間がありました。
「人間?」
答えを待たず、再び質問されました。至って当然の事実を。
「えーと、か、狩鵜麗舞です。・・・人間です」
私は自分の名を答え、少し戸惑いつつも2つ目の質問にも答えました。
「そっか。・・・そうなんだ」
何かを確認するように女の子は2度返事をして、ふらりと立ち上がります。膝の辺りまである銀の髪がその動きに合わせて揺れ、月光を反射して煌めきました。
「不思議。人間には異世界のものを見る力が無いって聞いてたけど」
「あ・・・はい。でも、私のように見ることが出来る人もいるのです。ほんの少しですけれど」
――空から降ってきた女の子と普通に会話してるのって、結構異常なのかな。
そんなことを考えますが、この状況が余りにも現実味を欠いていて、目の前の質問に答えることしか出来ません。
「そう。あんまり驚いてないように見えるけど。慣れてるの?」
「えぇ、・・・まぁ」
あなたみたいにすっごいのは初めて見ました!とは言わないでおきましょう。
「あの・・・・・・天使さん、ですか?」
自分でも馬鹿げた質問だとは思いました。それでも、その女の子は私にとって、天使のように見えたのです。本の中でしか見たことのない、美しく、強大な力をもつ神の使いに。
私の言葉を聞いた女の子は、驚いたように目を瞠って、それから静かに笑みを浮かべました。先ほどの柔らかな笑顔ではなく、そこにあったのは自らに対する蔑みでした。自らを虐げて、女の子はとても哀しく微笑み、ゆっくりと答えます。
「私は、そんなに綺麗なものじゃない」
「綺麗な、もの・・・?」
私の声には答えず、女の子は星空を見上げます。夏の夜の熱気を含んだ風が、長い銀髪を撫でていきました。
「私はリオナ」
唐突な台詞に、一瞬何を言われたのか分かりませんでした。
「リオナさん、というのですか」
「そう」
リオナさんは軽く頷きました。少しの間を置いて、私は問いかけました。
「・・・ところで、リオナさんはどうして落ちてきたのでしょうか」
すっかり忘れていましたが、どうしてでしょう。そもそも、一番始めにこれを訊くべきだったのではないでしょうか。
――一瞬、リオナさんが、子供のような顔をしたように見えました。
泣きそうな、途方に暮れた小さな女の子のような――
「・・・・・・ちょっと、ね」
リオナさんは苦笑のようなものを浮かべて、私を見ていました。
――誤魔化した?
そう感じたものの、初対面のひとに対して余計な詮索をするのは野暮というものでしょう。私は気が付かないふりをしました。
「私はもう行くから」
じゃあね、とその場を去ろうとするリオナさんに、そのとき声を掛けてしまったのは・・・やはり、先ほどの表情がまだ気になっていたからなのかも知れません。
「リオナさんっ!もしかして・・・帰る場所、無いんじゃありませんか?」
驚いたような顔で振り返るその女の子を、どうしても見過ごすことができなくて。
「もし、リオナさんが・・・リオナさんが自分の家を探すなら・・・私、手伝いますっ!」
そのとき、嬉しそうに笑ったリオナさんの顔は、とても綺麗でした。
こうして私は、天界への帰り道を探すという、とんでもない役目を担うことになってしまったのでした――