第1話タイトル:ひまわり色のト長調
世界から音が消えて、どれくらいが経つだろう。
空を覆う灰色の霧「ミュート」は、人々の声も、街の喧騒も、すべてを無慈悲に吸い尽くしていく。
この世界で音を鳴らすことは自殺行為だ。音を嗅ぎつける怪生物「ノイズ」が、骨まで喰らい尽くしにやってくるから。だから人類は、手話と筆談で息を潜めて生きるしかなかった。
崩落したビルの屋上。吹き抜ける風すら無音の暗闇の中、僕は背負ったハードケースから「それ」を取り出した。
漆黒のエレキギター。旧時代の遺物であり、この世界における最高機密の音響兵器。
すぐ隣で、少女――アリアがノートを差し出してきた。
『奴らが来る。東から3匹。距離、あと百メートル』
彼女の綺麗な文字には、微塵の震えもない。生まれつき声を、そして音を知らないアリア。けれど彼女には、僕の鳴らす音が「光の色彩」として見えていた。
僕は黙って頷き、ギターのストラップを肩にかけた。
闇の向こうから、空間が歪むような違和感が迫る。姿は見えない。だが、霧を割って這い出てくるノイズの殺気を肌で感じた。
アリアがノートをめくる。
『構えて。テンポは一二〇。一撃で仕留めて』
僕は息を吸い、左手でネックを握りしめた。人差し指から小指まで、硬い弦を指板に押し付ける。
定石通りの、Gコード(ト長調)。
右手のピックを構える。心臓の鼓動が、無音の胸の中で激しく脈打つ。
伝えたい言葉があっても、声にはならない。この理不尽な世界への怒りも、アリアを守りたいという願いも、すべてをこの6本の金属弦に込める。
――ジャーン。
僕の右腕が振り下ろされた瞬間、世界が爆発した。
耳には何も聞こえない。しかし、ギターのジャックから伸びたエネルギーケーブルが火花を散らし、世界を覆う霧を一瞬で吹き飛ばした。
放たれたのは、黄金色の高密度な衝撃波。光の津波となったGコードの和音が、扇状に広がりながら夜の街を文字通り「一閃」した。
ギャァ、と叫ぶ暇すら大気に与えなかっただろう。突進してきた3匹のノイズは、黄金の光に呑み込まれ、分子レベルで粉砕されて塵へと消えた。
静寂が戻る。激しい演奏の残響が、目に見える光の粒子となって僕たちの周りをゆっくりと舞い落ちていく。
肩で息をする僕の前に、アリアがトコトコと歩み寄り、ノートを掲げた。
『今のGコード、今までで一番綺麗な、ひまわり色だった』
声は聞こえない。けれど、彼女の満面の笑みが、僕の胸にどんな爆音よりも強く響いた。




